第60話 本当の気持ち

大介が谷底で葵の応急処置を行い、地面にこれ以上体温を奪われないように自分の太ももに葵を横抱きにして座らせた状態にしてしばらく経ち、ふいに葵がポツリとつぶやくように言った。


「あたし、死ぬ?」


「死なない。俺が絶対に死なせない」


「これは夢? 大介はここにいる?」


「夢じゃない。ちゃんと俺はここにいる」


「熊は? あたし、襲われたの」


「安心しろ。もう逃げていった。お前の弁当を喰いあさっていたから腹が減っていたんだろう」


「……せっかく大介の分もおにぎり作ってきてたのに」


「また今度食べさせてくれ」


「いいよ。また作ってあげる」

 

だいぶ意識障害から回復してきたようで会話がまともに成立するようになってきた。


そのうち、腕の中で葵ががたがたと震え始める。中枢体温が徐々に上がってきて自律神経が回復してきた証拠だ。


「……大介、寒い」

 

歯をかちかちと鳴らしながら葵が訴える。麻痺していた自律神経が働き始めた今が、葵にとっては一番寒く感じられるのだ。この段階まで回復すれば、多少は動かしても問題ない。


「ちょっと体勢を変えるぞ」


「う、うん」

 

そう言いながら葵の上体を持ち上げて起こし、膝の上に横座りさせているような体勢にしてから正面から包み込むようにして抱きしめた。


「ちょっ……大介」

 

焦ったように身を硬くする葵の耳元で安心させるように囁く。


「お前の体温を上げる手伝いをするだけだ。いやらしいことはしない」


「……う、うん」

 

葵の身体と、押し返すように二人の間に挟まれていた葵の両腕から力が抜けてゆく。やがて、その両腕が躊躇いがちにそろそろと大介の背中に回されてきた。大介の左肩に葵があごを載せ、頬と頬が触れ合い、胸と胸が密着する。


しかし、そうなると当然、葵の胸の感触がダイレクトに伝わってくるわけで、さすがに動揺して心拍数が跳ね上がったが、それでもなんとか平静を装って話しかけた。


「も、もうちょっと体温が上がってくれば震えも止まる。そうしたら俺と一成で上げてやるからな。一成たちが上で温かい飲み物も準備してくれている」


「他の人たちはどうしたの?」


「お前が遭難したと分かった時点で一般参加の二人と山岳部は下山させた。代わりにサバ研のメンバーを総動員してお前の捜索をしていた。ネコちゃんと結花ちゃんは俺たちと一緒だったから今はこの崖の上で待ってるぞ」


「みんなに迷惑かけちゃったわね。……武井先輩、あんなに張り切ってたのに」


「あいつはちょっと自信過剰だったからいい薬だ。お前を死なせるようなことになってたら絶対に許さなかったが、無事だったからさっきの一発で勘弁してやる」

 

返事が返ってくるまで少しの間があった。


「…………一発って、殴ったの?」


「殴った。俺もお前を置き去りにしたあいつの無責任さにぶち切れたからな」


「そう。殴ったんだ。……ふふっ」


「何が可笑しい?」


「なんでもない。………………ねえ大介、さっき言ったことだけど」


「さっき?」


「その……さっき、あんたに手当てしてもらってた時に……」

 

言いにくそうに口ごもる葵の様子で見当がつく。葵はどうやら朦朧としていた時に口走ってしまったことをしっかり覚えているようだ。抱き合っている今のこの体勢を考えると意識せずにはいられないだろう。


「気にするな。意識障害が出ている時のたわごとなんかノーカウントだ」

 

しかし、葵がゆっくりと首を横に振る。


「……違う。あれ、あたしの本心だから」


「なっ!?」

 

背中に回された葵の手に力がこもる。


「あたし、素直じゃないから。いつも憎まれ口ばかりで本当の気持ちを言えないけど……本当は、ずっと前から、あたしは大介のことが好きだったの。今言えなかったら、たぶんずっと言えないと思うから……」

 

