第50話 遭難
ここはいったいどこなの?
葵は途方に暮れて辺りを見回した。さっきまでは雑木林だったのに、いつしか再び植林された杉の大木が等間隔で立ち並ぶ場所に来ていた。
木の一本一本に特徴がなく、360度似たり寄ったりの光景が延々と続くこの場所は迷路とさほど変わらない。かろうじて斜面で上か下かが分かるぐらいだ。
上からの光がさえぎられているので昼だというのに夕暮れのように薄暗い。霧のせいでひどく視界が悪く、30㍍先も見えない。
しとしとと降り続ける雨が木の葉や枝を伝って大粒の雫となって剥きだしの手のひらを濡らす。
どこでどう間違えたんだろう。踏み固められた道をちゃんと歩いていたはずなのに。
いつのまにか道がなくなっていて、周囲を見回しても目印のテープが巻いてある木がどこにも見当たらなくなっていた。
慌てて来た道を戻ろうとしたが、自分がどっちの方向から歩いてきたのかさえ、その時には分からなくなってしまっていた。
慌てて取り出した頼みの綱のケータイも圏外で、自分が連絡の手段を失った状態で山中で迷子になった――すなわち遭難したということにようやく気付いた。
どうしよう……。
降りしきる雨が、立ちこめる霧が、葵の不安を一層かき立てる。
あたしの面倒をみるって豪語してたくせに、武井先輩のバカ! そのきっかけを作った高見沢の大バカ!!
心細くて、泣きそうになりながら葵は内心毒づいた。
高見沢と武井が自分を置いて先に行ったりするからこんなことになってしまったのだ。
所在無く立ち尽くしたまま、葵は杖を握り締めた。
大介が付けてくれた真鍮のベルがコロンと虚しく鳴る。
「どうしよう…………大介、怖いよ……」
思わず本音がこぼれ、視界が涙で霞む。
あの時、葵たち第二グループは日向山と丑草山のちょうど中間ぐらいの場所にいた。
ハイキング地図に【アカメガシワの森】と表記されていたその場所は、その名の由来となったアカメガシワの木やクヌギやヤマザクラが統一性なくそこかしこに立ち並ぶ雑木林で、植林された針葉樹はほとんどない。
あまり山の上にまで植林しても間伐などの世話や切り出す手間が大変なので、このあたりはほとんど人間の手が入っていない自然のままの雑木林が残されているそうだ。
雑然と立ち並ぶ木々の間から見える空はいつの間にか今にも泣き出しそうに曇っていた。
やがて葵たちのいる場所にまで雲が下りてきて白い煙のような霧状になってあたりを漂い始める。
「思ったより崩れるのが早いな。これは頂上に着くまで保つかどうか怪しいぞ」
空を見上げながら武井がつぶやく。
「今日は一日晴れるって予報だったのに……」
「平地の天気予報は山じゃ当てにならん。天気が崩れているのはこの山の周辺だけの局地的なもので、他の場所は今も晴れているはずだ」
「どういうこと?」
「葵さんは谷風現象って知っているか?」
「知らないわ」
「じゃあそこからだな。谷風現象というのは……」
武井が歩きながら谷風現象について説明をしている途中でとうとうぽつりぽつりと雨が降り始めた。
そしてすぐに、大雨というほどではないが霧雨というにはちょっと強いぐらいになる。
とりあえず、近くにあったアカメガシワの大木の下に避難した。
「これはしばらく降り続きそうだ。……葵さん、雨具はちゃんと持ってきてるな。頂上まであと少しだが、身体を濡らすのは良くないからここで合羽を着ることにしよう」
「わかったわ」
素直にうなずいて荷物を下ろして合羽を取り出していると、高見沢が武井に問いかけた。
「キャップテン、こっから頂上までどれぐらい時間かかるっすか?」
「んー? そうだな、今のペースで歩いていけば10分かそこらで着けるはずだ」
「じゃあ、走ったらもっと早く着くっすよね?」
「なんだと? お前まさか!?」
