エピローグ 家路



 それから、半年の時間が過ぎた。

 世界は確かに変化した。瘴気は祓われ、花が降り注いだ。

 取り戻した大地は、やがてかつての姿を取り戻すだろう。

 

 

 そして。アスタとエリスは。






 お久しぶりです、と新しいウィスタリアの指導者は嬉しそうに目を細めた。

 太陽が空高く昇ろうとする頃。まだ活動を始めるには早い時間に、アスタはセントラル軍本部の奥に位置するトレイト・カーパスの執務室を訪れていた。

 軍部内だというのに、私服に身を包んだアスタは、居心地の悪さを誤魔化すようにこほんと咳払いをひとつ。


「——どうして自分は呼ばれたのでしょうか」


 ため息まじりに尋ねるアスタに、トレイト・カーパスはおかしそうに笑った。どこか疲れているように見えるのは、多分気のせいではない。


「嫌だなぁ。世間話でもしたいなぁっていう年下からの甘えです」

「なるほど。——本音は?」

「少しくらい乗ってくれてもよくないです?」

「察してください先輩。狸たちとの腹の探り合いばっかりなんです」


 部屋の真ん中に置かれたソファで資料を読んでいたルードが苦笑。最近強かになったと噂の後輩を振り返って眦を下げる。


「元気そうだな、ルード」

「はい。元気に狸をぶん殴るタイミングを見計らっています」

「その時は全員仕留めましょうね」

「こほん。……そうだ、先輩。先輩の遺書を持ったままなんですが、どうします?」


 あ、と思わず声が漏れた。忘れていた。


「破っていいぞ。あ、いや。そんなの頼まれても困るか。今持ってるか?」

「さすがに持ち歩いてはいないので。わかりました、びりびりに破くのと、燃やすのと、どっちがいいですか?」

「なんだその選択肢は。別に恨みは籠ってないぞ?」

「どちらかというと俺の恨みなので。わかりました、塵にします」


 ちらりとトレイトを見遣ると、彼は黙って肩を竦めた。

 仕方ないと言わんばかりのため息とともに、表情が切り替える。若干十四にしてウィスタリア国軍の一番上に立つ少年は、その立場に見合った厳粛な表情を浮かべた。似合わないな、と頭の隅で思った。


「色々と不満、苦情はありますが、感謝を。世界を救ってくださり、ありがとうございました。戦争も止まり、ハイリカムとの交渉も順調です」

「何のことだかわかりませんが」


 白々しく肩を竦めるアスタに、トレイトは小さく笑う。


「相変わらずの独断専行でしたね、先輩。ローダン先輩がやっぱあいつムカつく!って叫んでましたよ」

「あ、ローダン元気?」

「元気に叫びながら未踏地域の調査に行っていますよ。左遷されるかもと言っていましたが、立派に出世街道爆走しています。凄いですねあの人」


 ふうん、と気のない返事を返す。

 ローダン・マングルスとは、あれから一度だけ話をした。

 瘴気が晴れた数日後、子どもたちが寝静まった夜に、彼は慣れた態度でイヴェールを訪問してきたのだ。



 よお、と。

 シオンに呼ばれて店に降りたアスタへ、まるで昨日も会っていたかのような気安さで、ローダンは片手を上げてみせた。


「お前ひとりか?なんて言い訳して来たんだよ」


 訳知り顔でローダンはエリスがいる二階へと目を向けた。言い訳も何もない。話してくると正直に伝えて、いってらっしゃいと送り出された。それだけだ。


「お前こそ、何て言って抜けてきたんだ?」

「そりゃあ、友人に会いに、だ」

「思ってもいないことを」

「嘘も方便って知らねぇ?——で。何か俺に聞きたいことは?」


 三白眼をにんまりと細めながら、ローダンは近くの机に寄りかかり、湿った焦げ茶色の髪を鬱陶しそうに掻き上げる。

 愉快そうな、悪戯好きの子どものような表情は、同期として初めて顔を合わせた時から変わらない。

 アスタとローダンはタンジーの一件で衝突した。味方を守るためにしか戦えなかったアスタと、それを臆病者だと罵ったローダン。別に仲が良かったわけではないが、この一件で決定的に決裂した。

けれど。決裂はすれど、お互いの実力はよく知っている。立場は変わっても。

 ちゃんと、知っているのだ。

 ローダンはキリカ・スターチーの護衛としてコロナリアに訪れた。エリスがナルキースに向かって行っていたとしても、その阻止のために動いたとしても、護衛対象から完全に意識を外してしまうほど未熟ではない。

