第六章 それでも空は晴れるから 3
それは、突然だった。
静かに眠っていたはずのエリスが、突然苦しむように呻き始めた。
「エリス?」
うめき声に混じって、何か言葉が漏れ聞こえる。
痛い。助けて。——お前らみんな。
夢を見ているのだと、すぐに分かった。少し迷ったが、見ていられなくて肩を揺らす。
「エリス。エリス」
「………っ、は」
は、とエリスが目を覚まして、弾けるように体を起こす。
肩で大きく息をする彼は、泣き出す寸前の子どものような顔をしていた。
「エリス、だいじょう…」
声を掛けながらアスタが差し伸べた手を見て、エリスはひ、と表情をこわばらせた。
しまった、と手を引く。怯えさせた。軽率だった。
同時に我に返ったエリスが顔を歪める。
「ちが……ごめ、ちがう…!」
「エリス。大丈夫だから」
パニックを起こしかけているエリスを見て、遠目に見守っていたジニアが腰を上げた。エリスの息が整うのを待って、ベッドに近付いてくる。
息を吸って、吐いて。アスタは努めて穏やかに声を掛けた。
「——落ち着いたか?」
「うん。——ごめん」
ぎゅっと膝の上で握りしめられた手に、アスタは自分のそれを重ねる。
「大丈夫だ。気にしてない。悪かったな」
「……」
唇を噛みしめて、エリスは黙り込む。
落ち着いたと見たのか、ジニアが枕元に膝を付いて顔を覗き込むようにして尋ねる。
「体調はどうだ?」
「だいじょ…」
言いかけたエリスを遮って、ジニアが汗で張り付いた前髪を掻き分けて、額に手を置いた。
「まだ熱下がってねぇぞ。寝てろ」
「あ……」
びくりと肩を揺らし、どこか怯えるように瞳を揺らしたエリスの姿に、ジニアは苦笑して立ち上がる。
「寝たくねぇなら、何か食べるか?」
「……ごめん、食欲ない」
「水は飲めよ」
「うん」
ジニアが持ってきた水差しから、コップに水を注いで渡す。礼を言って受け取り、エリスはちびちびと飲んでいる。半分くらい飲んだところで手が止まったので、コップを受け取った。
薬を持ってこよう、と言ってジニアが部屋を出ていく。
「他のみんなは?」
「下で飯食べてるよ」
「……そう。なにも、ない?」
「何もないぞ。向こうにも動きはない」
「そっか」
よかった、とエリスが息を吐く。その傍によっこらせ、と座った。
沈黙が落ちる。耐えかねたように、エリスが口を開いた。
「——聞かないの」
「言いたくなったら聞く」
「なら聞いて。多分、今言わないとずっと言わない気がする」
おう、と頷いた。
夢をみたんだと、エリスは言った。思い出を辿るような、いっそ穏やかな声音で。
「昔の夢だよ。——本当はね。昔のこと、全部忘れた訳じゃないんだ。とはいっても、楽しい思い出何てひとつもないんだけど。悪夢みたいな出来事は、どうしても忘れられなかった」
「それは……コルチカムに瘴気が発生したときのことか」
「うんん、それより前。僕たちは、セントラルに住んでいてね。父さんは学者で、母さんは刻印士だった。五歳とか、四歳の頃だったかな。僕は、軍人に攫われたんだよ」
「は……」
絶句するアスタに、エリスは淡く笑みを浮かべて、シャツのボタンを外す。
「アスタはあの時気が付かなかったかもしれないけど、刻印式の中に一番深いものがあるでしょ?」
今度こそ、言葉を失った。
ジニアの診療所で見た。白い肌に、引きつれた傷がある。規則を以って刻まれた、術具に浮かぶ刻印式によく似ていた古い傷だ。そうだ、刀傷によく似ている。
その中心に、確かに他の傷よりも深いものがあった。
「夢で何度も見た。小さな剣を胸に刺されるんだ。剣はどす黒いものに覆われていて、それが体の中に入ってくる。痛くて泣いて叫んでも、周りの大人は助けてくれない。何か話していて。——笑っていた。ナルキース中将、だっけ?その人を見たのはこの時。あいつは笑っていなかったって言っていたけれど……本当のところはどうかわからない」
言いながらシャツのボタンを嵌めていく。ふふ、とエリスが笑った。
疲れ切ったように掠れた声には、蔑みと哀れみがあった。
「あの男を見たときに、頭の中が真っ白になって、気付いたら走り出してた。殺そうって思ってたわけじゃない。復讐してやろうって思ってたわけじゃない。なにもなかった。真っ白で、ただ、傷つけたかったんだと、思う」
怒りのままに。恨みのままに。憎しみのままに。
自分がそうされたように。
ごめんね、と零したエリスにアスタは首を振った。エリスが謝らなければいけないことなんてひとつもない。激情に呑まれながら、結局エリスは誰の血も流さなかったのだから。昏倒させられた軍人たちだって、一撃で綺麗に意識を刈り取っていたものだから、逆に傷一つない有様だったし。
