第五章 握った刃を振り上げて 4
仄暗い霧雨に、見慣れた背中が呑まれていく。
「エリス‼」
彼が強いことは知っていた。懐に小刀を忍ばせていることも。
わかっては、いたが。
ナルキース中将、そしてキリカ・スターチーの護衛として付き従う軍人が、弱いわけがない。だというのに、選び抜かれた精鋭たちは、ひとりの青年を相手に成す術もなく倒れ伏した。
的確で容赦ない一撃で敵を沈め、一瞥すらない。
一瞬たりとも足を止めず、夜色の髪を翻し、ただひとりだけを目指して駆けていく。
「アスタ‼」
ジニアが叫ぶ。それと同時に、アスタは弾かれたように走り出した。
使うなと言われた身体強化の刻印式を、躊躇なく起動する。霊力が吸われる感覚。心臓が跳ねる音がしたが、痛みはなかった。せり上がって来る何かを無理矢理呑み込み、両脚に力を込め、ぬかるんだ地面を蹴ってエリスの背中を追う。
アヤメを庇うヤフランの横を駆け抜け、ナルキースとキリカの傍らに控えていたローダンとルードが動き出すのが、エリスの背中越しに見えた。
彼らでは、エリスには勝てない。すでに倒された軍人たちと同じように、時間稼ぎにもならないだろう。そうなればもう、護衛はいない。
血を吐くような声を思い出す。エリスが狙っているのがナルキースなのかキリカなのか、それとも二人ともなのかはわからないが、辿り着いてしまったら取り返しのつかないことになるかもしれない。
術具に更に霊力を込め、爆発的に向上した出力で距離を縮める。エリスの正面に回り込み、殺しきれなかった速度で地面を抉りながら、振りかぶられた小刀を、同じく小刀で受け止める。
金属が叩きつけられる音が響き渡った。
重い。
ぐ、と踏ん張りながら、アスタは再度友人の名を叫んだ。
「エリス!」
そこでようやく、彼の顔が見えた。
しっとりと雨に濡れた黒髪の向こうで、激情に呑まれた瞳がアスタを映した。ぞっとするほど美しい貌を憎悪に歪めて、唸るように告げる。
「どいて」
「断る」
「どいて!」
「いやだ!」
「あの時あいつはあそこにいた!嗤ってた!ねえ、あいつを庇うの⁉」
殴りつけるような声に、違うと叫び返す。
「お前を守りたいんだ!」
ひゅ、とエリスが息を呑んだ。力が揺れた隙をついて、小刀を弾く。
バランスを崩し、エリスがわずかに後退する。揺れた髪を伝って雫が頬を流れた。まるで、瞳から溢れて伝う涙のように。
好機と見たのか、動こうとするローダンたちを、ナルキース中将が止めている。なぜ、と問う声がした。
それを気にすることもなく、アスタは武器を下ろした。無防備になったアスタへ、先輩と叫んだのはルードだろうか。
ほんの少し距離を縮め、エリスの手を握った。びくりと肩が揺れ、怯える瞳がアスタを映す。
握った手が、振り払われることはなかった。
「エリス」
端正な貌がくしゃりと歪んでいく。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
ずっと、泣いていたのかもしれない。
泣きわめく子どもが必死に訴えるような仕草で、引きつれた声が叫ぶ。
「殺してやるって、言ったでしょ、アスタ……!」
「無理だ。——お前には、無理だよ」
あの時。あいつ。あそこ。エリスが叫ぶ言葉の、ひとつだってその意味を知らない。もしかしてと思うことはあるけれど、正しく読み解くことはできない。だけど、知っていることがある。わかっていることがある。
「泣く子どもには勝てない——だろ?」
譲るように、アスタは手を離した。代わりに後ろから伸びた手が捕まえる。息を呑んで振り向こうとしたエリスに、抱き着く子どもがいた。縋るように、引き止めるように。
その存在に、エリスは気が付かなかったのではない。警戒していなかったのだ。激情に呑まれ、殺気を振り撒きながらも、ひとかけらだって。
