第七章 花が降り注ぎますように 6
どれほど歩いただろうか。数十分か。数時間か。もしかしたら数分かもしれない。
瓦礫の町。最早家の面影もない、滅びた町。タンジーによく似た景観。踏み荒らされ、なぎ倒され、打ち捨てられた町。
アスタとエリスは、かろうじて道と分かる場所を歩き続けていた。
瘴気の中は、夜でもないのに暗く、重く、悲鳴の中にいるようだった。空気が重苦しい。静かなのに、物音一つないのに、気配がある。暗闇の中からじっとりと睨みつけられているような、本能的な恐怖。
繋いだ手から緊張が伝わったのか、先導するエリスが振り返る。
「アスタ。息、ちゃんとしてよ」
「………わかってる」
エリスと一緒なら大丈夫だと分かってはいるのだが。
深呼吸をひとつ。緊張をほぐすようにエリスに話しかけようとして。
何か、聞こえた。人の声だ。いくつも重なって、重なって。何かを言っている。何かを訴えている。
誰かを——。
「ねえ、アスタ」
エリスの声に、は、と我に返った。まっすぐ前を向いて足を止めないエリスに慌てて並ぶ。
「言ってなかったことがあるんだけど」
切り出したエリスに目を向ける。
「……よし、こい。もう何が来ても驚かないぞ」
「なあに、それ」
くすりと笑って。それから。
「この傷がつけられてから、時々声が聞こえるんだ。アスタ、君も聞いたでしょ?今も、カリプタスでも」
「——あ。そう、だ。そうだ。何かを言っていた。色んな人の声が、何かを訴えていて」
ひゅ、と喉の奥がなる。瘴気の中で感じた恐怖を思い出す。光の届かない暗闇の中からじっとりと睨みつけられているような、絡みつくような怨嗟を。誰かの声を聞いた気がした。いくつも重なって、重なって。何かを言っていた。何かを訴えていた。違う。あれは。これは。
ああ、と思った。
「呪っている。誰かを呪っているんだ」
あの場には、確かに呪いがあった。そして、今、この場所にも。
この死の霧の中で、誰かが囁いていた。誰もが叫んでいた。
——お前ら、みんな。
「そう。僕もね、あの時瘴気の中で声を聞いた。いつも聞こえてくる声と同じだった。今も聞こえてくる」
まっすぐな目で、エリスは呪う言葉を紡ぐ。
お前らみんな、死んじまえ。
「あれは、僕の…僕たちの呪いだった。戒めのように、忘れるなよと繰り返されているんだと思っていた。でも、カリプタスでも同じ声が聞こえて、違うって気付いたんだ。——いや。あれが呪いだというのなら、呪う対象は僕たちと同じ」
十二年前。レン・ファレノシスは。あの場にいた誰もが、多分、同じ対象を呪った。
最愛の家族を奪う憎き敵を。すなわちウィスタリアを。
すべてを呑み込む死の霧の中で、彼らは同じものを呪ったのだ。
——お前らみんな、死んじまえ。
エリスは足を進めていく。迷いがない。まるで、何かに呼ばれるようだった。
何があってもその手を離さないように、アスタは握る手に力を込めた。
どれほど歩いたのだろう。霧の中で囁く声は、どんどん増えて、大きくなっていく。
「耳を傾けちゃだめだよ」
「わかってる」
わかっているが、呑み込まれそうなのだ。だって、アスタも同じ。同じように、呪ったから。
「もう大丈夫。着いたよ」
エリスが足を止めたのは、たぶん町の中央。枯れ果て、真ん中でぽっきりと折れた大木の前だった。
そっとエリスが木に手を置く。
「見て」
示されたのは真ん中で折れた部分。掠れて見えにくいが、それは『祝福』と呼ばれた刻印式と同じだった。それを裂くように、一本線が付け足され、『呪い』の刻印式に転じていた。淡い発光が発動を示している。
「——国を焼かれ、家を焼かれ、人を殺されて、恨みを持たないはずがない。呪いを残さないはずがない」
これは、正しく呪いだとエリスは言う。理不尽をまき散らした奴らへの復讐。
燃やし尽くされ、殺しつくされ、滅ぼしつくされた。そうして確かに、刃は振り下ろされたのだ。
声を、聴いた気がした。囁く声が大きくなる。叫ぶ声が大きくなる。
