第43話 熊対策
校舎裏では、今日もサバ研が燻製作りをしていた。今日の当番は美鈴と大介と【軍曹】哲平の三人だった。
今回は、学校の裏の櫛田川を遡上してきたサツキマスのスモークトラウトを作っている。燻製当番といっても、定期的に薪をくべる以外にすることはないので、基本的にスモーカーの様子を見つつだべっているだけだが。
「ネコちゃん、そろそろ次の薪をくべてくれ」
「了解です」
真新しいサバ研のユニフォームに身を包んだ美鈴が椅子代わりの丸太からぴょこんと立ちあがり、生乾きのサクラを適当な長さに切った燻製用の薪を手にスモーカーに近づいた。燻製用の薪は乾いているより生木の方がいいのだ。
サバ研のスモーカーは、レンガをモルタルで固めた窯が下にあり、その煙突が上のドラム缶に繋がっている。窯で薪やスモークウッドを燃やし、その煙がドラム缶の中に流れ込み、その中に吊るしてある肉や魚を燻醸するという仕組みだ。
美鈴が窯の扉を開けると、もくもくと真っ白な煙が美鈴をまく。
「けふんっ、けふんっ! あうぅ、煙が目に染みますぅ」
涙目になりながら、薪をくべてすぐに扉を閉める。たちまちのうちにドラム缶スモーカーから吐き出される煙の量が増す。
燻製当番の日は体中に煙の匂いが染み付くので、最近、美鈴も結花も当番の日は帰りの電車の中でも街中でも、周りの人からかなり胡乱な目で見られる。
そのことに関する大介のコメントはあまりにも無責任な「そのうち慣れるさ」の一言だった。確かに、だんだん他人の視線も自分に染み付いた煙の匂いも気にはならなくなってきたし、家族やクラスメイトたちも煙の匂いを漂わせている自分のことを気にしなくなってきたが。でも、これはこれで花の女子高生として間違っている気がする。
薪をくべたあとで、美鈴はちょっと背伸びしてスモーカーの上から中を覗き込んだ。真っ白い煙に包まれて、何匹もの大きなサツキマスが燻されている。生魚だったものがだんだん水気がなくなり、褐色になって燻製になっていく過程を見るのはこれはこれで結構楽しい。
ただ、スモーカーの上から覗き込むということは必然的に昇ってくる煙に燻されるということで……。
「けふんっ、けふんっ! うー、もう駄目です」
咳きこみながら大介たちのところに戻る。
「馬鹿だな。スモーカーを上から覗いたら苦しいに決まってるだろう」
呆れた様子の大介に、てへっと笑って舌を出し、ぶりっこな素振りで首を傾げてみせる。
「ミネコのことはスモークネコとお呼びください。美味しそうです?」
ちょっとふざけただけなのに真面目な顔で真剣に頷く大介。
「そうか。ネコちゃんの二つ名は【スモークネコ】が希望か」
「イヤです!! やめてください!! そんな二つ名付けられたら泣くですよ!!」
「……そうか。まぁ二つ名にしちゃあ微妙だが本人が望むなら仕方ないと思ったんだが」
「……むー、ただの冗談じゃないですか。冗談に本気で返されるとリアクションに困ります」
「ふむ。葵に言わせると俺には冗談は通じないらしいぞ」
「そんなことミネコだって知ってます!」
「そうか」
会話としては成立しているものの、大介のリアクションはなんかどこか違う気がする。
そのままなんとなく会話が自然消滅してしまったあとで、それまで黙っていた哲平がふと思い出したように言う。
「そういえば隊長、今回のサツキマスを釣ってきたフィッシング愛好会の連中から聞いたのでありますが、この辺にも熊が出てるようであります。連中が遭遇したわけではないようですが、知り合いの釣り人が見かけたそうであります」
「熊っ!?」
目を剥く美鈴と平然と応じる大介。
「そうか。なら俺たちも気をつけなくちゃいけないな」
「了解であります」
「気をつけるってどうやるんです!?」
「藪や森や山に入る時は音の鳴るものを身に着けておくことだ。突然ばったり遭ったら熊も動転しているから襲ってくることもあるが、鳴り物を身につけていれば熊の方が人間を避けるからそうそう遭遇することもない」
「でももし襲ってきたらどうすればいいんです?」
「軍曹、お前ならどうする?」
「返り討ちにしてくれるであります」
「わははは! さすが、頼もしいな。ネコちゃんならどうする?」
