第49話 谷風現象

熊よけの意味も兼ね、努めて大声で会話をしながら四人で歩いていると、ふいに開けた場所に出た。


そのあたり一帯数十メートル四方に渡って木が伐採された空き地になっていて丈の低い草が繁茂していた。


美鈴が訊くより先に大介が教えてくれる。


「ここはヘリポート跡だ。林業が盛んだった頃は山で怪我をした作業員を搬送するために活用されていたらしい」

 

ハイキング地図を見ると、日向山の頂上近くに確かにヘリポート跡と書かれていた。地図に記されている登山口からここまでの所要時間の目安が約1時間半。実際にかかった時間もだいたい同じぐらいだからそれなりに信頼できる目安ということだ。


ここから日向山頂上まで10分。そこから丑草山の頂上までがさらに20分というところらしい。


「先輩、山の頂上って見晴らしはいいんです?」


「場所によるな。もうすぐ日向山の頂上を通過するが、そこは尾根道の途中に山の頂上であることを示す道祖神があるだけで今まで通ってきた登山道とぜんぜん変わらないから当然見晴らしは悪い。だが、丑草山の頂上はちょっとした広場になっていて見晴らしはいいぞ。天気が良ければ富士山が見えることもある」


「ほわぁ! 今日は見えますかね?」


「無理だろうな。春霞って言葉があるとおり、春は空気が霞んでいるからあまり遠くは見えないんだ。狙い目は雨が降った直後の晴れた日だ。雨が降ると空気中を漂っている塵が流されて空気が綺麗になるから遠くまで見えるようになるんだ。……そうだ、雨といえば二人ともちゃんと雨具は持ってきているな?」


「持ってます。言われたとおり大きめのポンチョタイプです」


「うちも同じの持ってきたけど、それが?」


「じゃあ、二人ともここでそれをリュックの一番上、すぐに取り出せる場所に入れなおしておくんだ。もうすぐ雨になる」


「え? でもすごくいい天気ですよ?」

 

今それをする必要があるとは思えない。どうせもうすぐ頂上でお昼休憩になるのだからそこでやればいいのに。それに天気予報も今日は晴れるって言ってたし。


この空き地から見上げた空は確かにさっきよりは少し雲は出てきたが今すぐどうこうなるとは思えない。

 

美鈴と結花の不満顔に気づいた一成が意味深な笑いを浮かべながら言う。


「言われたとおりにしといた方がいいぜ。局所レベルなら気象庁の天気予報よりも隊長の勘のほうが当たる」


「……分かりました」


そこまで言われて抵抗し続けるほど二人とも頑固ではない。大介と一成が降るといえば降るのだ。

 

美鈴と結花はその場でリュックを下ろし、リュックの底の方からレインポンチョを取り出してリュックの一番上にしまいなおした。


「でも参謀先輩、もうすぐ雨が降るならお昼はどうするん? 雨宿りできる場所ってあるん?」


「あーそれは心配ねえ。丑草山の頂上には東屋あずまやが建ってるからな。横殴りの雨なら役に立たねえが普通の雨なら10人ぐらい余裕で収容できる。隊長、大した雨にはならねえだろ?」


「たぶんな。これが夏なら雷雨になるかもしれないが、今日程度の陽気なら大崩れはしないはずだ」


「……先輩はなんでもうすぐ雨って分かるんです?」


「山の天気が変わりやすいって話は聞いたことがあるだろう。それは谷風現象というのが関係してるんだ。具体的には、今日みたいな暑いぐらいの陽気の日に山の下から上に向かって湿気の多い風が吹き上がってきたら要注意だ」

 

言われてみれば、さっきからしっとりとした風が麓の方から吹き続けている。登山で火照った肌に心地良くて気にしていなかったが。


「どういう原理です?」


「朝から山の斜面が太陽に暖められると、風が谷筋に沿って下から上に吹き上げるようになる。それが谷風だが、その谷風にかなりの湿気が混じってると山の上で上昇流になって雲を作るんだ。風に含まれる水分と外気温が高ければ高いほど雲の発達が早くなり、局所的な雨が生じやすくなる。それが谷風現象だ。特に今日は、二、三日前に雨が降ったばかりだから谷風に含まれる湿気も多い」


「なるほど。納得です」





それから程なくして、あたりに霧が立ちこめ始め、美鈴たちが日向山の頂上を通過したぐらいのタイミングで大介の予告どおり、本当に雨がぽつぽつと降り始めた。

 

すぐに取り出せるようにしていたポンチョを適当な大岩の影でそれぞれリュックを背負ったまますっぽりと被る。合羽やレインコートとは違い、荷物を濡らさないで済むのがポンチョの最大の利点だ。

 

ちなみにサバ研のユニフォームであるカーゴパンツは防水性と即乾性に優れたゴアテックス素材なので雨にも強い。

 

降り始めた雨はすぐにザーザー降りとなり、霧と相まって視界がひどく悪い。

 

顔を上げると濡れてしまうので美鈴がついついうつむきがちになって足元だけを見て歩いていたら、ふいに後ろからガシッとポンチョ越しにリュックを掴まれた。


「うあっ!?」


「ネコちゃん、そっちは獣道だ! ちゃんと木の目印を確認しろ!」

 

慌てて顔を上げると、数㍍先を歩いていたはずの結花の背中が無い。


踏み固められて道らしくなっていたそこには、登山道であることを示す目印のテープもない。


「うわっ。危なかったです!」

 

