第四章 あなたの願いを知っている


 朝。

 ジニアが起きた時には、アスタとエリスはすでに起きだしていて、台所で並んで作業をしていた。


「エリス、卵割ろうか?」

「アスタ、正直にどうぞ。割れる?」

「無理だな」

「よろしい。任せて。アスタはこっち。切っておいて」


 朝食を作ってくれているらしい。せわしなく動く二人を見守る。狭い範囲で動きまわっているので、何度か二人の肩がぶつかっていた。謝り合う声は三回目から聞こえなくなった。


「……エリス」

「なに?包丁で指切った?」

「いや、むしろ切れなかったというか…」

「は?…繋がってるね?」

「繋がってるな?」


 一拍置いて、弾けるような笑い声が聞こえてきた。

 ぼんやりと眺めていたジニアの気配にようやく気が付いたのが、二人が振り返る。


「おはよう、二人とも。早いな」

「おはよう。……そうだ、聞いて。アスタったら、朝っぱらから筋トレしてるんだよ」

「習慣なんだよ」

「起きた時びっくりしたんだから!」


 エリスが湯を沸かしながらぎゃんと吠える。うるさそうに聞いていたアスタが、ふとにんまりと笑みを浮かべた。なるほど、明け方夢うつつに聞いた声はお前らか。


「そういえば、お前結構寝相悪いんだな」

「え⁉」

「ベッド変わるか?落ちるかと思ったぞ」

「噓でしょ知らない。アスタは寝言がすごかったよ」

「嘘だろ知らない」


 ふ、とジニアは零れるように笑った。寝相が悪いだの寝言がすごかっただの、ぐっすり眠れたようでなによりだ。同室者が筋トレをしていても気にしないくらいには。


「もうすぐご飯できるよ。ジニアはコーヒーでいい?」

「ああ」

「アスタ、そっち持って行っちゃって」

「おー。あ、コーヒーは…」

「はいはい、砂糖ね」


 わちゃわちゃと動きまわる二人を見て、ジニアはついに声を立てて笑った。

 話をしたらと、そう言ったのは昨日の夜。あれから何があったのか、二人でどんな話をしたのかは知らないが。

 ——ああ、そうだ。

 たったひとつのきっかけで。ほんの少しの時間で。世界なんて変わるのだ。

 ジニアはそのことをよく知っている。


「若いっていいねぇ」

「寝ぼけてる?」

「頭打ったか?」

「このクソガキども」




 朝食を終え、後片付けを済ませた後、エリスがそうだと切り出した。ポケットから紙を取り出して机の上に置く。小さく折りたたまれた紙に、大きく描かれた丸と、その中に複雑に編まれた線と記号が少しいびつな線で描かれているのが見える。


「昨日書き写してもらったんだった」


 大雑把になってしまうアスタと、そのまま丁寧に描いて欲しいエリスとで攻防があったのだが、楽しかったので良しとする。その過程で、アスタが素人かと思う程に、刻印式の知識が乏しいこともバレてしまい、そこまでとは思っていなかったエリスが頭を抱える場面もあったりしたのだが。

 そこに描かれているのが、エリスの胸にある刻印式だと気が付いたジニアが、ひくりと頬を引きつらせる。


「おい、見せるな。俺に」

「え、駄目だった?」

「警戒心!」


 悪用したらどうする、とジニアが吠える。対する二人は顔を見合わせて、手をひらひらと振った。それから声を合わせて言う。


「ないない」

「……喜んでいいのか俺は?」

「いいのいいの。ほら、見て見て」


 エリスが雑な手つきでテーブルに紙を広げ、椅子を引きながら当たり前のように手招く。その隣に座ったアスタが、立ったままのジニアを不思議そうに見上げた。


「座らねぇの?」

「忠告はしたからな俺は」

「ジニアってばまだ言ってるの?見たところで、どうせ構造式なんてわからないでしょ、ジニアもアスタも」

「おう、さっぱり!」

「アスタは正直でよろしい。で。僕も構造式については詳しくないから、聞いて欲しいのは別の話になるんだけど」


 桜の木に刻まれた刻印式。龍脈とのつながり。瘴気の発生時期とその流れ。ここ数日で知った事実を並べ、立てた推論がある。ありえないと何度も否定して、けれど切り捨てることもできなかった、ひとつの可能性。