だってその手の主は、彼が守り抜いてきた子どもなのだから。
「——兄さん」
それだけ。
震える声が、たった一言、呼んで。
エリスが振り向いて。
目が合って。——それだけ。
それだけで、エリスは放心したように力を抜いた。刃を握りしめたまま、くしゃりと顔を歪めて。嗚咽のような声を漏らして。
「………ああ」
纏っていた殺気が雨に流されるように消えていく。抱き着く子どもをそのままに、彼は力尽きたようにその場にしゃがみこんだ。放心した様子で俯いている。
いつの間にか解けていた髪が、横顔を隠していた。
懸ける言葉に迷う。とりあえず名前を呼ぼうとして、ジニアと、その腕に抱かれたアミが近づいてくるのに気が付いた。エリスも気が付いたのだろう、びくりと肩を揺らして顔を上げる。夜色の瞳が怯えるように揺れていた。
その様子に肩を竦め、アスタはわざとらしいほどに明るい声を投げかけた。
「——お前、やっぱり強いな」
ちらりと背後を見る。死屍累々。一撃で容赦なく沈められていたが、全員無事だ。怪我という怪我もない。的確に意識だけを刈り取っている。
「いや本当に強いなお前」
これで刻印式を使っていないのだから恐ろしい。絶対に敵に回したくはないが、それはそれとしていつか手合わせはしてほしい。
「エリス、立てるか?」
弟を張り着かせたままでいる兄の手を取って立ち上がらせる。素直に立ち上がったエリスだが、その表情は変わらず暗い。ふむ、とひとつ頷き、心臓を抑える動作をしてみた。う、とわざとらしいうめき声も付けて。ぎょっと目を剥いたのはエリスだ。
「アスタ⁉だから使うなって言ったのに!」
覿面に血相を変えたエリスに、ちょっとやりすぎたかと反省。
「……悪い、嘘だ」
殴られた。
「ばっかじゃないの!質が悪い!殴るよ!」
「もう殴ってる…」
だがまあ、調子が戻ったので良しとする。セージには射殺しそうな目を向けられているが。
よいしょ、とアミを下ろして、ジニアが苦笑しながらエリスの肩を叩いた。
「思い切ったことしたなぁ、お前」
「——ジニア?」
呆然とした養い子の声に、ジニアはひらりと手を振って応えた。
「久しぶりだな。元気そうでよかった」
「な、なんで、あんたがここに」
「付き添いだよ」
「つ、付き添い…?いや、それよりも!」
呆気に取られていたルードとローダンが、エリスを捕縛しようと動き出す。
当然だ。あのままだとエリスはナルキースかキリカへ刃を突き立てていた。あいつ、と示していたのはナルキースの方だったから、面識でもあったのかもしれない。殺していたかはわからない。止めなくても、最後の一線は守り抜いたような、そんな気もする。
どちらにせよ、エリスはこの場にいた軍人たちの大半を伸してしまっっている捕縛に動こうとするのは当然の流れだった。させるとは、言っていないが。
一触即発。全員が、同時に動いた。
「待って‼」
アヤメが声を上げる。駆け寄ろうとする彼女を、ヤフランが止めた。アスタとジニアはエリスの前に立ちはだかるように移動する。対峙する形になったルードが、一瞬裏切られたような顔を見せた。セージがばっと離れて庇うように立とうとしたのを、エリスが押しとどめている。
警戒と殺気が雨の中を渦巻く。はちきれる寸前の空気を止めたのは、蒼ざめた顔をしたナルキース中将だった。
「——待て。やめなさい、二人とも」
「中将?ですが」
「ローダン。彼の行動は当然だ。——当然なんだ」
制止を無視して歩み出たナルキースは、悲痛な面持ちでエリスを見遣る。
そして、深々と頭を下げた。
「——申し訳なかった。君には、本当に申し訳ないことをした」
ぎり、とエリスが唇を噛んで俯く。長い前髪に隠れて表情が見えない。
「すまない。——だが、どうか、話をさせて欲しい」
どうか、と軍の権力者が乞うような声音で言葉を紡ぐ。