 と、いうことは。


「——お前、わざとキリカ・スターチーの傍を離れて隙を与えたな?」


 にやり、と。

 口の端を吊り上げて、ローダンが笑う。それが何よりの返答だった。

 ローダンが上司を裏切ったわけではないだろう。元々、彼はキリカ・スターチー側の人間ではないのだ。スパイ、あるいは内通者。


「……お前、ヴィレンスの部下だったのか」

「おいおい、仮にも現総統閣下を呼び捨てかよ」


 ローダンが呆れたように肩を竦めるが、否定はしない。つまりはそういうことだ。

 現在、国軍は大きく二派に分かれている。現総統ヴィレンス・カーパス派とキリカ・スターチー派。アミを利用しようとした実験、あるいはタンジーの内乱を端に発する今回の一件は、ヴィレンス派が企てたもの。だというのに、表立って動きを見せたのはハウレン・ナルキースとキリカ・スターチー。ナルキースは結局ヴィレンス派を裏切っていたわけで、キリカ・スターチーは対立派閥。いくらなんでも、ヴィレンス側の動きがなさすぎた。影で実験を推し進めていたのだとしても、裏切り者を同じく裏切り者だけが追っていたというのは不自然だ。カジェラでヤフラン・リリタールが襲ってきたくらいか。その彼にしてもナルキース側に付き、いつのまにかトレイト・カーパスと取引をしていた。政治家としても、戦略家としても、辣腕で知られるヴィレンスが取る動きとは思えなかった。


「コロナリアでの襲撃は、お前たちの仕業だな」


 襲撃犯はハイリカムだと断定されているが、どこが情報を漏らしたかについては判明していなかった。ナルキースたちが情報を漏らす理由はない。トラデスティは否定した。


「お陰でお前は動きやすくなっただろう?」


 ローダンが目を眇めて笑う。アスタとアミ以外の全員が殺されたというのに、全く気にもしていないような様子だった。


「……俺を選んだのも?」

「お優しくて甘いお前は子どもを助けようとすると思ったからな。そこはナルキースたちと同じだよ。キリカ・スターチーが表舞台に出てくるまで、子どもには生きていてもらう必要があった。でなけりゃ、実験は失敗だったの一言で事態が収まっちまう」


 それが、ローダン・マングルスとしての言葉なのか、それとも軍人としてのものなのか、アスタにはわからない。


「ああ、ヤフラン・リリタールをお前の追手にしたのは、ナルキース側に寝返ってもらうためだ。アヤメ・クロコスとの繋がりは知っていたからな。彼女が関わっていることを知れば、そっちに協力することはわかっていた。妙なタイミングで動かれるよりマシかと思ったんだが………まさか、トレイトにまで尻尾を振るとは思っていなかった」

「トラデスティと手を組んでいたのも、お前たちだろ」

「ほー?どうしてそう思った?」

「トラデスティはアヤメ・クロコスやハウレン・ナルキースと手を組んでいたと言っていた。だが、あとから考えるとおかしい。確かに、アヤメもナルキースは実験の中心人物だが、だからこそ何故ヴィレンスを裏切ろうとしていると知ることができたんだ?内通者を送っていたにしてもトラデスティに都合が良すぎるし、ナルキースたちが迂闊すぎる」


 ナルキース側からトラデスティに接触したのだとしても、その理由が浮かばない。協力者にするにしては、反社会組織であるオレアンダーとの繋がりはリスクが大きい。離反というリスクを抱えた状態で、ナルキース側から動くほどの利点にはならない気がする。


「正解。オレアンダーと手を組んだのはこっちが先」

「——なんで、こんな回りくどい真似をしたんだ?実験を止めるためじゃないんだろ」

「そうだ。——お前さ、ヴィレンス総統の体調が思わしくないことは知っているか?」

「知ってるが……それ機密だろ。こんなところで言ってもいいのか?」

「知ってる奴が何言ってんだ。どうせここの店主に聞いたんだろ。体調を崩したのはここ一年。お前の言う通り、公表せずに伏せられてきたが、噂ってのはどうしたって回る。地位を盤石にしたい現総統側と権力を得たいキリカ側の動きが活発になっていた。権力闘争ってヤツだな」


 ヴィレンス総統の容態悪化の要因について、ローダンは語らなかった。アスタも聞かなかった。それこそ機密に違いない。


「実験については総統も把握している。ナルキースとクロコスが上層部を相手に告発に動いたことも。奴らがキリカ・スターチーと手を組もうとすることも。彼女がそれに便乗するだろうことも」