「アスタ、気付かない?これと同じものを、僕たちは見てるんだけど」

「同じもの?俺たちが見たって言ったら、アミの術具と、この術具と、それから…」


 アスタの口が、あの形で固まる。思い当たることがあったのだ。

 店の書庫にあったエリスの父が記した研究書。そこに描かれていた刻印式。確か、名前は。


「——祝福」

「そうだ、それだ。言われてみれば似ているような気が……。いや、悪い。俺全然覚えてないわ」

「……正直で大変よろしい」


 刻印式の構造なんて、緻密かつ複雑なものを覚えているほうがおかしい。今目の前にある刻印式だって、アスタにはただの線の連なりにしか見えない。なんかこの辺丸にみえるかな、くらいだ。


「何の話だ?」


 研究書のことを知らないジニアに、エリスが簡単に伝える。百年前に滅びた東の国と、それについて調べていた父のこと。龍脈に繋がる刻印式の話で、ジニアが何かが引っ掛かったような表情を見せた。


「『祝福』って言っても、具体的な効果はなんだ?『祝福』に形なんてねぇだろ」

「いや、正確には祝福を祈る為のもの、って書いてあった。もしかしたら、幸運や健康を祈る——おまじないみたいなものだったのかもしれない。龍脈を利用して刻印式を持続的に発動させて、国に住んでいる人たちをほんの少しだけ守ってくれるもの」


 遠い昔に滅びた国。滅ぼされた国。きっと良い国だったのだろう。穏やかな国だったのだろう。

 武器を持った敵が、攻めてこなければ。


「瘴気を防ぐ効果を持った刻印式の名前が、『祝福』か。瘴気が呪いって呼ばれていることを考えたら、わかりやすくはあるか」

「——それでね。その話を前提として、ひとつ考えたことがあるんだ」


 祝福と呪い。それは正反対であり、けれど基は同一のものだ。

 誰かの道行に幸いあれ。誰かの未来に呪いあれ。人が人の不幸を願うように。人は人の幸せを願う。

幸せを願う祈りと、不幸せを祈る願いは、どちらも同じ願いであり祈りだ。


「祝福と呪いは裏表。だとしたら、祝福が呪いに転じることだってある。そうでしょ?」

「エリス。何が言いたいんだ?」

「アスタ、これは推測だよ。うんん。想像でしかない。——瘴気は元々、刻印式によって生まれた。極東の国で百年前に起動して、今の今まで発動し続けている」


 この世界は呪われている。

 多くの血を流し、多くの命を踏みにじり続けた代償に、呪咀に穢され続ける呪われた大地。呪われた国。

 自然に発生した——となぜか思っていた。けれど、本当にそうなのか。

 エリスは人の手で瘴気を埋め込まれたというのに。

極東の国は桜の木で囲まれていて、その木には古代の刻印式が刻まれていた。それは、祝福を祈るためのもので、龍脈を利用して刻印を発動させていた。そうすることで、持続的な刻印の発動が可能になる。


「ねえ、もし、もしもだよ。龍脈に繋がる木に、祝福を祈る刻印式ではなく、瘴気を——呪いを生む刻印式が刻まれていたとしたら?」


 幸運や健康を祈るおまじないが、不運や死を祈る呪いへと転じる。

 それは、つまり。


「根拠は?」


 固い表情のジニアが尋ねる。エリスは、表面上は淡々と答えた。


「僕の刻印式。それから分離式、増幅式。——瘴気はこれら刻印式で干渉が可能だったこと。それから、龍脈の流れと、瘴気の発生が一致していること」


 刻印式で干渉が可能なものは、刻印式で生み出されたものの可能性が高い。

 そして、龍脈に繋がる刻印式によって瘴気が生まれているのなら、龍脈の流れに沿って瘴気が発生していることは、不思議でもなんでもない。

 あ、と黙って考え込んでいたアスタが不意に声を上げた。


「……反対の効果出力を持つ刻印式は、よく似た構造をしている」

「うん。研究書に『呪い』って書かれた刻印式があったのを覚えている?すぐにルリアが来たからちゃんと刻印式の構造を見ていないけど、『祝福』とよく似た構造をしていたとしたら、僕の刻印式で対抗出来た理由に説明が付くんじゃない?」


