エピローグ 家路 2



 雨上がりの空には雲一つなく、鮮やかな群青が広がっている。

涼やかな風が吹く、穏やかな昼下がり。

 軽やかな足取りで石畳の道を踏みしめる子どもに、笑みを含んだ声を投げる。


「アミ、アミ。そっちじゃないよ」

「はーい!」


 ぴょんぴょんと跳ねるアミを後ろから追いかける。はやくはやくと手を振る彼女を追いかけて、アスタは手に持った地図を見ながら左に曲がって、と声を掛ける。

 地図はシオンから渡された。待たせたわね、の一言と共に。

 セントラルの端に位置する町。大通りから中に入った住宅街を、地図を見比べながら道を進んでいく。

 この先には、家がある。

 アミの帰る、家が。


「エリスさん、一緒に来れたらよかったのに」

「仕方ないな。あいつ、まだセントラルに近づくわけにはいかないから」

「そっかぁ」


 頬を膨らませるアミの背中を追って、角を曲がる。その先に。


「あ!」


 アミが足を止めた。小さな背中のすぐ傍に寄り添うように立ち止まり、期待と不安に揺れる視線を辿る。

 ありふれた形をしている家の前に、一組の夫婦が立っていた。先に連絡が入っていたのだろう。きょろきょろと落ち着きなくあたりを見回して、誰かを待っている。

 そっと、アミの背中を押した。ぱっとアスタを見上げたアミが、こくりと頷いて走り出す。

 迷うこともなく一直線に、少女が駆けていく。

 青い空を映す水たまりを軽々と飛び越えて。

 喜色を滲ませた声が、晴れ晴れと会いたかった人たちを呼ぶ。


「お父さん!お母さん!」


 弾かれるように顔を上げた二人が、駆けてくる子どもを認めて、堪えられなくなったように走り出した。


「アミ!」


 母親が広げた腕に勢いよく飛び込んで、アミが声を上げて泣き始める。ぎゅうぎゅうと抱きしめる母親に覆いかぶさるように、父親の腕が回った。


「おかえりなさい」


 噛みしめるような言葉に、少女は弾けるような笑顔で答えた。


「ただいま!」


 親子の再会。

 いつかどこかでは叶わなかった光景。

 必ず訪れるのだと、そう信じると決めた未来。

 全身の力が抜けるような安堵が込み上げる。


「………よかった」


 アスタの旅は、ここで終わり。

 本当は、エリスにもここにいて欲しかったけれど。生きているのだから、きっとまた会えるだろう。

 穏やかな気持ちでアミたちを見守りながら、アスタは祝福を送る。

 いつかそうなると、信じたように。


「——花が降り注ぎますように」


 できればたくさん。

 その腕に、抱えきれないくらいに。






 ※※※


 昼と夜が混じり合ったような色が広がっている。焼け落ちそうな夕暮れの空だ。

 一日の終わりが始まる時間。赤く染められた階段を踊るような足取りで登る姿がある。

 診療所の裏にある、手入れがされていない長い階段。階段を登り切った先には高台があって、手すりに寄りかかるようにしてジニア・リンネリスが煙草を吸っていた。

 銀色の髪が赤い光を反射して風に揺れている。精悍な貌に憂いを見た気がして、エリスは明るく声を掛けた。


「ジニア、タバコはやめたんじゃなかったの?」

「おう、エリス。これが最後の一本だよ」


 ジニアが長い指で挟んだ煙草をひらひらと振る。


「はいはい」


 最後の一段を跳ねるように飛び上がり、ジニアの隣に寄りかかる。


「アミは帰ったのか?」

「うん。さっきアスタから連絡があったよ」


 シオンの情報を元に、アミのご両親と無事に会えたこと。

 約束通り、ちゃんと送り届けたぞと、少しだけ弾んだ、安堵を滲ませた声が語った。


 ——落ち着いたら会いに来てってよ。

 ——うん。行くよ。絶対に


 紫煙をくゆらせながら、そうかとジニアが目を細める。


「よかったな」

「そうだね。あの子が家に帰れて、本当に良かった」


 これでアスタの肩の荷も下りただろう。彼の旅は、そのために始まったのだから。

 いつか、会いに行けるだろうか。家に帰ることが出来た、あの子に。笑顔で、手を振って、当たり前のように。

 くしゃりと、たばこを持っていない方の手がエリスの頭を撫でた。


「お前も、試験合格おめでとう」

「……ありがとう。お世話になりました」


 本来、軍から逃げていたエリスが、医師免許の試験なんて受けられるわけがない。オレアンダーで唯一の医師という立場だったとはいえ、正式なものではなかったのだが、そのことを知ったトレイトとナルキースが医師免許試験への受験資格を融通してくれた。先日、難関と言われる試験に合格したエリスは、ジニアの元で研修医として経験を積むことで、正式に医師と名乗れるようになったのだ。

 というわけで、エリス・ユーフォルビアは現在ジニアの診療所で彼の助手として働いている。

 もちろん、セージも一緒だ。ルリアはエリスの生活とアヤメの状態が落ち着くまではシオンの所で世話になることになった。

 シオンに助けられたアヤメ・クロコスは、無謀な術具使用で霊脈がぼろぼろになっていた。彼女の療養中は、イヴェールに滞在していたエリスが主治医として診ることになった。意識が戻り、回復してきたアヤメと、ぽつぽつとだが話をすることが出来た。彼女は詳細を語らなかったが、自分のせいだと彼女が思い悩み、適応外の刻印式を発動させるなんて暴挙に出た理由も、なんとなくだが推測ができる。