背筋に寒いものが走る。もしも自分が最後尾だったら引き止めてくれる者もいないままどこまで迷い込んでしまったか分からない。


「登山中に雨に打たれる危険の一つがこれだ。つい下を見て歩いてしまって獣道に迷い込む。よくあるパターンだから気をつけるようにな」


「はい。ありがとうございます」

 

ほっと胸をなでおろし、今度はちゃんと目印を確認しながら進み始める。こうしてみると、気を抜くと迷い込んでしまいそうな紛らわしい獣道との分岐がそこかしこにあることが分かる。


そのことを言うと、大介は笑って言った。


「そりゃあ獣たちもできれば楽がしたいからな。歩きやすい踏み固められた道があるなら使えるところまでその道を使うさ。ましてこのハイキングコースはしばらく人が通っていなかったみたいだから警戒心も緩んでいるだろう」


「なんで人が通ってなかったって分かるんです?」


「人通りが多い道のそばに臆病なツキノワが巣穴を掘るわけがない」


「なるほど」

 

言われてみれば道理である。


「さあ、もうすぐ丑草山の頂上だ。この坂が最後の難関だ。頑張って登りきるぞ」


「はいっ」


頂上に通ずる最後の坂は背の低い雑木に頭上が覆われた木のトンネルのようになっていて、その先に白い光が見える。

 

勾配は最初の【さるすべりの坂】に較べればずっと楽だが、さすがにここまで山を登ってきた足には結構きつく、雨で濡れた落ち葉は靴底の滑り止めのしっかりしたブーツでも滑りそうになる。

 

濡れ落ち葉に足を取られそうになって慌てて体勢を立て直そうとしたら、今度はリュックの重さでバランスを崩して後ろ向きにふらつく。


「あっ! ああ――――!」

 

自分ではもう止まれない!坂を後ろ向きに転げ落ちていく自分を想像して恐怖に囚われるが、二、三歩後ろにふらついたところで大介が抱きとめてくれたので事なきを得た。


「危なかったな。足首とかひねってないか?」

 

大介の顔がすぐ真上にあって、自分が大介の胸板に後頭部を押し付けている状態であることに気づいて一瞬で顔がボッと熱くなる。


「だ、だだだ大丈夫ですぅ! 助かりました」


「あともうちょっとだ。頑張れ」

 

そう言いながら大介が美鈴のリュックを押しながら坂登りを再開する。別に一人でも登れるけどありがたくこの好意に甘えることにする。


「えへへ、楽ちんです」


「これぐらいのサポートなんて大したことないさ。サバイバル用品を詰め込んでいるこのリュックを背負っての登山はネコちゃんみたいな小柄な女の子にはきついだろうにここまでよく頑張ったな。だが、無理して我慢せずに辛かったら遠慮なく言っていいぞ」


「……今のは本当にちょっとふらついただけで、ミネコはまだ余裕あります。日頃のトレーニングの賜物なのです」

 

へばっていると思われるのが心外でちょっと頬を膨らませると、大介が笑って美鈴の頭をくしゃくしゃと撫でる。


「悪かったな。見くびっているつもりはなかったんだが、そんな印象を与えたなら謝る。それにしても…………」


「それにしても?」


「いや、あの頼りなさげな女の子がずいぶん頼もしくなったな、と感心しただけだ」

 

大介の最大級の賛辞に思わず顔がにやけてしまう。恋する女の子は無敵です。好きな人に認めてもらう為ならなんだってできるんです。

 

その言葉を口に出すのを止めるのにけっこう苦労した。かわりにちょっと格好をつけて建前を口にする。


「ミネコたちはこのツアーで何かあった時の保険として参加してるんですから、ミネコが足手まといになるわけにはいかないのです!」


「ははっ。よく言った! それでこそサバ研の一員だ」

 


でも、その何かが実際に起きるなんて思っていなかった。

 

丑草山の頂上にたどり着いて、そこの東屋で休憩している先行グループに合流するまでは。



木のトンネルを抜け、先に東屋にたどり着いた一成が血相を変えて美鈴たちの方を振り返る。


「隊長っ!」

 

美鈴は、一成の切羽詰った声と傍らの大介が息を呑むのを感じ取り、胸の中がざわりと騒いだ。

 

四本の柱に屋根が載っただけの簡単な東屋の中に入ってそこにいるメンバーを見回した時、美鈴は何か違和感を感じた。


「おう茂山、やっと来たか。雨のせいで景色が悪いのが残念だが、ここで食事休憩にしよう」

 

暢気にそんなことを言う武井。しかし、美鈴の感じる違和感はますます大きくなっていった。

 

その違和感の正体に気づく前に、大介が武井に地を這うような低い声で問いかけた。


「武井、葵はどうした?」


「!」

 

違和感の正体。そこには、葵がいなかった。


「どうしたもこうしたも、お前と一緒にいるのだろう?」

 

さもそれが当然であるかのように言った武井の胸倉を、次の瞬間大介が荒々しく掴み上げる。体格も身長も武井の方が勝っているにも拘らず、武井の身体は宙に浮いた。

 

一瞬で沸点を突破した大介の激昂ぶりに周囲が静まり返る中、大介の怒声が響き渡る。


「葵はどうした!? なぜ葵がいない!? 答えろ! 武井っ!!」












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