第47話 沢

山登りがきついだろうというのはある程度予想はしていた。それでも、こんなにきついとは正直葵にとって予想外だった。

 

ハイキングコースということだからもっと整備されていると思っていたのに、等間隔で目印があるだけのただの急斜面でしかなかった。

 

靴底が平らなスニーカーは落ち葉で踏ん張りが効かずに滑りそうになるし、お弁当で膨らんだショルダーバッグはすわりが悪くて重心が安定しないので歩きにくい。


しかも普段の生活では使わない筋肉が山登りには必要なようで、ふくらはぎや太ももに乳酸が溜まっているのが自分でも分かる。


「な……によ、これ。道……なんか、ないじゃない」

 

両手で握った杖に体重を預け、喘ぎながら呻くと、涼しい顔をした武井が笑う。


「ははは。大丈夫だ! このハイキングコースではこの最初の坂、通称【さるすべりの坂】が一番勾配が急なんだ! ここさえ抜ければあとはそんなにきつくはない。さあ、頑張れ!」


「うおっ! 猿滑りっすか。確かにそんな感じっすね! この斜面を草ゾリで滑り降りたらあっという間に麓まで着けるっすね」


「お前ならやりかねんから一応警告しておくが、この障害物だらけの急斜面を滑り降りたらよくて大怪我、下手すれば死ぬぞ」


「……じょ、冗談っすよ」


「あと、どれだけ続くの? この、坂」


「上を見たまえ! もうちょっと登れば木が途切れて明るくなっているのが見えるだろう? あそこが最初の尾根だ。あそこからはしばらく尾根道になるから楽になるぞ」

 

見れば、先頭グループはそろそろ坂を登りきろうとしている。確かに、この坂は急だがさほど長くないのがせめてもの救いだった。

 

美鈴たちはどうだろう。二人とも大きな荷物を背負っていたから、きっと今の自分以上にこの坂を登るのに息絶え絶えになってるはずだ。

 

ちょっと立ち止まって振り返ってみると、意外にも二人とも元気そうで、結花は一成と談笑しながら、美鈴にいたっては自生している雑草を摘み取る余裕さえあるようだった。二人とも伊達に毎日サバ研の基礎トレーニングで鍛えているわけではないということだ。


「…………」

 

自分だけへろへろになっているのがなんだか悔しくて、葵はきっと唇を結んで背筋をしゃんと伸ばして精一杯強がって平気な顔を作った。ライバルに無様な姿をみせるなんて葵のプライドが許さなかった。

 

なによ、こんな坂。ぜんぜん平気なんだから。


「いい顔だ。やっぱり葵さんにはその凛々しい顔が似合う」


「ふんだ。あたしは負けないんだから」


「そうとも! この大自然に力を振り絞って挑むのが登山家の生き様だ! 試練を乗り越えた末に掴み取るものは労せずに手に入れたものよりずっと価値があるものだ! 大事なのは、絶望の淵に立っても諦めないことだ。前向きの姿勢こそ真の勇気を示すものなのだ!」

 

微妙にずれた武井のセリフだったが、思いのほか胸に響いた。大介のそばには可愛くて健気な美鈴という強力なライバルがいる。でも負けない、諦めない。


「……武井先輩もたまにはいいこと言うじゃない」


「はっはっは。残念ながらこれはオレの心の師匠、偉大なる探検家アーネスト・シャクルトンの名言だけどな! 知ってるか? 史上最強のリーダー、アーネスト・シャクルトンを」

 

その名前はどこかで聞いた覚えはあったがどういう内容だったかまでは覚えていない。


「知らないわ」


「ぼくも知らないっす」


「なんだと、高見沢! お前には偉大なるサー・シャクルトンの話はしただろう!?」


「そうでしたっけ?」

 

