第46話 入山
日向山の登山口から、まず山岳部のベテラン二人と一般参加のカップルが入山し、次いで【大猪】武井、高見沢、葵が入山し、最後に美鈴たちの番になる。
「俺が最後尾を歩くから、参謀が先頭を歩いてくれ」
「はいよ」
一成が、次いで結花が入山し、美鈴もその後に続いた。
山の中は植林された杉がどこまでも整然と立ち並び、積もった落ち葉や小枝でどこが道でどこが道じゃないのかほとんど見分けがつかない。
前を見れば、先に入ったグループは迷う素振りもなくずんずん進んでいく。
「大介先輩、ミネコにはどこが道なのか分からないです。なんで先に入った人たちはあんなに自信満々に進んでいけるんです?」
もし、前を行く人間が道を間違えていたら大変なことになる。
「ああ、そうだな。確かにこういうあまり整備されてないハイキングコースは道の見分けがつかなくなっている場所が結構ある。だから歩く時は足元を見るんじゃなく、顔を上げて木の幹を見るんだ」
「ほえ?」
言われるままに顔を上げると、十㍍ぐらいの間隔で木の幹に黄色いビニールテープが巻いてあるのが分かった。
先を進んでいくグループはそのビニールテープが巻いてある木沿いに進んで行っているようだった。
「このテープが道の目印なんですか」
「そういうことだ。冬になって雪が積もったりしたら道なんかすぐに見分けがつかなくなるから、登山道には必ずこういう目印が高い場所にあるんだ。……逆に、一見道のように見えても、目印がなかったらただの獣の通り道ってことだ。足元だけを見て歩くと気付かないうちに獣道に迷い込んで遭難してしまうこともあるから気をつけなくちゃいけない」
「なるほど、覚えておきます」
美鈴は前に向き直り、目印のテープを辿りながら急勾配の登山道を一歩一歩登っていった。今日の登山への備えとして、サバ研の基礎トレーニングで荷物を背負っての階段の昇降運動をやったおかげか、10㎏もの装備を背負っているにもかかわらずそんなにきついとは思わなかった。
それどころか周りの景色に目をやる余裕もある。
この辺りの杉の木はだいたい三十㍍ぐらいの高さだろうか。下枝は綺麗に枝打ちされてあるのですごく上の方にだけ枝と葉が生い茂っているのが分かる。昼間なのにかなり薄暗く、湿気を含んだ冷えた空気が肌に心地よい。スポット的に木洩れ日が当たっている所にだけ小さな草花が生えていたり、ちょろちょろと岩肌から水が染み出していて、そのあたりの石にはびっしりと苔が
ひどく静かで、自分が踏みしめる度にぱきぱきと折れる小枝の音や、後ろから聞こえてくるカランコロンという熊除けのベルの音、時々聞こえてくる、なにかの動物か鳥の鳴く声以外に聞こえる音はない。
「ネコちゃん、あれが何か分かるか?」
ふいに大介が立ち枯れた大木を指差す。よく見ると、その木には黒い小さな鳥が取り付いてくちばしで幹を突いていた。
「え、あれってもしかして
「お、正解だ。よく分かったな。街中じゃあまずお目にかかれないぞ」
「本当に木をつつくんですね」
「立ち枯れの木には虫がたくさんいるからな。ああやって幹をほじくって餌をあさってるわけだ」
「へえ。面白いです」
見るもの聞くものすべてが新鮮で、美鈴はなんだかワクワクしてきた。もともとアウトドア好きな本能がむくむくと頭をもたげてくる。ほかにも何か面白いものがないかときょろきょろと辺りを見回していると、大介が美鈴の足元を指差す。
「その足元に生えてる草」
「え、これです? この小さな白い花がついてる」
足元のちょっとした陽だまりに群生している草。丸い小さな葉っぱと白い花がついた、見た感じどこにでもありそうな雑草。
「それはナデシコ科のハコベラという草だ。春の七草の一つでもある。春の七草は知ってるか?」
「お正月に七草粥にするやつですよね! ちょっと待ってください。たしか古典の授業で覚えたです。……えーと、セリ、ナズナ、ゴギョウ、ハコベラ、ホトケノザ、スズナ、スズシロでしたっけ」
「正解、さすがだな。これがハコベラ、別名ハコベ。昔から漢方薬としても使われてきた薬草で生薬名は
「これが薬草ですか。なんの薬になるんです?」
「温湿布にすれば打ち身や腫れ物に効くし、生汁に食塩を加えて乾燥させれば歯槽膿漏の薬になる。乾かして煎じれば産後の催乳薬や胃腸薬になる」
よどみなくスラスラと処方法を教えてくれる大介への尊敬の念がますます強まる。
「先輩はなんでも知ってるんですね」
「いや、このへんは博士の受け売りだ。俺も基本的な薬草はある程度押さえているが、薬草に関する博士の知識と情熱には足元にも及ばない。山にしか生えてない薬草なんかもあるから山岳部との合同活動でのあいつのはしゃぎっぷりはすごいぞ」
「でも、博士先輩は今日来てないですよね」
「博士は、あいつが最近見つけたハカマオニゲシの駆除を自治体でやるそうだから手伝いに駆り出されてるんだ」
「ああ、そういえば言ってましたね。でもハカマオニゲシってなんです?」
「日本では栽培が禁止されてるポピーの一種だ。けっこう自生しているから時々自治体で駆除をするんだ」
「んー、でもなんで栽培しちゃいけないんです?」
「そりゃ、モルヒネ、別名、阿片の原料になるからな」
「アヘン!? アヘンって、あの阿片戦争の阿片です?」
「……そこで阿片戦争がすらっと出てくるところがすごいが、その阿片だ。まあ、本格的に精製しようと思ったらかなり大規模な栽培施設が必要になるからあまり目くじら立てて駆除するようなもんでもないんだが、そこは法律だからな」
「そんな麻薬の原料が普通に自生してるなんて怖いです」
「毒と薬なんて紙一重だ。モルヒネだって悪用すれば麻薬だが、善用すれば手術で使う麻酔になる。結局、善用するか悪用するかは使う人間次第で、自然界に罪はない」
「そうですね。……あ、そうだ! 博士先輩へのお土産に山でしか採れない薬草というのはどうです?」
「そうだな、それは喜ぶと思うぞ。それに、ネコちゃんにとっても薬草を見分けるいい実地訓練になるな。まあ、俺の分かる範囲でしか教えられないが少しは役に立つはずだ」
「よーし! ミネコもしっかり勉強して薬草の知識を身につけます! いざという時には知識の有無が生死を左右するんですよね。備えあれば憂い無しです」
「その通り、いい心がけだ。ネコちゃんもサバ研のメンバーらしくなってきたな」
大介が満足げに笑い、おそらく無意識に美鈴の頭を撫でる。
他の人にされたら不快であろうその行為も、大介にされると嬉しくてドキドキと胸が高鳴る。やっぱり好きだなーと改めて自覚する。
「えへへ~。伊達に先輩の背中を追いかけていません」
「おう。しっかりついて来い」
今はまだまだだけど、絶対に先輩に認められるような存在になります。
その時、先輩はミネコのことを後輩としてではなく、一人の女の子として見てくれます?
喉元まで出掛かった言葉をぐっと飲み込み、美鈴は地面に片膝をついて繁茂するハコベラを少し摘み取った。
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