 ナルキースたちが告発に成功していたら、ヴィレンス側の権力者たちを追い落として、キリカ・スターチーが総統の座に就いただろう。実際にはトラデスティがキリカの秘密を暴き、トレイト・カーパスが動いたことで、彼女は逆に追い詰められる側に立つことになったが。


「トラデスティに近付いたのは、あの男がキリカ・スターチーを探っていたからだ。探っていた理由までは知らなかったが、彼女を失脚させるという約束で手を組んだ。トラデスティがナルキースたちに近付いたのはその後。キリカ・スターチーを引っ張り出すために、あの男は随分うまく動いてみせた」

「トラデスティの邪魔しないことが条件か」

「もうひとつ。オレアンダーの安全保障。あいつはこっちを先に提示した」

「——ああ、そうか。ハイリカムの、あとの敵」


 彼らはすぐに、次の敵を探す。そう言ったのはシオンだったか。

 ローダンがぴくりと眉を跳ね上げた。


「気付いていたか。そうだ。ハイリカムが姿を消せば、次はオレアンダーに狙いを定める。トラデスティはそのことを知っていた。——だが、総統にとって問題はそこじゃない」

「その次か」


 オレアンダー頭領であるトラデスティにとって、国軍が攻撃を仕掛けてくることは何としても避けたい出来事だった。だから彼は計画に乗った。だが、攻め入る側の国軍総統にとって、阻止したいのはその次。オレアンダーさえ滅ぼした、その後。


「そうだ。オレアンダーの次は?戦い、滅ぼし、奪いつくしてきたウィスタリアは、外に敵がいなくなった程度で止まりはしない。実験が良い例だ。理由を探し、建前を振りかざし、必ず更なる利益を追い求める。外がいないのなら内で。ヴィレンス総統は、そこまで自分の身体が持たないと気が付いていた」

「………トレイトのため?」


 総統の座を巡る権力闘争。ヴィレンスの最も近しい血縁として生まれてしまった以上、トレイトはどうあったって血と呪いに塗れた権力者たちの醜い争いに巻き込まれる。担ぎ上げられたとしても、キリカが総統の座に就いたとしても、彼に平穏はない。巻き込まれ、呑まれ、奪いつくされる。そうだ。誰もがそう思っていた。

 だけどトレイトは自らの足で歩き出した。敷かれたレールの上だとしても、彼は自分で考えて選んだのだ。 


「さあ?あの人はその名前は出さなかった」

「もうひとついいか」

「どーぞ」

「——エリスのことは、知らなかったのか」

「知らん。まあ、実際のところは想像出来るが、それだけだ。総統からも特にない。安心したか?」

「ああ。ありがとう」


 エリス・ユーフォルビア——レン・ファレノシスのことはもう追わないと、そういうことだろう。

 よかった、と隠さず肩の力を抜く。瘴気はもうないとはいえ、だからこそ瘴気を利用しようとする奴らが出てこないとは限らない。そういう奴らにとって、エリスは何に置いても手に入れたい存在なのだから。彼の胸の刻印式についてはジニアも含めて相談中だ。アヤメにも意見を伺いたいところである。

 安堵を滲ませるアスタを、ローダンは感情の読めない目で見ていた。やがて、ふっと息が漏れるように笑みを浮かべると、これまた慣れた足取りで店を後にした。

 見送りは、しなかった。


 ——あれからローダンとは一度も会っていない。

 心の隅くらいで心配していたのだが、元気ならよかった。


「それから、現総統であるヴィレンス・カーパスが昨夜息を引き取りました」


 父親の訃報を口にするには、その声には温度がなく、その顔には感情がなかった。


「………そうですか。お悔やみ申し上げます」

「ありがとうございます。勝ち逃げされた感が否めませんが、文句を言っていても仕方ありません。発表は明後日。その後、議会からキリカ・スターチーの辞職も同時に発表されます」


 相次ぐ軍内部の不祥事の責任を取る、というのが表向きの理由だが、実際は彼女自身の不祥事への処罰である。トラデスティの証言が認められたのだ。公表はできなかったが、人の口に戸は立てられない。  飄々としたオレアンダー頭領は、だろうと思ったよと肩を竦めていた。失望も落胆もなく、いつも通りの胡散臭い笑みを浮かべて。


「後継者についても同様に公表される予定です。僕の成人まではハウレン・ナルキースが後見人として立つことになりました。彼は僕が成人したら引退すると言っていますが、しばらくは逃がしません」


 身を粉にして働いてもらいます、と言い切る彼は、力強い眼差しをしていた。オレアンダーで出会った時と同じように。ナルキースも逃げたりはしないだろう。なにせ、エリスの目が怖い。

