第61話 失恋


美鈴も本当は分かっていた。大介の心が誰に向いているか。どんなに自然に振舞おうとしていても、大介の葵に対する接し方はやっぱりどこか不自然だったから。


それは、サバ研に仮入部してそばにいる時間が長くなるにつれ徐々に確信に変わってきた。

 

大介が葵と話している時だけ時折見せる憂いを帯びた笑顔。葵のことを話す時の誇らしげな表情。時々、葵の後ろ姿を目で追っていること。二人の間にある太い信頼の絆。

 

美鈴が大介のことが好きだからこそ分かる小さなピースの一つ一つは、大介が好きなのは葵だということを示していた。でもなぜか、大介はその想いを自ら諦め、葬り去ろうとしているようだった。明らかに両想いであるにもかかわらず葵と付き合う気などないようで、あえて葵との間に一歩距離を空け、間に一枚の透明な板を挟んでいた。

 

だから、もしかしたら、自分にも望みはあるかもと一縷の期待を抱いていた。大介が葵のことを最初から諦めているなら、いつか大介の心が自分に向くんじゃないか、と。

 

だけど結局のところ、最初から望みなどまったくなかったのだ。そのことを美鈴は、今回の大介の反応でこれ以上ないぐらい徹底的に思い知らされた。大介にとっての葵は本当にたった一人の特別な女の子で、そこには一瞬の揺るぎもなく一分も付け入る隙などなかった。

 

葵のトレースを森の中で見失った時、大介が葵のことを心配して流した涙を見た瞬間、美鈴自身がそのことを頭で理解するだけじゃなく、心の底から納得してしまった。自分は葵に敵わない、とその時心が折れた。

 


先輩の心の中にミネコのための特別な場所はないんですね。今もこれからも、そこは葵先輩だけの指定席なんですね。



ここまで完璧に失恋してしまうとかえって清々しく、今更無駄なあがきをしようなんて気持ちすら起こらなかった。もちろん、すごく悲しかったし心の中で泣いていた。でも、もういいと思った。


だから、谷底から途切れ途切れに聞こえてくる会話で、大介と葵がお互いの気持ちを確認し合い、告白し合ったと知っても、気持ちの整理がついていたから思っていたほどショックは受けなかった。


「……ネコ」

 

心配そうに声をかけてくる結花に、作り物じゃない笑顔で舌を出して見せた。


「えへ。失恋しちゃったぁ」


「大丈夫なん?」


「うん。…………なんていうかさ、ほんとはもう前から分かってたんですよね。大介先輩が好きなのは葵先輩だってこと。ミネコには最初から全然望みなんてなかったんだって。でもこれで、諦められるかなぁ?」

 

大介先輩、よかったですね。葵先輩とこれからもお幸せに。


美鈴の目から大粒の涙が一粒だけ、頬を伝って落ちる。


好きでした。先輩のこと本当に大好きでした。


その時、追加の薪を集めに森の中に入っていた一成が小脇に抱えた小枝と数本の2㍍ぐらいの笹を引きずりながら戻ってきた。笑顔で泣いている美鈴に気づいて怪訝な表情を浮かべる。


「あん? どうしたんだネコちゃん? 目にゴミでも入ったか?」


「え? ……へへ。そんなところです」


「目はこするなよ。そのままできるだけ涙で自然に流した方がいいからよ」


「はい! あ、参謀先輩、ちょうど良かったです。そろそろ火が弱くなってきてたのでその薪もらいますね」

 

美鈴は火のそばからぴょんと立ち上がって一成のそばに寄っていき、数本の小枝を取り、ダコタ式ファイヤーホールの風上側に掘られている空気穴兼投入口から投入する。


引きずってきた笹をどさっと地面に下ろした一成が二人に向き直る。


「さて、おれがいない間に何かあったか?」


「参謀先輩が薪集めに行ってる間に忍者先輩からの定時連絡放送が更新されてたじゃんね」


「そうか、なんつってた?」


「軍曹先輩と博士先輩はF37の仮拠点を通過したそうです。射手先輩と狩人先輩は谷の反対側に来ようと頑張ってるみたいですけど、斜面が急すぎてちょっと難航してるみたいです」