祖国を滅ぼす者たち。家族を殺した者たち。
お前たちは人ではない。鬼だ。
——どうか。どうか、惨たらしく死んでくれ。
「百年、呪いが続くと、知っていたのかはわからない。もしかしたら、そんなことも考えずに呪ったのかもしれない。そもそも、呪いとして刻んだのではないかもしれない」
祝福なんかないと、癇癪のように刻んだ線が、たまたま呪いと化した。真実はもう誰にもわからない。
「それは…当然だろ。誰だって、死にたくないし、大事なものを奪うやつは嫌いだ。死んでくれって思う。俺だって同じ立場ならそう思う。意味も意義もなくても、傷つけたいって思うだろう。せめて死んで詫びてくれって」
「アスタはやらないよ。振り上げた拳を、振り下ろしたりできない」
エリスが笑う。刻印式を撫でながら、それでも、背中を押すような声で。
「だって君は、君の信じる正しさを、貫けるひとだからね」
渡された信頼に、アスタも笑う。呪いも、恨みも、迷いも、吹っ切って。
「正しいと信じることをやろう。今、ここでも。彼らの恨みは正当だ。間違いじゃない。——でも、俺たちが選ぶことだって間違いじゃない。俺にとって十二年は長かった。百年は、もっと長かったはずだ。この人たちだってきっと、もう許されたっていいはず」
許しても、ではなく。許されても。その言葉には確かな差がある。
この呪いにエリスが同調したのなら、それはアスタが抱えた後悔と通じるものがある。
死に向かいながらも、お前らのせいだと呪い、自分のせいだと責める後悔。こうしていれば、ああしていれば。そうできていたなら、せめて、大事なあの人たちだけは生きていたかもしれないのにと。
わかるとは言えない。理解できるとも言えない。だって、アスタは生きているのだから。
だけど、想像はできる。百年。途方もない時間だっただろう。だから、もう。
「——終わりにしよう。ここで、全部」
もう、次に進んだって、いいはずだ。
エリスが手に持った小刀で呪いを裂く。淡く点滅していた発光が、一瞬断末魔のように一際強く輝いて、収束するように消えていく。
入れ替わるように、アスタは銀時計を大木の折れた枝に掛けた。そうした方がいい気がしたのだ。
「よし、行くぞ」
「うん」
霊力を注ぎ込む。刻印式は確かに起動して、アスタの霊力だけでは足りずに、繋いだ手からエリスの霊力まで吸い上げて銀時計が淡く輝く。発動したのだ。
ほっと息を吐くアスタの隣で、エリスがぎょっと目を剥いた。
「馬鹿!早く切りな!霊力全部持っていかれるよ⁉」
「え。どうすればいい?」
「はあ⁉接続切って!早く!」
「だからどうやって!」
ぎゃんぎゃん騒ぐ彼らのあずかり知らぬところで、注がれた霊力が刻印式を通じて霊脈へと届く。
そして。
——そして。
「あ……!」
「あぁ……」
紫の霧が満ちていた大地が淡く、力強く輝いた。刻印式と同じ光だ。
ざ、っと。一陣の風が吹く。呪いも、恨みも、すべてを吹き飛ばすような、清涼な風だった。
アスタとエリス。ふたりの髪を吹き上げて空へ届き。濁った水が清らかに澄んでいくように、死の霧が色を失くしていく。力強い風が分厚い雲を散らして、青色が顔を覗かせる。
強風から自身を庇うのも忘れて、空を呆然と見上げた。白い雲の向こうには、透き通るような青い空がどこまでも遠く広がっている。
濃紫の霧が色を失くして空を舞う。雲の向こうから差し込む光で照らされたそれは、まるで祝福するように降り注ぐ、数多の花びらのようだった。
——あなたに花が降り注ぎますように。
それは、祝福を祈ることば。
『祝福』は、確かに『呪い』を上書いたのだ。
やがて降り注ぐ幻の花びらが空に溶けるように消え、代わりのように薄雲から雫が落ちてきても。
すべてを洗い流すような雨の中で、空を見上げ続けていた。
迎えに来た青年が、彼らの頭を撫でて笑う。
「よくやったな」
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