「父さんと母さんが助けてくれたんだ。それから、母さんが瘴気を打ち消す刻印式をその上から刻んで、だから生き延びれた。コルチカムに移ったのはその後だよ」
ああ、そうか。エリスの胸に刻まれた刻印式は、醜悪な大人たちが私欲のために刻んだものであり、彼の両親が息子を救うために刻んだものなのか。
僕は、と遠くを望むように、エリスは続ける。
「楽しく過ごせていたのかな。友達はいたのかな。父さんや母さんと、どんな話をしたのかな。きっと、確かにあったはずなのに、何にも覚えていないんだ」
何も言えなかった。アスタには、父と過ごした日々の記憶がある。幼いころの、騒々しくも優しく、楽しくも穏やかな思い出は、今もアスタを支えている。歩き出さなければいけない夜明けも、立ち続けなければいけない昼下がりも、戦い続けなければいけない夜も。肩を抱くように、背中を押すように、確かに支えてくれた。
「でもきっと、僕はこの時に死んでおくべきだった」
「エリス」
ふるりと、ひとつ頭を振って、エリスが無理矢理に唇の端を吊り上げる。
「あの日。コルチカムが瘴気に覆われた日。僕たちは、突然襲われたんだ。父は撃たれた。母は刺された。あいつらはね、瘴気を放って、死にたくなければ浄化用の刻印式を使えと言ったんだ。あのガキが生きているのだから、ある筈だって。その言葉で、ああ、胸のこれを狙ってきたんだって、気付いた」
エリスがベッドの上で膝を抱える。まるで、泣くところをみられたくない子どものように。
「無様に逃げていくあいつらを、恨んで、憎んで、死んでしまえって。ずっと思って生きてきた。あの子たちと出会ってからも、ずっと、心のどこかで叫んでた。殺してやるって」
でもね。長い黒髪の向こうで、エリスがくしゃりと泣きそうに表情を歪める。
「本当は……本当は、僕のせいだ。あいつらのせいだって言い聞かせても、あの日の子どもが叫ぶんだ。ああ、僕のせいだ。——お前のせいだって」
声が震える。引きつれたような声で。彼は。
「父さんも母さんは僕のことを守って死んだ。僕がいなかったら、ふたりとも死なずに済んだんだ。あの人たちはいなくなった。僕のせいで死んだ。あの町も、僕のせいで滅んだ」
いなかったら。もしも、自分がいなかったなら。
ああ、それを、アスタは知っている。その後悔を。胸を掻きむしるような衝動を。
それは、アスタだって。
「だから、終わらせるつもりだった。この先、僕が生きているって知られない保証はない。そうなったとき、僕のせいで、あの子たちが巻き込まれることがないように。……気が付いてたんでしょ、アスタ。僕はこの先を考えるつもりなんてなかった」
あの雨の日、アスタとアミと出逢ったのは本当に偶然だったのだと、エリスは言った。何かが起きていると直感して、シオンに連絡を取った。情報を集めてもらって。これから起きようとしていることを知って、偶然を装ってアスタたちを助けた。
この行動で、自分の存在がバレることはわかっていた。それでいいと選んだ。
自分の存在を示せば、口封じか、利用するためにか、どちらかの理由で狙われるとわかっていた。目の前で死んで見せれば、あの子たちがこの先巻き込まれることはない。いつかバレると怯えて暮らすより、自分の意思で選んでみせよう。そう決めた。
一度くらいは、振り上げた刃を振り下ろす機会があればいいのだけれど。でもまあ、あの子たちの前で血を見せるくらいなら、そんな機会が来なくてもいい。あの子たちを泣かせても、恨まれることになっても、それでもいい。あの子たちが生きていけるのなら、それが良い。
なにより、エリスは疲れていた。いつか来るかもしれない日に怯え続けることにも、自分を責める声を聞き続けることにも。
ルリアをシオンの元に預けて、セージも同じように。ほんの少しだけ、アスタなら任されてくれるのではないかと期待した時だってあったのだ。
あの子たちに、安心できる場所を。それは、何も残せないエリスの、精一杯の死に支度だった。
——ようやく、これで終われると思ったのに。
それなのに、どうして今更。
「父さんも、母さんも死んだ。みんな死んだ。僕のせいで。それ、なのに………」
まるで罪を告白する罪人のような面持ちで、彼は言う。
「僕だけが、生きていてもいいのかな」
ああ、とアスタは思った。零れそうになった声を、唇を噛みしめて堪える。目じりに滲んだものを決して零さないように眉間に力を込める。
それはたぶん、アスタも知っている思いだった。わかるよと、細い肩を抱いて、訳もなく泣きわめいてしまいたくなるほどに。
知っている。その後悔を。悲嘆を。わかるよ。俺も、同じだよ。
ずっと、考えて、思って、答えが出ない問い。
——もしもを考える。
もしも、あの時。俺が父を止めることができていれば。
