第四章 あなたの願いを知っている 2



「……あのー、エリスさん?」

「はっ」


 夕飯の買い出しの為、商店が集まる区域に足を踏み入れて一時間。

 本屋の看板に立ち止まり、吸い込まれるように店内に足を踏み入れたエリスは、一度離れたアスタが痺れを切らして声を掛けてくるまで黙々と分厚い書物を読み込んでいた。


「買っていくか?」

「……買ってきまぁす」


 恥ずかしそうに本で顔を隠しながら、いそいそと店員に声を掛けに行く。

 心なしかほくほく顔で戻ってきたエリスと今度こそ食料を買いに向かう。


「待たせてごめんね」

「いや、特に用事もないしな。何を買うんだ?」

「肉。ジニアのリクエスト」

「肉か。あのさ、エリス。明日の朝パンケーキ食べたい」

「パンケーキ?いいよ、作るのは久しぶりだ。好きなの?」


 好きというか、ちょっとわがままを言ってみたくなっただけなのだが。子どもっぽかったなと、アスタは気恥ずかしくなって目を逸らす。


「甘いものを食べたくなって。あ、肉屋あったぞ」


 あっちの肉にしようかこっちにしようかと二人で相談していると、他の客の相手をしていた男性が声を掛けてきた。


「いらっしゃい。……あれ。君たち、先生と一緒にいた人たちかな?」

「え?」

「リンネリス先生だよ」


 診療所まで足を運べない人たちのために回診をしているというジニアとは、この区域に入ったところで別れた。そこをみられていたのだろう。誤魔化す方が不自然だなと判断し、肯定を返す。


「あそこの子どもが帰って来たのかと思ったが、違ったのかい?」

「子ども?」


 エリスと顔を見合わせる。ジニアのところの子ども、というのなら、多分ルードのことだろう。


「ルードくんだよ。二年くらい前に出ていった……その様子だと、違うみたいだね」


 店員が苦笑する。ルードのことを知っているのなら、友人なのだろうか。ジニアとはかなり年齢が離れて見えるが。


「ええっと」

「君たちは、ルードくんのことは知っているかい?」

「一応…」


 警戒しているのか、エリスが口を閉じたままなので、アスタが曖昧に頷いて返す。

 男は独り言のように続けた。


「もう帰って来るつもりはないのかねぇ。あの子にはあの子の人生があるだろうが、育ての親を顧みたってバチは当たらんだろうに。……ああ、すまないね。あの子のことを悪くは言いたくないが、どうにもね。私たちは、先生にずっとお世話になってるし、あの人が一生懸命あの子を育ててきたのをみてるからねぇ…」


 なんて返せばいいのかわからず、はあ、と相槌を打つ。エリスのようにだんまりを決め込むのが正解だったかもしれない。

 と、背後から明るい声が割って入った。


「あら。ルードくんの話?」


 振り返ると、女性が立っている。腕には赤子を抱えていた。

 声に聞き覚えがあった。少し考えて、思い出す。夜にジニアを尋ねていた女性だ。


「おじさん、ひき肉くださいな。いつものね」

「ああ」


 ようやく仕事に戻った男が用意しているのを横目に、女性が話しかけてくる。


「先生がここに居着くことになったのは、ルードくんを育てるためだから。あの頃から町にいる人たちは、みんな事情を知ってるのよ」

「はあ……」


 助け船を出してくれたのかと思っていたが、違っていたらしい。


「出ていく少し前から、反抗期がね、ちょっと凄くって。貰い子だって、子どもたちにからかわれたんでしょうね。ほら、子どもって残酷だから」


 よいしょ、と子どもを抱き直して、話好きらしい女性は続ける。


「反抗期にかこつけて、先生に八つ当たり。周りも事情を知ってるから、黙って見守ってたんだけど。先生も優しいから、あの子に強く言えないし。それで、どんどんひどくなっちゃったの。見るに見かねた周囲が、あの子にいい加減にしなさいって怒って。そうしたら、家を飛び出して行ってしまって」


 あの子の気持ちもわかるんだよ。そう言いながら店主が戻ってきた。


「ここの町はさぞ息苦しかっただろう」

「先生、いつかはこうなってたって言ってたけど……。赤の他人が家族の問題に口を挟むものじゃないわね。それから、先生ずっと一人で」

「いや、一年位前に同居人がいなかったか?」

「ああ、いたいた。いつの間にかいなくなっちゃったけど」


 アスタとエリスが顔を見合わせる。


「先生にずっとお世話になってる身としては、言っちゃなんだけどこうなって良かったんじゃないかって思うわ。お互いにね。先生も若いんだし、自分のことを考えたっていいんじゃないかしら」


