第48話 縄張り

大日山から尾根伝いに日向山に入ってすぐの【水のみ場】に到着し、それまで休憩していた葵たち第2グループと入れ替わりで、休憩と水筒への水の補充をしてから登山を再開し、日向山の登山道を登っていく。


最初の山の大日山は植林された杉がほとんどだったが、日向山の方はどちらかといえば雑木が多く、木漏れ日で全体的に明るくて歩きやすい。

 

陽だまりにはアオマムシ草やユキノシタといった薬草の群生もそこかしこにある。

 

そして、それを見つけたのは美鈴だった。群生していたユキノシタを採集しようとしゃがんだ時に木立の下に隠れていた洞窟の入り口が見えたのだ。


「わ、先輩! 見てください。洞窟です」

 

何気なく言った美鈴の言葉だったが、大介はそれを見た瞬間表情を強張らせた。


「ああ、本当だな。……参謀!」


「ん? なんだ?」

 

振り向いた一成に大介が黙って美鈴が見つけた洞窟を指差す。


「ああ、なるほど。……しっかしまあ、こんな登山道のすぐそばにねぇ」

 

大介の意図を悟った一成がうなずく。


「あの洞窟がどうかしたん?」


「いや、大したことじゃないから気にすんな。それより、あまり前のグループと距離が離れすぎるのはあんまし良くねえな。寄り道はほどほどにして一旦追いつこうぜ」


「そうだな。木の樹皮剥ぎなんかの痕跡がないか、ちょっと注意して見ていきながら急ぐとしよう」


「…………」

 

洞窟の存在に気づいた途端に先を急ぐような素振りを見せる大介と一成に釈然としないものを感じつつも、美鈴もちょっと足を速めた。

 

そこから少し進んだところで今度は大介が立ち止まる。


「参謀、ちょっとこれを見ろ」


「おー、なんか見つけたか。……ほー、まだ新しいな」

 

しゃがんだ大介の背中越しに美鈴も地面を見て、顔をしかめた。


「うえ、ウンチです?」


「ちょ、先輩たち、なにやってるん!? 汚っ!」

 

大介と一成が小枝で道端の大きな糞を突付いている。臭気が漂ってきて美鈴は思わず吐き気をもよおした。結花もげんなりした顔をしている。


「うちはメガネっ娘だけど、棒にウンチをさして走り回る趣味はないじゃんね」


「ミネコだってないよ。先輩、何してるんですぅ?」

 

大介がごくまじめに答える。


「糞を調べて何を食べたか調べてるんだ」


「栄養状態が良けりゃああんま心配することはねえんだが、栄養状態が悪いならちっと危ねえからな。おれらだって好きで某変態ロボット娘の真似事をしてるわけじゃねえ」


真剣な二人の言葉に美鈴は背筋が寒くなるのを感じた。そういえば、その糞はかなり大きいことが分かる。


もしかして……と嫌な予感がした。


「……そのウンチは、なんのウンチなんです?」

 

恐る恐る訊いてみると、大介はあっさりと明瞭に答えた。


「熊だな」


「それも一日以内ぐらいの新しいやつだぜ」


『!?』

 

結花と二人、思わず息を呑み、慌てて周りを見回す。もしかしたら、そのあたりの茂みに熊が潜んでいてこちらを窺っているかもしれない。美鈴と結花は無意識に身を寄せ合った。

 

少しして、糞を調べていた大介がため息交じりに立ち上がる。


「あまり良くないな。若干下痢気味、繊維質ばかりで毛や骨片は混じっていない」


「どういうことなん?」


「うん。水気が多くて繊維質ばかりってことは草とか新芽とかばかり食ってるってことで蛋白質が足りてないってことだ。さっきの洞窟はおそらく熊の巣穴だ。里山と違って奥山には熊の食糧が意外と少ない。この糞の様子を見る限り、今も腹を減らしてそこら辺をうろついてる可能性も否定できない」