 はあ、とアスタはため息を吐いた。


「瘴気を呪いと呼んだのは正しかったわけだ」


 祝福が呪いへと転じたと言うのなら。

 国に住んでいる人たちの幸運や健康を祈るおまじないは、恨みと憎しみを以って絶望と死を招く呪いとなった。


「——だが、証明が出来ない。その研究書とやらで『呪い』の構造式を確認したとしても、それが瘴気に呑まれたままの東の町に刻まれていると決まったわけじゃない。なにせ瘴気の中だ。確認する方法がない」


 原因がわかったのなら、対処法だって考えられるかもしれない。

 どうしたものかと頭を悩ませるアスタを、エリスは心底呆れたように見遣った。


「証明する必要ある?」

「うん?」

「今までのは、僕の想像でしかないけどね。軍の奴らだって近い推測はしていたんじゃない?軍のほうが情報量は多いんだから。だから、刻印式で干渉できるって考えたのかも」

「ああ、なるほど」

「僕が言い出したことではあるけど、呪いの正体を証明できたとして、どうするの?正体を知って解決できることと、正体を知ろうが解決できないことがある。これは後者だよ、アスタ。今すべきことは瘴気の問題を解決すること?」


 ふむ。その通りかもしれない。エリスの言葉は正しい。けれど、珍しく棘がある口調だった。

 少し考えて、ぱし、と形の良い額を弾いた。


「痛い!」

「わかってるさ、エリス。やるべきことを見失ったりしない。選んだんだから、ちゃんとやり通します」


 弾かれた額をさすりながら、バツの悪そうな顔をしたエリスが目を逸らす。


「……言い方悪かったね、ごめん」

「おう。考えるとしても、全部終わった後だな」

「考えるなって話なんだけど……。百年間どうにもならなかった問題だよ?僕たちにどうにかできるわけないじゃない」

「そりゃあそうだが、考えない理由にはならないだろ?」


 あっけらかんと告げた言葉に、ぐっと何かを言いかけて、けれどそれを呑み込んだエリスが、代わりのようにばしっとアスタの肩を叩いた。


「いてぇ!なんだよ!」

「おいこら喧嘩すんじゃねぇよ。ホント仲良いなお前ら」


 机に片肘付いて成り行きを見守っていたジニアが呆れたように仲裁に入る。


「だって!……まあいいや。それでアスタ、これからどうする?」

「通行止めが解除され次第、スリージエに戻る。って言いたいとこだけど、難しいだろうな」


 今いるネレーイスからスリージエに戻るには、カリプタスを経由しなければいけない。街道の通行止めが解除されたとしても、軍の巡回は続くだろう。一度コロナリアに向かうのが安全だろうか。


「お前たちが瘴気に呑まれた時、ルードが傍にいたんだろ?死んだと思われているんじゃないか?」


 平然と尋ねているジニアだが、ルードがカリプタスにいたと聞いたときにはかなり動揺していたらしい。心配だったんだねぇとエリスが微笑ましそうにしていた。


「いや、説明したでしょ。エリスの術具に発信用の刻印式が仕掛けられているって。これは大まかな方角しか把握できないけど、反応から移動していることは気が付かれているはず」


 なるほど、と頷こうとして、止まった。

 机を叩いて立ち上がる。


「待て待て。まずいだろ!なんで言わなかった!?」

「言ったところで変わらないでしょ」

「そういう問題じゃねぇだろ!瘴気に呑まれたはずのやつが生きてるって。それがバレたらまずいだろ!」


 アスタは瘴気の中で生き抜く術など持ってはいない。だというのに、アスタの生存が知られてしまったら、共に瘴気に呑まれたエリスに疑いの目が向けられてしまう。

 焦るアスタとは対照的に、エリスは何てことないように肩を竦めてみせた。


「瘴気に対抗できる人間なんて、そう何人も存在しない。結び付けられる可能性は高いだろうね」


 ざっと血の気が引く。頭が真っ白になった。足から力が抜け、椅子に座り込む。


「——すまない。俺のせいだ」


 自らの軽率な行動のせいで。彼を巻き込んでしまったせいで。

 唇を噛みしめるアスタの額を、今度はエリスが打った。


「違うよ、アスタ。無茶は反省してほしいけど、この件に首を突っ込むって決めた時に気が付かれるのは覚悟していたんだ。言ったでしょ、切り札だって。大丈夫、問題はないよ」