 そこまで話して言い過ぎたと思ったのか、こほん、と女性が咳払い。

 同じく話過ぎたと思ったのか、店主が顔の前で取りなすように手を振る。


「すまない。変な話を聞かせたね。はい、どうぞ。サービスしておくよ」

「ありがとう、ございました」


 アスタが受け取り、頭を下げて店を後にする。


「……入隊する前の話は聞いたことなかったな」

「なかなかに不良少年だったみたいだね」


 危なっかしいほどにまっすぐな後輩。生きにくそうな子だとは思っていたが。


「反抗期かぁ。エリスのところはどうだったんだ?いや、現在進行形で反抗期か」

「セージのこと?あー、あれはちょっと違うというか、反抗期というより拗ねてるだけというか、原因ほぼ僕なんだよねっていうか、反抗期自体は一年前に終わってるというか」

「そうなのか?」

「うん。あの子も結構激しかったよ」

「嫌にはならなかったのか?」


 ぴたりとエリスが足を止めた。振り返るアスタに、滲むように笑って見せる。


「——嫌になったこと、あるよ。あの子たちには絶対言えないけど。ああ、この子達さえいなければ、全部投げ出せるのにって、思ったこと、ある。絶対言わないし、言えないけど」


 言葉を呑むアスタに苦笑して、彼は再び歩き出した。

 その隣を、無言で歩く。


「あの子たちを育てたのが僕でよかったのかって思ったこともある。ちゃんと向き合えてたなんて自信もって言えない。でも、あの子たちは僕のこと見てた。よそ見しないで、ちゃんとこっち見て、あなたのこと好きなんだよって、不安になる度に何度も教えてくれた」


