間章 3
ジニアから数冊本を借りて、部屋に戻った。
室内の奥側に置かれたベッドで眠っているアスタの様子は、部屋を出る前と変わっていない。明かりは落としたまま物音を立てないように移動する。中央に置かれたテーブルの上に本を置き、ソファへと腰を下ろした。テーブルの上にはたばこの箱が置いてあった。ジニアのものだろうか。
オレアンダーの大人たちは、何故かたばこや酒を好んでいた。物々交換でも価値が高く設定されていたのはその二つだった。エリスも取引用にいくつか隠し持っていたが、医者の端くれとして、子どもたちの保護者として、体に悪影響しかないたばこを吸う気はこれっぽっちもなかったし、酔っぱらって無防備になるわけにもいかなかったので飲酒もしたことがない。勧められたことはあるが、全て拒否していた。そんな兄の姿を見ていたからか、双子もたばこや酒に興味を持つことはなかった。
その双子とは、昨日の夜、アスタの状態が落ち着いて、ジニアに話して良い範囲で説明してから連絡を取った。随分夜遅い時間となったが、それでもあの子たちは起きていて。口悪く心配してくれて。それで。
——兄さん、ちゃんとあの人と話をしろよ。
ああ、本当にいい子に育ってくれたなぁと、誇らしい気持ちになる。
どこにも行くなよと、ちゃんと帰って来いよと、本当はそう言いたかっただろうに。それを言わなかったあの子たちの優しさと、察していながら何も言えなかった自分の狡さ。あの子たちは、きっと気が付いている。今日だって、ずいぶん不安気な声で、いつ帰って来るのかと尋ねてきた。
早く帰って来て。手が届かないところへ、声が届かないところへ行かないで。一緒にいてと必死に訴えて来る声を、エリスはちゃんと聞いている。聞いていても、それでも。
ジニアの声が蘇る。
——この件が終わったらどうするつもりなんだ。
決めているよ。ずっと前から。
エリス・ユーフォルビアは、何を優先するのか。何の為に選ぶのか、もうずっと前に決めている。
だけど。
ひとつ深呼吸。そして。
「起きているんでしょう、アスタ」
「……寝てる」
「ずいぶんはっきりした寝言だなぁ」
苦笑した。数秒の沈黙の後、アスタがもそりと起き上がった。
「寝れないのか」
その一言に、眉を下げて笑った。アスタが、眠れないでいるエリスを気にかけてくれていたことを知っている。彼のことを疑っているわけではない。敵だと思っているわけではない。アスタが屈託なく友人だと言ってくれたように、エリスだって彼を友人だと思っている。
死んでほしくないと、心からそう思っている。旅の先に辿り着けることを、心から願っている。でなければ、瘴気の中に一緒に飛び込んだりしないし、声を荒げて心配なんかしない。
ただ、十二年という歳月が、あまりにも長すぎただけで。
「うんん、大丈夫。眠れるよ」
もう大丈夫。きっと眠れる。けれど、せっかくだから。
声が聞こえる。話をしろよと、そう背中を押す声が。
エリス・ユーフォルビアは、この名をくれた子どもたちを守るために、その他すべてを敵と定義した。何者にも心は許さない。語らない。本当のことなんて話さない。
だけど、本当は。
きっと、ずっと、寂しかった。
寂しいと、泣く子どもが確かにいたのだ。
勇気を振り絞るとは、こんな気持ちなのかもしれない。
「アスタ、起きるんなら、少し話をしようよ。——聞いてほしいんだ」
互いしかいない夜の静寂の中。
いつか焚火の前で、名前しか知らなかった彼らが、そうしたように。
目を丸くした友人が、確かに嬉しそうに笑って頷いた。
「オレアンダー?ああ、だからコロナリアにいたのか」
「……それだけ?」
「うん?あ、お前、医者だったよな。今休暇中なのか?」
「そっちかぁ…。辞めちゃったよ」
「辞めたのか。よかったのか?」
「うん」
「そうか。これからどうするんだ?」
「…………」
「エリス?」
「ああ、うん。これから…これからね…。とりあえず、セージと話さなきゃなぁ」
「セージと?」
「僕的にはルリアと一緒にシオンのところにお世話になれればいいなって思ってるんだけど。あの人、女の人と子どもには優しいから」
「……なるほど」
「アスタは?アミを家に帰した後は、どうするの?考えた?」
「考えてなかったな。軍には戻らないし。そうか、そのあとがあるもんな。……どうしよう?」
「ふ、ふふ。一緒だね。大丈夫、君ならなんだって出来るよ。どうせ今までずっと走り続けてたんでしょ?少し休めば?やりたいこととかないの?」
「ないな」
「ないかぁ。休みの日は何をしてたの?」
「鍛錬」
「言うと思った!なら、やりたいことから探さなきゃね」
「あるかな」
「あるよ、大丈夫。きっと見つかるさ」
「お前は?やりたいこととかないのか?」
「ないねぇ。生きるのに必死だったから」
「……あのさ、俺、夢をみるんだ。今でもあの家に暮らしていて。心配事なんてなにもなくて。そんな夢。なあ。瘴気なんて、なかったらよかったのにな。そうしたら、アミもこんなことに巻き込まれずに済んだのに」
「………」
「お前だって………いや、悪い。こんな話、意味がなかったな」
「うんん。そうだね……あんなもの、なかったらよかったのにね」
「もしもさ、俺が本当に英雄で、物語の主人公だったら。そうしたら、すっげぇ力で瘴気なんて消せるんだけどなぁ。こう、風で吹き飛ばすとか、炎で焼くとか、水で洗い流すとか」
「……ふ、ふふ。瘴気がなくなったら、アスタはどうする?」
「………コルチカムに——家に帰りたいかな」
「——」
「いつか。一緒に帰ろう、エリス」
「——ああ。そうだね。……いつか。その時が来たら、また誘ってね」
——なんでもない話を、噛みしめるように交わして。
いつの間にか彼らは眠りにつき。
先に目を覚ました彼は、年下の友人がソファで安心しきって眠っているのをしばし眺め。
ゆっくりと、うれしそうに、笑った。
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