とぼけた顔で首をひねる高見沢に武井ががっくりと肩を落とす。


「……アーネスト・シャクルトンは初の南極点到達を目指して二度南極探検に挑んだが結局到達できず、ノルウェーのアムンゼンに先を越された。1914年の三度目の南極探検では初の南極大陸横断を目指していたが結局南極大陸上陸前に流氷に閉じ込められて船が沈没してしまった」


「駄目駄目じゃないっすか」


「だが! シャクルトンがすごいのはここからだ。マイナス四〇℃の極寒の南極で船を失うなど、もはや死を待つしかないピンチだ。それでもシャクルトンは諦めず、知恵と勇気を絞り、二年間のサバイバルの末に二十七人の隊員すべてを無事に生還させたのだ!」


「へえ、すごいっすね」


「そうとも! オレはシャクルトンの伝記を読んだ時、感動に打ち震えた。こんな偉大な男になりたいと! 絶望の淵に立っても諦めないと!」


「うう、いい話っす」

 

高見沢が目じりを拭う。それなりに興味深い話ではあったが、今の話のどこに泣き要素があったのかと葵は首をひねる。しかし、今の話を聞いてシャクルトンのことは以前に大介から聞いたことを思い出した。


ただし、大介のシャクルトンへの評価はさほど高くはなかったが。


――同時期の極地探検隊では全滅も珍しくなかった。そんな中、シャクルトンが隊員全員を無事に生還させたことは確かに他に類を見ない偉業だ。が、そもそも名誉欲に駆られて南極に行かなければそんな危機に陥ることすらなかったんだ。まあ、これは俺が探検家って職業が嫌いだからって偏見も入ってるんだろうけどな。

 

シャクルトンを尊敬する武井は探検家を目指し、逆に冷ややかな目で見る大介はサバイバルに価値を見出す。


この二人はやっぱり価値観が対極にあるんだと改めて思った。




【さるすべりの坂】を登り終え、なだらかな尾根道を通って大日山から日向山に入り、湧き水のある【水のみ場】で一旦休憩となる。

 

葵たち三人が到着すると、ちょうど入れ替わりにそれまで休憩していた第一グループの四人が立ち上がり、山岳部副部長の山崎が武井と短く言葉を交わす。


「ほな、まこやん、わいらは先行くでな。生徒会長さんのこと気遣ったりよ」


「言われるまでもない! タケちゃんこそ山の素晴らしさをしっかり教えてやってくれよ」


「はいな。景色を楽しみながらぼちぼち登ってくわ」

 

ハイキング地図に【水のみ場】と書き込まれているそこは、一跨ぎぐらいの幅の沢になっていて、苔むしたごつごつとした岩の間を清水がちょろちょろと流れていた。人が座って休憩できそうな平べったい大岩の横に立つ朽ちかけた木の看板には【水のみ場】の字がまだかすかに読み取れた。


「さあ、ここで最初の休憩だ。ここの沢の水は地中から染み出してきた天然のミネラルウォーターだから美味いぞ」


「まじすか。ただでミネラルウォーターが飲めるなら、ぼくは遠慮なく飲んじゃうっすよ」


高見沢がそう言うなり早速沢に降りていって両手で水をすくって口をつける。


「うおっ、むっちゃ冷たくて美味いっす! 水ってこんなに美味かったんすね!」


「だろう? 水道水とはぜんぜん違う、これぞ山でしか味わえない贅沢な水だ! しっかり堪能するがいい」

 

武井と高見沢の会話を聞き流しながら、葵は大岩に腰を下ろして大きくため息をついた。


「ふう……」


疲れた。


武井は葵のペースに合わせてくれたが、それでもちょっと一息つかないと沢に水を飲みに降りていく元気は出そうになかった。と、ふいに目の前にステンレスのマグカップが差し出される。


「え?」

 

顔を上げると武井だった。葵のために汲んでくれたものらしい。


「疲れただろう? 飲んだら元気が出るぞ」


「ありがとう」

 

素直に礼を言ってステンレスマグを受け取って口をつける。

 