「えええっ!?」


美鈴は思わず悲鳴を上げた。結花も蒼い顔をしている。


「ほかの人らにも警告して引き返した方がいいんちゃう?」


「いや、そこまで神経質になることもないだろう。もちろん、全員に単独行動をしないように警告はするが、今回、俺たちサバ研はあくまで山岳部のオブザーバーだ。進むにしろ退くにしろ決めるのは山岳部だ」

 

そう言いながらケータイを取り出す大介に結花が食い下がる。


「だって! 熊じゃんね!? しかもお腹空かしてるんでしょ!? 襲われてからじゃ遅いじゃん!!」

 

圏外だったらしく、すぐにケータイをしまった大介が熊についての説明をしてくれる。


「熊といっても小型のツキノワだ。縄張り意識が弱いから排他性もほとんどないし、主食が植物と昆虫の臆病な生き物だから腹が減っていても人間の集団に襲い掛かるような根性はないし、たとえ人間が単独でも普通にしてりゃ襲われることなどまずないから安心していい」


「二人とも熊って単語に過敏に反応しすぎだぜ。北海道のヒグマならともかく、ツキノワなんておれらより小柄なんだから、仮に格闘戦になってもナイフがあればおれなら勝つ自信あるぜ」

 

大口を叩く一成に結花が目を剥く。


「マジ!?」


「おーよ。だからそんなに怖がらなくていいってこった」


「ネコちゃんにはこの前、熊に襲われた時はどうするか話したよな。覚えているか?」

 

大介に振られて慌ててうなずき、「うちは聞いてない」と結花が不満げに口を尖らせるので結花にも聞かせる目的で口に出して復習する。


「襲われたら大声を上げて、それでも襲ってきたらどこでもいいから殴るんですよね?」


「そうだ。相手が襲ってきた場合はそれが正しい。だが、ただ遭遇しただけだったらどうするか?」


「へ? どうするんです?」

 

言われるまで遭遇イコール襲われることと思っていたのでオウム返しに聞き返した。


「何十㍍か距離があって相手がすぐに襲ってくる様子がないなら、相手と目を合わせたままゆっくり後退りして相手との距離を取る。大抵の場合はそれでなんとかなる。ほんの数㍍で鉢合わせした場合は、すぐには動かずに相手と目を合わせたまま小声で話しかけてだんだん大声にしながらゆっくり後退りして距離を取る。両方に共通するのは絶対に視線を外さないことと背中を見せないことだ」


「動物の世界では先に目を逸らした方が負けだ。ついでに肉食獣ってなぁ背中を向けて逃げる相手を追いかける習性があるからな。熊の方に襲う気がなくても相手が背中を向けて逃げ出したら追いかけたくなるってこったな。逆に視線を外さずに背中も向けない相手は熊に限らず猛獣にとっちゃ襲いにくい相手ってわけだ」


「なるほど。覚えておきます」


「それに、この熊避けの鈴を鳴らしながら歩いていれば向こうが先に気づいて逃げてくれるからそうそう遭遇もしない。そうだな、もし遭遇するとしたら……単独で、見通しの悪い場所で、鈴を鳴らさずに長時間休憩とかしてるといった条件が重なった場合ぐらいだろう。そういう時でも対処法さえ間違えなければ襲われたりしない」


「ツキノワも人間のことが怖いからな。急に遭遇すると向こうもパニクって自暴自棄になることも考えられるが、こっちの存在を先に音で知らせておきゃあまず大丈夫だ」

 

熊が怖くなくなったわけではないけど、対処法をきちんと教えてもらっておけば気持ちにも余裕ができる。

 

それに……。


「やっぱり先輩たちは頼もしいじゃんね」

 

耳元でこっそり囁いてきた結花に美鈴は心底同意してうなずいた。


この二人が一緒ならどんな危険な状況でも乗り切れると改めて思った。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る