「軍曹たちが仮拠点を通過したってことは早くてあと15分ってとこか。射手たちはまだいつになるかわからんと。ふむ、ちょっと呼び出してみるか」


一成がトランシーバーの応答ボタンを押しながら呼び掛ける。


「参謀より軍曹。参謀より軍曹。聞こえたら返事を頼む。参謀より軍曹。参謀より軍曹。応答してくれ」


しばらく待ってみるが返事はない。


「軍曹たちはまだ通信圏内に入ってないようだな。じゃ次だ。……参謀より狩人。参謀より狩人。聞こえたら返事を頼む。参謀より狩人。応答してくれ」


こちらはすぐに返事が返ってくる。


『こちら狩人じゃ。参謀、どうぞ』


「そっちはどういう状況だ? 定時放送では難航しているっつうことだが? どうぞ」


『今は水のみ場近くの尾根道から斜面をザイル頼りで降ってるんじゃがの、土が柔らかすぎてペグの踏ん張りが効かんのに困っとるんじゃ。とりあえず、生えとる木にザイルを固定しつつ降っとるからもうしばらくで合流出来ると思うのじゃ。どうぞ』


「そうか。もしそちらから葵ちゃんを搬送できりゃあ大幅に下山ルートを短縮出来ると期待していたんだが、その様子じゃ無理っぽいな。どうぞ」


『横入りすいやせん。参謀の兄ぃ、そいつぁちっと無理ってぇもんですぜ。なるべく傾斜の緩やかな場所を選んでやすが、それでもオーバーハングありの相当な難所でやすし、あっしらでも下りはともかく、ここをもう一度登るのは勘弁願いてぇってなもんで。どうぞ』


「そこまで酷ぇか。悪ぃな無理させちまって。とりあえず、谷の対岸にさえ来てくれりゃあ谷にザイルを渡してチロリアンブリッジを張れるから、とにかく無事に到着してくれりゃそれでいい。どうぞ」


『合点承知でやんすよ。あっしらが到着したらすぐに引き上げが出来るようにそっちでできる準備は頼みやすぜ。どうぞ』


「おう。担架に使えそうな笹は集めて来たからよ、今からおれも下に降りて隊長を手伝ってくるぜ。こっちにゃ鈴花コンビが残ってるし、軍曹たちももうすぐ合流するはずだから到着したらすぐにチロリアンブリッジ張りに掛かってくれ。どうぞ」


『了解なのじゃ。こっちからは以上じゃ。どうぞ』


「隊長、聞いての通りだ。今からおれも下に行くぜ? どうぞ」


『ああ、頼む。葵もだいぶ回復したからいつでも上げられるぞ。俺と葵は降下地点から上流側5㍍の場所にいる。どうぞ』


「了解だ。オーバー」


交信を終え、トランシーバーをポーチに収納した一成が美鈴と結花に言う。


「そんじゃ、おれはこのまま下に行って隊長を手伝ってくるぜ。二人はこのまま火の番をしながら休憩しといてくれ。谷の向こう側に射手と狩人が到着したら、奴らと協力して谷にザイルを渡すように。いいな?」


「はい。了解なのです」


「ザイルを渡すってどうするん?」


「向こう側から先端にカラビナをつけたザイルをスリングショットで飛ばすからそいつを受け取って十分な太さのある木に固定してくれりゃいい。細かい金具の取り付けや引き上げの機構なんかは奴らがやってくれるからよ」


そう口で説明しつつ、一成は先程大介が降下した場所から崖下に担架の材料となる笹やロープ類を投げ落とし、自分自身もロープ降下の準備をする。背負っていた荷物を降ろし、その中からラペリング用の下降器ディセンダーとユマーリング用の登高器アセンダーだけを取り出す。

 

下降器をそのままベルトに装着し、すぐには使わない登高器をカーゴパンツのポケットに入れ、手馴れた仕草で下降器をザイルに取り付け、両手に手袋を装着する。

 

一成のロープ降下の準備を見ながら美鈴は言った。


「参謀先輩、ミネコにも今度ラペリングとユマーリングを教えてくださいね」


「おー、いいぜ。ラペリング、ユマーリングは一旦身に着けるとすっげー役に立つ技術だからな」


「あ、うちも! うちもやりたい!」


「じゃあ今度ちゃんと教えてやるから楽しみにしてな。じゃ、あと頼むぜ」


そう言いながら、崖っぷちに立った一成の姿が一瞬で視界から消える。数秒後に下からパシャッと小さな水音が届いた。

 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る