自覚していなかったが、けっこう喉が渇いていたようで一気に飲み干してしまった。びっくりするほど冷たい水が喉を潤し、火照った体を鎮めてくれる。


「もう一杯どうだ?」


「お願いするわ」


「お安い御用だ」

 

武井が気安く空のステンレスマグを受け取って沢を往復する。

 

二杯目はじっくりと味わう余裕があった。飲みなれた水道水がいかに不味いかがよく分かる。当然のことながらカルキ臭さなんか全く無く、口あたりが滑らかで微かに甘みさえ感じられるようだった。


「水ってこんなに美味しいものだったのね」

 

思わず呟くと、武井が我が意を得たりとうなずく。


「そうさ! 海に下った水が蒸発して雲になり、山に雨を降らし、山に染み込んだ水が地中で濾過され、地中の様々なミネラルを含有して湧き出してくる。この水は言うなれば湧き出してきたばかりの水の一番絞り。水の循環最初の過程を経たばかりの最高級の水だ! 美味くないわけがない!」


「その理屈は納得できるわ。ううん、理屈抜きにしてもこの水は本当に美味しい。この水が飲めただけでも山に来た甲斐があったわ」


「…………」

 

素直な感想を口にして、ふと目の前に立つ武井がぷるぷると震えていることに気づく。


「……どうしたの?」


「お、オレは今、猛烈に感動しているっ!!」


「はぁ?」

 

見上げると、武井がそのつぶらな両目から涙をぼろぼろとこぼしていた。


「葵さんに喜んでもらえてこの武井真人、感無量の一言に尽きる! オレの愛する山の素晴らしさの一端が葵さんに理解してもらえたこの喜び! 我が人生一片の悔いなしっ!」


「……おおげさなのよ、あなたは毎回毎回」

 

思わずくすりと笑ってしまう。武井は思い込みが激しくてせっかちでばかだけど、こういう純粋でまっすぐなところは憎めない。


……悪い人ではないのよね。バカだけど。


「葵さん、この山には是非とも君に見せたい素晴らしい場所がまだまだあるんだ! この水以上の感動があることをオレが保障するぞ!」


「そう。楽しみにしてるわ。……ありがとう。あたしはもういいから武井先輩も飲んで」

 

空になったステンレスマグを礼を言って返す。


「期待していてくれ! よし、じゃあオレも飲むとしよう」

 

軽やかな足取りで沢に降りていった武井は、葵が使ったステンレスマグをゆすぎ、次の瞬間悲痛な叫びを上げた。


「な、なんてことだ! つい習慣的に洗ってしまった!! 葵さんが使ったマグを洗うなんてなんてもったいないことを!!」 


「ぷっ、あはははは」

 

思わず吹き出してしまった。感情をあまり表に出さない大介とは対照的に、常に感情を全身で表し続けている武井は良くも悪くも裏表がない分かり易い男で、そんな武井を相手にしていると葵は自分でも驚くぐらい素直になっていることに気づく。

 

朱に交われば赤くなるってことかしらね。

 

分かりやすく落ち込んでいる武井を横目で見ながら、葵はそんなことを思った。



「うっぷ……。飲みすぎたっす。腹がたぷんたぷんっす」

 

そんなことを言いながら高見沢がようやく沢から上がってくる。一緒に上がってきた武井が呆れたように高見沢の頭を小突く。


「この馬鹿が。まだ山登りは半分残っているのにそんなに飲んで体を重くしてどうする」


「ここでしか飲めないと思うとつい飲み貯めしてしまったっす。……うぷ」


「ちょっと座って休んだら?」

 

葵が座っていた大岩から立ち上がると、高見沢が入れ違いに腰を下ろし、足を伸ばして上体を反らす。


「あー、この体勢はちょっと楽っす」


「まったく、休憩して動けなくなるなど本末転倒もいいところだ。少し楽になったら山登りを再開するぞ」


「ういっす~」

 

一体どれだけ飲んだらこうなるのやら。手のかかる後輩に苦労させられる武井に思わず同情してしまった。






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