もしも、あの時。僕がさらわれたりしなければ。
もしも、自分が、いなければ。
大好きなあの人たちは、今も生きていただろうか。
考えることがある。あの人たちが死んでしまったのに。自分はそのきっかけを作ってしまったのに、今もこうしてのうのうと生きていていいのだろうか。決まっている。いいわけがない。許されるはずがない。
——どうして、と思う。
どうして、あの人たちはいないのだろう。
どうして、こうなってしまったのだろう。
どうして、自分だけがここにいるのだろう。
どうして。どうして。どうして。
考えても、駄々をこねても、答えはでない。教えてくれる人はいない。抱きしめてくれる人も、いない。
だから。
だから、アスタが答えを返さなくてはいけない。答えを出さなくてはいけない。
抱き続けた疑問に。問い続けた思いに。
——生きていてもいいのか。その価値があるか。その意味があるか。
その覚悟が、あるか。
「わ、わからない。わからない、けれど」
エリスの身に起きたことも、アスタが経験したことも。悲劇というものなのだろう。その裏には悪意があった。理不尽があった。
心の奥深くに根差した痛みは、きっともう取り除けない。
憎しみがある。恨みがある。呪いが、ある。
お前のせいだと、囁く声が、ある。
自分のせいだと、叫ぶ声が、ある。
「だけど……だけどな、エリス」
エリスは、未来の話をしなかった。わざとらしいほどに避けていた。大事な子どもたちの為にも、死なないといけないと思っていたのだろう。また自分のせいで大事な人たちが傷つく、その時が来る前に。
ルリアはそれに気づいていたから、どこよりも安全なイヴェールに身を置いた。セージはそれに気づいていたから、エリスから離れようとしなかった。大事で大切で、大好きな兄の為に。
エリスだって、子どもたちの思いに気付いていたのだろう。弟の行動を止めなかったのは、自分のせいだと責める気持ちと同じだけ、まだ一緒にいたいと思う気持ちがあったから。
だって彼は言った。生きていてもいいのかな。
——そうだよな。だって、あんなにあの双子を大事にしていたんだ。楽しそうに話していたんだ。一緒にいたいって、思っているよな。
ひとつ、息を吐いて、頭の中をぐるぐると回る言葉から、伝えたい思いを探す。
この言葉を、アスタが口にしてもいいのだろうか。自分たちのせいで死んだあの人たちは、許してくれるだろうか。わからない。
死者の思いなんて、これっぽっちだってわからない。だってアスタたちは、生きているのだから。
そう、アスタは生きている。死にかけたけれど、生きているのだ。
発作が起きた時。息が出来なくて、心臓が痛くて、血を吐いて、アスタは死にたくないと思った。死ぬことが恐ろしかった。いやだ、と心の底から思ったのだ。
アスタの裡に、寄り添うように思い出す言葉がある。
——忘れないでね、アスタ・エーデルワイズ。いつだって、君のことは君自身が選ぶのよ。
——生きていてくれりゃ、それだけでよかったんだな。
旅の中で出会った人たちにもらった言葉に背中を押されて、祈るようにアスタは言葉を紡ぐ。
「——それでも、俺たちの人生は俺たちのものだ」
生きていてもいいんだよ、と。今はもういないあの人たちが許してくれなかったとしても。
アスタは胸を張って言う。いいよって。もちろん、当たり前だろうって。
アスタだけじゃない。双子たちも。それからきっとアミやシオンやジニアだって。いいよって、笑うだろう。
そして、アスタも。彼らに、いいよって、笑って言ってほしい。
いなくなってしまったあの人たちに、ここにいて欲しかったと願うのと同じように。
「俺は生きていたい。アスタ、お前にも」
エリスの手を握る。揺れる紫の瞳を、真っすぐに見据えて。
たったひとつ。伝えたかった言葉を口にする。
「生きていて、欲しいよ」
エリスは、ぼんやりとアスタを見ていた。何かが削ぎ落ちたような貌だった。
あ、と。
エリスが小さく息を零した。噛みしめていた唇が綻ぶ。ぐっと何かを呑み込むように眉を寄せて。それから堪えきれなくなったように紫の瞳から溢れた雫が、頬を滑り落ちる。
それは、花弁に乗った雨粒が、重さに耐えかねて零れ落ちる様によく似ていた。
「————ああ」
まるで子どもに戻ったように、エリスは泣いた。声を上げて、零れる涙をぬぐうこともせずに。
ぎゅうぎゅうとアスタの手を握りしめたまま。泣いて、泣いて、泣きじゃくって。
それからようやく、彼は絞り出すように、たった一言。
しにたくない、と。
たった一言、そう言った。
うん、とアスタはただ頷く。
「————わかってる」
わかってるよ、エリス。
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