 君のせいではないとエリスは伝えたが、きっとそれだけでは足りない。

 足りない部分を補える誰かは、もうどこにもいないのだろう。


「お前は、これからどうするんだ?」

「……アスタから教えてもらったんだけど、コルチカムへの移住が来年から可能になるって。その前に、トレイトの計らいで僕とアスタが町に入ってもいいことになったんだ」

「里帰りか」

「うん。十二年……もう十三年前か」

「コルチカムに住むのか?」

「まだ決めてない。セージやルリアとも話さないと」


 未来の話を当然のようにできることを、うれしいと思う。それは本当だ。だが、どこかでまだ誰かが囁いているような気がするのだ。お前のせいだと。

わかっている。それは罪悪感だ。エリスが抱えて、抱え続けて、これからも抱えていくものだ。

 ふう、と煙を吐いて、ジニアが空を見上げる。雲一つない空は、夜の色を拡げていた。


「俺さ」

「うん」

「あー……」


 言い澱んで言葉を探すジニアに、エリスが小さく笑った。


「この前訪ねてきてた人?」


 数日前、日付が変わる頃に診療所を突然訪ねてきた人がいた。顔も見てない。声も聴いていない。だけど、ジニアが嬉しそうにしていたことは気が付いていた。同室で休んでいたセージと顔を見合わせて、取り敢えず明かりを消して就寝したくらいには。


「気付いてたのか。……そうだ。ルードが出ていったあとに同居人がいたって言っただろ。世界を見てくるって飛び出していった奴」


 ジニアがゆるりと目を細める。懐かしむように。穏やかな声が続ける。


「あの時、一緒に来ないかって誘われたんだ。断ったんだけどな」

「今回は一緒に行くんでしょ?」


 きょとん、とジニアが目を瞬かせた。なんでわかったのか、と言わんばかりの表情をしている。

 答えは聞かなくてもわかる。だって、本当に嬉しそうだったのだ。次の日の朝に会えるかと思っていたが、その人はすでに去っていた。彼らには彼らの過ごした時間がある。アスタとエリスが一緒に旅をしたように。

 きっと彼らは、また肩を並べて歩き出すのだろう。

 黄昏を背に、ジニアが笑う。


「取り敢えず、お前を独り立ちさせてからだな」

 







 ※※※


 夜色が広がる空には、光をぶちまけたような星が瞬いていた。

 ざっと吹き上げた風が、薄紅の花を纏って夜空を舞う。


「——シオンさん」


 呼びかける声に少女が振り返る。最近ようやく起き上がれるようになったアヤメがぺこりと頭を下げた。

 ふわりと花のようにシオンが笑う。


「あら、アヤメ。体はもういいの?」

「——うん。もう大丈夫」


 ふふ、と笑うシオンの隣にアヤメが並び、桜の木を見上げる。

 瘴気が消えても、世界が変わっても、花は変わらず美しい。


「あの、シオンさん」

「うん?」

「どうして、私を助けてくれたんですか」


 シオンは基本的に依頼を受ける形で行動する。理由が要るのよ、と彼女は以前語った。中立で在るために。どんな相手であろうと、報酬を支払うのであれば、客であるのだと。それは裏を返せばどんな相手であろうと、報酬を支払う必要があるということ。ルリアが店で働いていたように。エリスが用心棒の真似事をしていたように。私情は挟まない。願いがなければ、願ってもらわなければ、シオンは動けない。動かない。


「ルリアにお願いされたからよ。報酬はすでに受け取っている。——けど、それじゃあ足りないのよね」

「はい。私が支払えるものであれば」


 目が覚めた後、死ぬつもりだったのかと、アヤメはヤフランに怒られた。少し違う。死んでもいいかと思っていたことは否定しないけれど、死にたかったわけではない。自分の命よりも優先するべきものがあっただけだ。命を天秤に載せてでも、果たしたいものがあっただけ。

 ゆるりと、シオンが目を細める。


「——アヤメ・クロコス。君、この店を継ぎなさい」

「はい。——はい?」

「情報屋の方は畳むから、表の方だけね」

「いや、待ってください。え?」


 拍子抜け、といった表情でアヤメが黒の瞳を瞬かせる。


「なあに」

「あなたはどうするんですか」


 シオンが悠然と笑う。慈愛に満ちたようにも、何かを見通すようにも見える眼差しで。


「安心しなさい。慣れるまでは居てあげるから」

「いや、そうじゃなく……。もう」


 仕方ないか、とアヤメは苦く笑う。この人のことは、相変わらず良くわからない。どこか浮世離れした、とてもきれいな人。優しくて、強くて、穏やかで、柔らかく笑う人で。たまに違う世界の人のように思える時がある。

 軍に戻るつもりがなかったアヤメにはちょうど良い話ではある。狙ったのか、たまたまか。この人に限っては、偶然の二文字は通用しない気もしている。


「……ご指導、よろしくお願いいたしますね」

「ええ。とりあえず、君は体調を整えるのが先ね」


 こくり、と頷いて。そういえば、と世間話のつもりでずっと気になっていたことを尋ねる。


「店の名前って、何か由来があるんですか?」


 イヴェール。シオンが付けた名前だとは聞いたことがあるけれど。

 意外なことを聞かれた、という風にシオンが目を瞬かせる。

 それから、彼女は薄紅の向こうで笑った。花のように美しく——冬の夜のように静かに。


「——ないしょ」




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