 兄を気遣っていた妹の姿を知っている。棘のある口調で、兄を慕っていることはよくわかる弟の姿も。

 エリスは双子を大事にしている。双子も、兄のことを大切に思っている。彼らの間には、確かに絆があった。積み重ねてきた時間があった。


「だから、自信もって言える。あの子たちに、僕は信頼されている。好かれている。僕が頑張れたのは、僕以上にあの子たちが頑張ってくれたからだ」


 それに、と彼は悪戯っぽく笑って付け加えた。


「最終的にルリアにぶっ飛ばされてたし、あの子」

「ぶっ飛ばされてた」

「うん。拳で一発。あんたいい加減にしなさいよ!って」


 にこにこと笑う少女を思い出す。華奢な彼女が拳を握る姿を想像して、やるだろうなと思った。なにせ、この友人の妹だ。


「強いな」

「強いよー。強くてかっこよくてかわいい妹ですよー」

「兄馬鹿か」

「号泣しながら謝ってきたセージもかわいくていい子だよ」

「兄馬鹿だったな」


 照れるわけでもなく、誇らしげに笑ったエリスが、ふと遠くを見るように目を眇めた。


「僕はさ、反抗期あったのかな。どんな感じだったと思う?」

「——案外、お前みたいのが激しかったりしてな」

「ふふ、かもね。アスタは、反抗期あったの?」

「俺は多分、まだだったな」


 父にべったりだった記憶しかない。いや、記憶というものは都合よく改竄されるものらしいから、実はしっかり反抗していたかもしれないけれど。


「そっかぁ」

「なあ、エリス」

「うん?」

「お前はさ、恨んでるか?」


 聞いから、しまったと思った。気になっていたとはいえ、口にしない方が良かった。

 恨んでるか。恨んでいないわけがあるか。

 母を、父を、殺された。自分も殺されかけた。恨まない方がおかしい。憎まない方がおかしい。

 きょとん、とエリスは子どもみたいな不思議な表情をみせた。

 それから、ふっと目を眇める。

 ——ああ。あの目だ。

 どこまでも凪いだ——昏く澱んだ目。


「恨んでるよ。ずっと、恨んでた」


 そこで一度言葉を切って、エリスは苦く笑う。


「あの子たちと出会ってからは、それどころじゃなかった。あの子たちを守ることに必死で、夢中で、目の前にいない誰かのことばっかり考えてるわけにはいかなかったから」


 でも、とエリスは空を仰ぐ。分厚い雲に覆われた空。声が聞こえるんだ、とエリスは言う。

 ずっと。あの日からずっと、聞こえてる。

 ——お前ら、みんな。


「もし、目の前に現れたら。——僕はきっとそいつを殺すだろうね」






 買い物を終え、アスタとエリスは町の外れにある診療所に戻って来ていた。

 ジニアはまだ帰ってきていない。診療所の奥に位置するキッチンで、エリスが食材を手際よく収めていく。

 言われた食材を袋の中から出して手渡しながら、そういえばと切り出す。


「俺たちが使わせて貰っている部屋、同居人って人が使ってたんだろうな」


 ルードが使っていた部屋かと思ったが、その部屋は別にあるという。客室だとジニアは言っていたが、それにしてはどことなく生活感のある空間だと思った。

 そうだね、とエリスが頷いた。


「あのたばこも、その人の物なのかな」

「いや、あれは俺のものだ」


 突然背後から投げられた声に、揃って飛び上がった。


「わぁ⁉」

「だから!気配がないんだって!」


 いつの間にか帰宅していたらしい。ジニアがくつくつと笑っている。


「で?なんでそんな話を?」


 青年たちが顔を見合わせる。申し訳ない気持ちもありながら、町で聞いた話をした。

 ああ、とジニアが肩を竦めた。


「ああ、聞いたのか。噂話好きだからな」

「ごめんなさい」


 声が揃った。バツが悪そうな顔をしている二人を見て、ジニアが思わずといった様子で噴き出した。


「なんで謝る。悪いことしたのか?」

「聞かれたくないことはあるだろう」

「聞かされた、の間違いだろう。……コーヒーでも飲みながら話すか。なあ、エリス」

「……あれ。僕に淹れろって言ってる?」

「おう」


 なんでよ、とぶつぶつ言いながらも淀みない手つきで準備を始めたエリスを横目に、ジニアとアスタはリビングに移動して、ソファに向かい合って座る。数分経って、エリスがお盆を手にやってきた。アスタにはミルクと砂糖をたっぷり、ジニアにはブラック。エリスはアスタの隣に腰を下ろして、間のテーブルに自分の分を置いた。


「ありがとな」

「いえいえ。……慣れてきちゃった」


 向かいのソファに座るジニアが、コーヒーを口に運びながら切り出す。


「……あの人たちが言ってたことは、大体合ってるぞ。経緯はな。若かった、ってやつだ。俺がもうちっとうまくできれば違ったんだ。あの説明だと、あいつだけが悪いみたいになるから少し言い訳させてくれ」


 言い訳、と彼ジニアは言った。苦い顔で辿るように過去を語る。


「あいつは、十二年前に拾ったんだ。コルチカムの一件とは関係ねぇぞ。ハイリカムとの戦いで夫と職と家を失くした母親に捨てられたらしい。あの時はまだ四歳だったが、去っていく母親の姿を、あいつはずっと覚えてる」

「捨てられた……」


 よく聞く話ではある。戦争を繰り返すウィスタリアには、浮浪者も孤児も増えた。オレアンダーだって、行き場を失くした人たちが集まって出来たのだ。誰かの命を、居場所を、未来を奪ったのは、戦火も瘴気も同じ。


「どうして捨てられたのか。自分が悪かったのか。自分が何か間違えてしまったのか。あいつはずっと悩んでいた。ここで暮らし始めてからも、不安がっていた。また捨てられるんじゃないかってな。この町の居心地が悪かったのもそうだろう。俺も当時若かったからな。ガキがガキ連れてんだから、そりゃあ目立つ。こそこそ噂されるのも、自分が悪者みたいに知らない大人に注意されんのも、いやだっただろう」


 子どもと呼ばれる年齢の少年や少女が、保護者もなく働いているところを見たことがある。子どもが自分より幼い子どもを抱えて歩いている姿も。

 アスタだって、エリスだって、本来ならまだ子どもとして扱われたって良い年齢だ。ルードだってそう。

 そして、それはきっと。目の前にいる彼も同じ。同じだったのだ。


「だけどな、それだけじゃない。俺が、安心させてやれなかったんだ。もっと、ちゃんと、向き合っていれば。あいつを養うためって言い訳で、不安がっていたあいつと向き合ってやれなかった。そりゃあ、愛想付かされて当然だ」


 子どもでいられなかった、誤魔化すように歩き続けるしかなかった彼は、当たり前のように微笑う。穏やかで、優しくて、削ぎ落された、透明な笑みだった。

 どこまでも正しく、大人としての貌だった。


「あいつが出て行ってから、何度も考えた。俺はあいつを大事に思っていた。それは本当だ。大事にできなかったけど、大事にしたかった。どうすれば良かったのか。どうしてちゃんとしてやれなかったのか。答えは出ねぇし、出たところで何も変わらねぇけど。でもな、ずっとずっと考えて、考え続けて。ひとつだけわかったことがある。」


 ジニア・リンネリスは、親としては未熟すぎて、足りないところだらけだったけれど。


「——生きていてくれりゃ、それだけでよかったんだよ」


 息を呑む音がした。エリスのものだったのかもしれない。アスタのものだったのかもしれない。

 生きていきくれれば。それだけで。


「笑っていてくれれば、尚良いな。……それだけだ。それだけなんだよ。大事な奴に願うのは、それだけだ」


 慈しむようにジニアが笑っている。

 どこにもいけないでいる子どもたちを、ただ見守るように。


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