高見沢がにっと笑い、親指を立てて見せる。
「合羽をわざわざ出すのが面倒っすから、ぼくはまだ小雨のうちに先に頂上まで走っていくっす!」
「ば、馬鹿! やめろ!」
「じゃ、お先っすー!」
武井が止めるのも聞かずに高見沢が雨宿りしていた木の下から飛び出して走っていく。武井は焦った表情で高見沢と葵を交互に見た。今まさに合羽を羽織りかけていた葵はすぐには動けない。
「葵さん! オレはあの馬鹿を追いかけてとっ捕まえる! 雨でぬかるんだ山道を走る危険、山で雨に濡れる危険をあいつは全然分かっていないんだ! 葵さんはこのままここで動かないでいてくれ! もう少ししたら茂山たちが追いついてくるはずだからそっちに合流するんだ! いいか、くれぐれも一人歩きはしないようになっ!!」
「え、ちょ、ちょっと!」
葵に口を挟む間も与えず、武井はそれだけ言い置いて高見沢を追いかけて行った。
「…………行っちゃった」
あとに残された葵は、とりあえず合羽に着替えてアカメガシワの木の下で大介たちが追いついてくるのを待つことにした。でも、気付かないうちにかなり距離が開いていたようで、なかなか大介たちは姿を見せなかった。
五分、十分と経つうちにだんだん不安になってくる。
たった一人でこの人里離れた奥山に取り残されているのがすごく心細くて、このまま大介たちが来なかったらどうしようと思いはじめた。
こんなに待っても来ないんだからなにかあったのかもしれない。この霧だからもしかしたら気づかないうちに追い抜かれてしまったのかもしれないし、美鈴か結花が怪我をしたとか具合が悪くなったとかで引き返したのかも。
ハイキング地図で確認してみれば、この【アカメガシワの森】から丑草山の頂上まではもう目と鼻の先だ。
これぐらいの距離だったら一人でも行ける。一人で歩くのは不安だけど、でもこんな場所で一人でいるよりはずっといい。いつ来るか分からない大介たちを待つより、早く頂上で先に着いているはずのグループに合流した方が早い。
そう考えて、葵は大介たちを待つのをやめた。
だんだん雨が強くなってきたので、ついうつむきがちになって足元だけを見て歩いていたのだが、けっこう歩いたはずなのに一向に頂上らしいところに着かず、登りのはずなのにいつのまにか下っていておかしいなと思いはじめ、歩いていた道の判別がつきにくくなって初めて顔を上げてみた時にはすでに自分の現在地を完全に見失っていた。
そして、今に至る。
なんで武井の指示に従って大介たちを待たなかったのかと悔やんでももう遅い。
「うう、ぐすっ」
一度堰を切った涙は止まることなく次から次にぽろぽろとこぼれてくる。
「……どうしよう」
すでに何度目かになるか分からないつぶやきを漏らす。
他のみんなに合流できるようにとにかく歩き回るべきなのか、それとも助けが来るまでここを動かない方がいいのか、自力で麓を目指すべきなのか、どうしたらいいのか分からない。
こんなことなら、はぐれたらどうしたらいいのか事前に大介に聞いておけばよかった。
大介が一緒なら心配ないからって山の危険を甘く見ていた。自分に限って遭難することなんかありえないと高をくくっていた。そんなことを信じられる根拠など一つもないというのに。
適当な木の幹に背中を預けてずるずると座り込む。足がすっかり棒のようになってしまったから休憩しないことには動けそうにない。
木の梢から滴り落ちる雨粒が土に弾ける音以外何も聞こえない。
……もうやだ。帰りたい。……でも、帰れない。
葵は体育座りしたひざに顔を埋めた。
「ひっく、ひくっ……ぐすっ……ひっく、だいすけぇ……たすけて」
まるで小さな子供のように葵は泣き続けた。
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