 十二年。決して短くはない時間だ。隠れ続けたその時間を、ふいにしてしまったというのにエリスは平然と笑ってそう言った。切り札とは、シオンの店で言っていたことだろう。エリスは自分の情報を交渉材料にしようとしていたのか。

 ここに至って、ようやくアスタはひとつの疑問を抱いた。

 エリスがこの件に関わったのは、カジェラでアスタとアミが軍人に襲われているところを目撃したからだ。偶然だと思っていた。だが、本当に偶然だったのか。そんな偶然が、起きるものなのだろうか。

 尋ねるべきだろうか。口を開こうとして、やっぱりやめておこうと考え直した。あの時アスタが、あの場所にいたのは本当に偶然だ。強いて言うのならアスタの意思。誰かの指示に従ったわけでも、明確な理由があったわけでもない。ただ雨が降っていて、雨宿りする必要があっただけ。エリスは偶々通りかかっただけ。

 それを仕組むなんて——それこそ、未来でも視えなければ無理な話だ。


「今はカリプタスの瘴気に掛かり切りなっているはず。その間に、アヤメ・クロコスと接触したいんだ。どうにか連絡を取れたらいいんだけど…」

「ああ、術具の鍵を所有しているとかいう軍人か」


 エリスからアヤメ・クロコスのことは聞いていたらしい。ジニアがひとつ頷いて、そうだ、と許可を求めるように手を挙げた。


「気になっていたことがあるんだが、どうしてそのアヤメ・クロコスとやらは対立派閥に情報を流す、なんて面倒くさい方法を取ったんだ?軍隊内の秩序維持を担うのは憲兵隊だったはず。告発するならそっちじゃないか?なんでわざわざ敵対構造を煽るような真似をしたんだ?」

「実験を利用して上層部を嵌めるつもりだって、ヤフラン・リリタールは言っていたけど。真正面から告発しても握りつぶされると思ったのかもしれない」

「真っ黒だなー。そこんとこどうよ、軍人としては」

「まあ、握りつぶされるだろうな。上ごと潰そうと思うなら、対立して権力争いで派閥ごと叩き潰すか、共倒れを狙うのが一番確実だ。もしくは外部の軍と敵対している組織に情報を流す」


 だからハイリカムが襲撃したのかもしれない。アヤメ・クロコスはそこまでするだろうか。わからない。判断するだけの情報がない。どうしても必要なことであれば、彼女は成し遂げようとする。シオンはそう言った。悪人ではないけれど、譲れないものがあるのだと。

 同じ疑問を抱いたのか、ジニアが尋ねる。


「ハイリカムが介入してきたのは、アヤメ・クロコスが情報を流したからか?」

「わからない。ただ、気になっていたんだ。襲撃してきたのがハイリカムだとしたら、奴らはかなり正確な情報を手にしていたことになる。あの時、襲撃者は軍の動きを読んでいたように現れたから。奴らが内通者か、情報提供者を飼っているのは間違いないと思う」

「あっ」

「あ?」


 ごめん、とエリスが手を挙げた。


「言い忘れてた。ヤフラン・リリタールの部下の一人、どこかでみたことがあると思っていたんだけど、多分、昔オレアンダーにいた奴に似ていたんだ。トラデスティ……今の頭領なんだけど、その人が頭領に就任する前に近くに置いていた奴に似ているような……。ごめん、あの頃あんまり個人を認識してなかったからなぁ。確かじゃない」