 ——これくらいやりなよ。悪いと思ってるんならね。

 やるよね、できないの、と言わんばかりのエリスの冷ややかな声を思い出す。

 多分ナルキースは一生エリスに頭が上がらないと思う。一応誤解というか事情は把握したらしいが、それはそれとエリスの眼光は鋭い。ちなみにエリスの方はオレアンダーでの一件を謝罪していた。謝罪した上で、顔に一発重いのを入れていたが。そのあともう一度謝罪していたのが律儀というか、エリスらしいというか。


「現時点で僕以外に後継者として台頭する者はいません。何せ、筆頭だったキリカ・スターチーが脱落しましたからね」


 トレイトは、片目を眇めて肩を竦めてみせた。


「ですがまあ、気を抜くつもりもありません。僕じゃなきゃいけない、なんて勘違いする気もありません。僕に付いている上層部の連中は、他に良い駒が現れたらそっちに付くでしょうし、世間の皆様にとっては、それこそ代わりなんていくらでもいるでしょう」


 斜に構える上官を、後輩がため息交じりに遮った。


「少なくとも、俺はあなただからここにいるんです。忘れないでくださいね」

「そうでした。もちろんですよ、ルード」


 トレイトの周りは気が抜けない相手が多いのだろうが、ルードとはうまくやっているらしい。よかっ

た、とアスタはそっと笑う。利害が一致した結果とはいえ、自分より年下のトレイトに責任を押し付けてしまったことに罪悪感はあるのだ。

 アスタ達の目論見通り、瘴気消滅の功績は見事にアスタとエリスからトレイト・カーパスに投げられた。当の本人はいまだに納得していないみたいだが、全体的に嘘はついていない。尾びれ胸びれがついているみたいだが、公式な発表に偽りは一つもない。ただし、全ては事後報告だったわけだが。

 自分たちが要らないからといって、功績を自分たちよりも幼い彼に押し付けて、重い責任を背負わせることになってしまったのは事実だ。せめて何か手伝いができればと、軍に戻ろうとしたアスタを止めたのはトレイト自身だった。ここで英雄が出てきてしまっては、荒れ狂っている派閥争いに新たな勢力が生まれてしまう。せめて軍内部が落ち着くまでは戻って来るなと牽制した彼は、多分あの時、誰よりも状況が見えていた。

 ぐ、とトレイトが凝りを解すように背伸びをして、それから深々とため息を吐く。年若い彼に似合わない仕草だった。


「……エリス・ユーフォルビアは、試験に合格したみたいですね」

「ええ。この前お祝いしました。さすがにちょっと勉強したって言っていましたけど、ジニアのところを手伝いながら余裕で合格点越えていましたよ。あいつ本当に凄いですね」


 ジニアの名前にルードの肩がびくりと揺れる。何でもない風を装っているが、わかりやすい彼は、あれから一度も顔を合わせていないらしい。


「お前は戻らないのか?」

「もう少し落ち着いたら、一度帰ろうかと思っています。……あいつはどうせ、あの家にいるでしょうし」

「あんまり先延ばしにするなよ」

「わかっています」


 最近強かになった後輩は、ジニアが絡むとやっぱりわかりやすい。トレイトと顔を見合わせて笑う。


「アヤメ・クロコスは元気ですか?」

「ようやく起き上がれるようになったって、連絡がありましたよ」


 あの日。瘴気が祓われた日、奇しくも同時刻にコルチカムの瘴気はアヤメ・クロコスによって祓われていた。

 ジニアと共にイヴェールに戻ったアスタ達に、呆れ果てましたと言わんばかりのシオンが、疲労を滲ませながら事情を説明してくれた。

 タンジーから姿を消したアヤメは、コルチカムに残されていた刻印式を破壊するために動いていたのだという。アヤメはアミから外された術具を持って瘴気の中に入っていった。彼女が術士の素質を持っていたことは、ヤフランですら知らなかったが、当然適応の方はなかった。適応外の刻印式を使用した彼女は、間一髪でシオンに救出されて現在イヴェールに匿われている。

 どうしてこんな真似をしたのかと尋ねられても、彼女は語らなかった。ヤフラン・リリタールから説教され、ルリアを泣かしても、彼女は満足そうに微笑むだけだった。


「彼女は、軍には戻ってこないでしょうね。その方がいいです」

「ええ」

「あなたは、これからどうするのですか」

「とりあえず、元々の目的を果たします。俺の旅は、そのために始まったので」


 ぱちり、と目を瞬かせたトレイトが、嬉しそうに眼差しを緩めた。


「ようやく、家に帰れるんですね」



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