ごめんね、と続ける。こんな時に不謹慎だよね、と。


「…………」


予想外の不意打ちに言うべき言葉が見つからず、その沈黙をどう受け止めたのか、葵の声に涙が混じる。


「……やっぱり引いちゃうよね。あたしみたいに生意気で可愛げのない女に告られても困るよね。でも、お願いだから今だけは振らないで! 今だけは優しくして! 今振られて立ち直れる自信無いから。……お願い」

 

葵が離されるのを拒むようにぎゅうっとしがみついてくる。


「葵、俺は……」


「崖から落ちて、だんだん感覚なくなってきて、意識が薄れてきて、あたし死ぬんだって思った。怖かった。大介に好きってまだ言ってないのに死にたくないって思ったの。ごめんね。散々迷惑かけといてこんな困らせるようなこと言って。でも、あたしは……」


「もういい。分かったから。お前の気持ちはよく分かったから」

 

落ち着かせようと葵の背中を軽く叩いたが、感情的になっている今の葵には逆効果だったようで嗚咽が大きくなる。


「ごめんね。あたしのこと嫌いにならないで。お願いだから……」

 

意地もプライドもかなぐり捨てた素のままの葵が泣きながら懇願する。


「好きなの。あんたのこと好きなの! お願い、嫌いにならないで……」

 

葵が自分に対してそんな感情を抱いてくれているなどと考えもしなかった。なにかとトラブルを起こす自分たちにいつも文句を言いつつも付き合ってくれるのは、幼馴染の腐れ縁故で、葵はきっと本心では迷惑してるのだろうと思っていた。

 

ずっと葵に対して負い目を感じていて、それゆえに葵に自分の本当の気持ちを悟られないよう細心の注意を払っていた。幼馴染の友達として彼女のそばに在りたかったから。

 

だけど本当はずっと――


「葵っ!!」

 

葵が泣き顔のまま顔を上げる。なおも言い募ろうとする葵の唇を自分の唇で強引に塞いで黙らせる。


――ずっと彼女のことが好きだった。


びくっと抱きしめたままの葵の身体が硬直する。初めて重ねた葵の唇は柔らかく、ひんやりと冷たく、少し涙の味がした。

 

唇同士が離れてからも、葵はしばしの間呆然としていた。見開いたままの目は瞬きすら忘れている。


「……え? あれ? 今の……え?」

 

驚きのあまりすっかり涙が引っ込んでしまったらしい葵が困惑の表情を浮かべる。大介は顔が熱くなるのを自覚しながら、それでも葵の目をまっすぐに見て言った。


「自分から告白しといて勝手にはやとちりして自己完結するなよな! ……お前が遭難したって知って俺がどれだけ心配したと思ってるんだ。手がかりがなかなか見つからなくて焦ったし、やっと居場所が特定できたと思ったら熊に襲われていて……。熊がお前のバッグを食い漁っているのを見たときは心臓が止まるかと思ったぞ。もう手遅れだったらって考えて本当に胸が引き裂かれそうになった。お前のいない世界を一瞬想像して死にたくなった。俺にとって、お前はそれほど大きい存在なんだよ! 葵、俺だってお前のことが好きだ! 子供の頃からずっと好きだったんだ!!」


葵の華奢な身体を放すまいと強く抱きしめる。


「頼むから、俺の目の届かないところで勝手に死にかけないでくれよ! お前を守りたいから、いざという時にお前を守れるように、俺はサバイバルの研究をしているんだぞ!!」

 

今までずっと心の奥に秘めていた想いの丈をぶつけながら、涙がぼろぼろとこぼれてきた。葵の前でこんな情けない姿を見せたくないと思うのにどうにも止まらない。


「……ほ、本当に心配したんだぞ。間に合ってよかった」

 

努めて平静さを装おうとした声にも涙が混じる。葵が小さくうなずく。


「……し、心配かけてごめんね。助けに来てくれて、ありがと。…………大介、大好きだよ!!」

 

泣きながら途切れ途切れにやっとそれだけ言って、今度は葵の方からそっと唇を重ねてきた。

 






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