 エリスはうんうん唸りながら記憶を辿っていたが、やがてお手上げというように両手を挙げた。


「だーめだ。わかんない」

「トラデスティってどんな奴なんだ?軍の中では油断ならない奴だって噂されてたけど」

「まあ、そうだね。油断ならない奴というか、何考えてるかわかんない奴というか。胡散臭い奴というか。あの人に代わってから治安も良くなったし、問題がない人たちは社会復帰も出来るようになったから、オレアンダーの中では尊敬されていたし、支持もされているけど。怖がられてもいるかな。胡散臭いし」


 胡散臭い、を二回言った。


「こう、ずっとにこにこ笑っているから、無表情と同じというか。困ったねぇと言いながら全く困ってなさそうというか。胡散臭いし、道徳観とか倫理観とかは多分半分くらい死んでる。取り巻きは多いけど、あれは多分誰も信用していない」


 散々な言いぐさだった。エリスの表情もどこか苦々し気である。

 ただ、と不服そうに彼は付け加えた。


「あの人は胡散臭いけど、子どもを虐げたりはしない。気軽に銃弾ぶっ放せる奴だけど、そこだけは信じても良いと思う」

「どんだけ胡散臭ぇんだよそいつ?」

「ジニア違う、そこじゃない。……エリス、部下の奴はお前に気が付いたと思うか?」

「さあ。オレアンダーとつながりがあると決まったわけじゃないし。ああ、でも、名前は知られたから、軍の奴らにはオレアンダーの医者だとは気が付かれたと思うよ。エリス・ユーフォルビアがオレアンダー唯一の医者だって、結構知られていたし」

「隠れてたんじゃないのかよお前…」

「医者ってのは重要な役職だからな。軍がオレアンダーを警戒していたのなら、医者なんてすぐに調べられる」


 確かに、軍はオレアンダーを危険視していた。ハイリカムというわかりやすい敵がいたから、表立ってオレアンダーと敵対しようとはしていなかったが、今後はわからない。

 シオンも言っていたではないか。彼らはすぐに、次の敵を探すと。


「でも、オレアンダーの医者だって気付かれて何か問題があるかって言われると、特にはないかな。セージもルリアも、僕が知る限り一番安全なところにいる。彼女の店以上に信頼できる場所を、僕は知らない」


 だから、大丈夫。呟いた言葉は、どこか自分に言い聞かせているようだった。

 大丈夫だと信頼しているからといって、心配しないわけではない。


「ごめんね、不安なのはアスタも同じなのに」

「いや。かなり遠回りになるが、スリージエまで戻るか?」

「うんん。焦って動いても良いことないと思う。多分。それに、あの子たちなら、僕がいなくたって大丈夫。ちゃんとやれるよ」

「俺もそっちに同意だ。瘴気の浸食が止まってんなら、通行止めも長期間続かねぇだろ。それまではここでゆっくりしていけ」


 話は終わりだと判断したのか、ジニアが立ち上がった。そのまま診察室の方へと出ていく。

 その背中に礼を伝えると、肩越しに振り返った彼はにやりと笑った。


「——もちろん、手伝いはしてもらう。特にエリス。助手しろよ」

「わかった」

「うん、ありがとう」


 ひらりと手を振って扉の向こうに消えたジニアを見送る。

 すでに冷え切ってしまったコーヒーを飲みながら、そういえば、とアスタが切り出した。


「さっき、後継者争いの対立構造を煽ってるって言ってただろ」

「?うん」

「現総統派の連中は、まだ十四歳の子どもを担ぎ上げる形で動いてる。トレイト・カーパス。彼は、この状況をどこまで把握してるんだろう」


 茶色の髪の、気弱な少年。アスタが一度だけ会ったことがある子ども。

 誰にも告げず、町に出ていたところに偶然出会った。気が付かれたことにバツが悪そうに笑いながら、自分の目で見たいのだと譲らなかった頑固な少年。

 数時間共に行動したが、どんな話をしたか覚えていない。


「何も知らされてないんじゃない?その方が、都合が良い奴らは多い」

「——本当にそう思うか?」

「というと?」

「十四歳は確かに子どもだけど、何もわからないわけじゃない。俺、一度トレイトに会ったことがあるんだ」

「へえ?」


 顔を合わせたのはその一度きりだけだが。果たして。


「——本当に、何も気づいてないんだろうか」



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