事態についていけず、呆然と上官の謝罪を見ていた二人が、戸惑ったようにエリスの反応を伺う。意を決したように、ゆっくりとエリスが顔を上げた。
「——お前の、せいだ」
しっとりと濡れた前髪の向こうで、昏く澱んだ瞳が瞬く。
細くたなびいて降り注ぐ霧雨に、烟るように彩られてかつての子どもが笑う。
それはどこまでも美しく、透明な笑みだった。
まるで血に濡れて、雨を纏ってもなお鮮やかに咲く、花のように。
「お前のせいだ。お前らのせいだ。言い訳なんて、聞きたくない」
隠しきれない恨みと憎しみが、声音に滲む。
「絶対に、許さない」
まるで、罪人を指差す死人を思わせる冷え冷えとした眼で、エリスは。
「死んでくれ」
それは。
悲鳴だった。慟哭だった。——呪いだった。
「ま、……待て。そんな、そんな、言い方…!」
恐怖の中で言葉を絞り出したのだろう。ルードが震える声を抑えて割って入る。
「何があったかは知らないけど……」
「ルード」
ジニアが固い声で諫める。はっと言葉を止めたルードが、唇を噛んで眉を下げた。
ひどい話だと、アスタは思った。なぜ謝ったのかと、責めたくなる。いいよ、と言えないことだって、あるのだ。どれだけ謝られたって、どうしたって許せないことだって、あるのだ。
けれど、謝られてしまったら。頭を下げられてしまったら。謝罪を受け入れないエリスが悪いようにみられるではないか。そんなひどい話があるか。
それは多分、アスタがエリスの事情を知っているからだろう。彼の友人だから、彼の味方をしたくなる。当然だ。頭を下げて訴え掛ける上官よりも、怒りに拳を握りしめながらも、守ると決めた子どもの為に踏みとどまる友人の方がずっと大事だから。
力を込めすぎて白くなった手にそっと触れる。じれったいほどの動作で、エリスが視線を向けた。
痛かったのだと。辛かったのだと。許せないのだと、声なき声が懸命に訴えている。
固く握りしめられた手を解き、添えるように握った。
俺はお前の味方だと、伝えるように。伝わるように。
と。
アスタの横をすり抜けた小さな影が、手に持った何かを軍人たちに向かって投げつけた。
「——おにいさんたちに、いじわるしないで!」
鉄の腕輪が雨粒を弾いて放られる。アヤメが落としたものを、いつの間に拾っていたのだろう。
小さな体で思いっきり投げられたそれは、誰を傷つけることもなく地面に転がった。小さな子どもからまっすぐにぶつけられた怒りに、ナルキースたちが言葉を失くしている。
「おにいさんたちにいじわるする人なんてきらい!だいっきらい!」
「あ、アミ?」
「こんどは、アミがおにいさんたちを守るの!」
ふん、と小さな手を精一杯に広げて。
立ちはだかるように。守るように。きっと大人たちを睨みつけている。
そんな場合ではないのだが、アスタは感動していた。胸を衝かれた。目の前の三人のことが、ちょっとどうでも良くなってしまった。
そして、彼女に触発されたように、セージがひとつ深呼吸をして前に出る。
「——ごめんなさいですまないこともあるって、大人のくせにわかんねえの?」
ふん、とこちらは生意気全開、鼻で笑う。
「かっこ悪」
ぶふぉ、とジニアが吹き出す音が聞こえる。腹を抱えて笑っていた。大爆笑である。
兄の方はなんだか困っている様子だった。アスタはぽん、とその肩を叩く。
「お前にそっくりだな」
「そうかな……?」
「いや、そっくりだわ。よく似てるよお前ら兄弟」
笑いすぎて滲んだ涙を拭きながら、ジニアがばしばし背中を叩いている。
その瞬間。張りつめていた空気が、確かに緩んだ。
そして。
——そして。
もうひとつ。噎せ返るほどに昏く、血の匂いを纏わせながら。
「話は終わったかな?」
もうひとり。憎悪が嗤った。
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