逆に振られて、童話のエピソードを思い出しながら答える。
「えーと、死んだふり?」
「あー、それ最悪だ。熊にとって屍肉は最高のご馳走だ。熊に腕とか足をかじられてもじっと我慢できるか? 我慢できずに逃げようとしたら間違いなくやられるぞ」
「ええー! じゃあ、木に登る?」
「二番目に悪い方法だ。熊は木登りが上手いぞ」
童話って役に立たない! と憮然としながら何も考えずに答える。
「それなら、走って逃げる」
「熊は足が速いぞ。森の中でも時速六〇㌔ぐらいで走れるからすぐに追いつかれる」
「ううー、じゃあどうすればいいんです?」
あと思いつくのは応戦ぐらいしか……。
「怒鳴りつけろ」
「はい?」
意外な答えに思わず聞き返す。
「相手をにらみつけてなんでもいいから大声を出せ。そして、そのままゆっくりと後ろに下がっていってだんだん熊と距離を取る。そうすれば大抵それ以上は追ってこない」
「もしそれでも追ってきたら?」
「もしそうなったら戦うしかないな。まあ、本州にいるのはせいぜいツキノワグマだ。戦って勝てない相手じゃないぞ」
「そんなの無理です!」
「でもな、相手が本気で襲ってきた場合は、戦うのが最善で唯一の方法だ。鉈でも棒でもなんでもいいからとにかく殴りつけるんだ。熊は体中どこにでもちゃんと痛覚があるからどこを殴ってもちゃんと効果はあるが特に目や鼻を狙うのがいいな。とにかく、熊に手強い相手だと認識させれば、特にツキノワグマは臆病だからまず逃げ出す。統計でも、熊に襲われて無事だったのは逃げた人間じゃなく抵抗した人間の方が圧倒的に多いという結果が出ている。まあ遭遇すること自体そうそうないだろうが覚えておいてくれ」
「……わかりました。でも、最近熊がよく出ますよね。熊の数が増えてるんです?」
「そういうわけじゃない。むしろ数は減ってるぐらいだ。ツキノワグマは絶滅も心配されている」
「じゃあ、なんでこんなに熊がよく出るんです?」
「いろいろ原因はあるが、主な二つを挙げれば、近年の異常気象で奥山での熊の食料が減ってることが一つ。あと、農業や林業といった仕事につく人間が減ったことで里山が荒れてることだな」
「里山が荒れる?」
「里山ってのは人里の近くにある、ある程度人の手による管理の行き届いた山のことだ。そういう里山は奥山に較べて山菜やきのこが豊富だから、腹を減らした熊が人里に下りてくるのを食い止める緩衝地帯になってたんだが、里山の管理が行き届かなくなって原生林化すると熊は山から直接人里に下りてくるようになるわけだ」
大介の説明は分かりやすくて、美鈴はなるほどと納得した。
「昔は人と自然がうまく折り合いをつけてたのに、バランスが崩れてしまったんですね」
「そういうことだな」
そううなずいた大介は、何かの気配を感じ取ったのかふいに顔を上げて煙の向こうを見据えた。
もしや熊!? と美鈴も思わず身構える。
噂をすれば影が差すという法則が熊にも当てはまるのかは知らないが、今の話の流れを考えると十分ありそうな気がした。しかし、予想に反して、煙の下を掻い潜るようにしてこちらに歩いて来るのは葵だった。
「生徒会長でありますな」
「ふむ。わざわざここまで来るってことはなにか用事があるんだろう。……今日は葵に怒られる心当たりはないしな」
「んー、今日の葵先輩は怒ってはないです。殺気のオーラがないです」
「はは。ネコちゃんも言うようになったな」
そんなやり取りをしているうちに葵がそばにやってくる。
「部室に行ったら一成からここだって言われたから」
「どうしたんだ?」
「とりあえず用事が二つほど。太田さんから野良鶏退治の依頼と、山岳部からの援助の要請ね。GWに計画しているハイキングツアーを助けてほしいそうよ」
美鈴はこの前、高見沢が言っていた件だとピンときた。大介は山岳部が苦手だからてっきり断るだろうとも。しかし、大介は面倒くさそうな表情は浮かべつつも、その返答は美鈴の予想を裏切るものだった。
「正式な依頼なら仕方ないな。話を聞こうか」
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