第63話 死闘
「ひいっ」
熊の吼え声に美鈴は思わず悲鳴を上げた。膝がガクガクと震え、槍を握る手にも力が入らない。心の準備すら出来ていない状態でいきなりすぐそばに現れて自分たちに剥き出しの敵意をぶつけてくる熊は本当に恐ろしい存在だった。
今すぐ逃げ出したいという気持ちを、数日前に熊と出会ったときの心構えとして教えられた、走って逃げてもすぐに追いつかれるということを思い出してなんとか抑えつつ、それでも正直どうしたらいいのか分からず、ほんの3メートルぐらいの距離で震えながら熊と向かい合っているというのが今の美鈴の精一杯だった。
その時、美鈴の腰のトランシーバーから頼もしい大介の声が聞こえてくる。
『全員落ち着け!! 今からする指示通りに動くんだ! 混線を避けるためトランシーバーでの応答はするな。とにかく今の現状を維持しつつ、参謀からの指示を待て!』
「はいっ!」
応答ボタンを押していないので返事は相手には届かない。それでも返事をせずにはいられなかった。結花と二人だけで熊に立ち向かわなければいけないという不安と恐れが一瞬で解消する。自分たちにはこんなにも頼もしい先輩たちがついているのだから。冷静になった瞬間、槍の穂先にまだ布のシースが被ったままであることに気づき、手早く外してポケットに押し込む。
大介の声に替わり一成の声が続く。
『参謀だ。隊長が今から崖を登って応援に向かうがすぐにゃあ無理だ。隊長の到着まで鈴花コンビでなんとか堪えてくれ。まず前衛のネコちゃん!』
「はいっ!」
『まず熊からは絶対に目を逸らせるな! 熊の一挙一動に注意しろ。突進を食らわねぇように、小刻みに動け。熊が何かしようとしてきたらその都度、大声を上げて相手を怯ませろ』
「はいっ! うおぉぉぉ!!」
一成の指示通りに動きつつ、まさにこちらに一歩を踏み出した瞬間の熊に向けて大声で威嚇すると熊は怯んだような動きを見せた。
『いい声だぜ。ここまで聞こえてきた。葵ちゃんの襲撃に成功したから調子に乗ってやがるんだろうが、ツキノワは本質的には臆病だ。攻撃の兆候を察知したら今みたいに大声で威嚇しろ。それと槍は振り下ろしたり薙いだりしねぇで、両手でしっかり持って小刻みに突きを繰り出せ。熊に槍の間合いの内側に入られないように突きでとにかく牽制しろ』
「やっ! やっ!」
言われた通り、右に左に動き回りながら熊に向けて何度も槍を突きだす。槍の穂先は熊に届かないが、それでもその動きは確かに熊にとって牽制になり、明らかに攻めあぐねている。
『前衛の役割は相手の注意を引き付けつつ、相手の攻撃の邪魔をすることだ。相手に致命打を食らわせるのは後衛の役割だから功を焦らずに、とにかく隙を見せないように上手く立ち回れよ』
「はいっ!」
『射手! お前の強力なスリングショットでも谷越しでは熊にとっちゃ豆鉄砲だ。それでも嫌がらせ程度にゃなる。熊のヘイトがネコちゃんに集中し過ぎねぇように、熊の集中力を削ぐための援護射撃に徹しろ!』
すぐに谷越しにスリングショットの弾が熊に撃ち込まれ始める。熊が一歩踏み出そうとした瞬間のその
厚い毛皮に阻まれてほとんどダメージは与えられていないが、それでも熊にとってはそれなりに痛いようで弾が命中する度に不快そうに唸り声を上げる。それは、嫌なタイミングで嫌な場所に的確に撃ち込まれる、まさに
『結花ちゃん、この中で熊に致命打を食らわせることができる武器はバレットショットだけだ。だが、単発式だから連射はできねぇ。焦って無駄撃ちしねぇように確実にダメージを与えられるタイミングまで撃つな。安全装置を解除して、銃床を肩に当てて構えた状態でチャンスを待て。理想は奴が立ち上がった瞬間に胴体の白い毛の部分を狙って撃つことだ。撃つ前にはネコちゃんを巻き込まないように声かけを怠るな!』
「や、やってやるじゃんね!」
震える声で自らを奮い立たせた結花は、バレットショットの状態を手早く確認して安全装置を解除すると、左手で銃身を支え、右肩に銃床を当てた立ち撃ち体勢でバレットショットを構え 、右の人差し指を引き金に添えた状態で美鈴と熊の双方の動きに注意しながらチャンスを待つのだった。
『おれからは現場の状態が見えねぇからこれ以上の指示は出せねぇ。今より指揮権を狩人に移譲する。隊長は崖を登り始めているが合流まであと数分はかかる見通しだ。おれたちの可愛い後輩たちを死なせるな! 狩人、どうぞ』
『了解なのじゃ。ネコ殿! その熊はまだ若い雄じゃ。足に噛みついて引きずり倒すことを狙っておる。頭を下げたら突進が来るから正面から横にずれて奴の顔目掛けて牽制の槍を突き出すんじゃ』
「は、はいですっ!」
さっきから美鈴が正面に立つたびに熊が姿勢を低くしていた理由が分かった。その都度、美鈴の大声による威嚇とジンバによる狙撃の嫌がらせによって突進そのものはキャンセルできていたが。
そしてまた、体ごと美鈴に向き直った熊が再び姿勢を下げる。それを見た美鈴はすぐにサイドステップで横に移動して熊の正面を避け、熊の鼻先に槍を突きだした。
「ギャウッ!?」
横にずれた美鈴を正面に捉えようと再び体ごと美鈴に向き直ろうとした熊が鼻先を槍の穂先で突かれて悲鳴を上げて跳び退く。
『よしっ。いい動きじゃ! その調子で頼むのじゃ』
「はいですっ!」
『結花殿! 熊を罠にかけるのじゃ。折よくダコタ式ファイヤーホールがあるから、それを落とし穴に使うじゃぞ。ゆっくりと移動して熊から見てファイヤーホールの後ろに位置取りするんじゃ。その場で膝撃ち体勢で構えるんじゃ。右膝を地面に着いて左足を立てた状態での構え方じゃが分かるかの?』
「分かります。了解じゃんね」
『ネコ殿も熊との距離を保ちつつ少しずつ後退してファイヤーホールに誘導するんじゃ』
「了解なのです」
「ネコ、ファイヤーホールはあんたから見て5時方向3メートル。うちはその後ろ2メートルじゃんね」
熊から目を話せない美鈴に結花から位置情報が伝えられる。
「ありがとう結花ちゃん。助かるですよ」
熊の正面に立たないように注意しながらジリジリと後退しつつファイヤーホールが視界の右端に捉えられる場所まで下がる美鈴。
『チャンスは一度じゃぞ。合図をしたら結花殿が大声で熊の気を引いて、その隙にネコ殿は結花殿の隣に一気に移動じゃ。すぐに追ってくるじゃろうからその場で思いきり槍を突き出すんじゃ。結花殿はわしが射撃の合図をしたら撃つんじゃ』
「はいですっ!」「了解じゃんね!」
『よしっ。結花殿、熊の気を引くんじゃ』
「うわぁぁぁっ! こっちじゃんねぇ!」
結花の大声に熊がそっちを見た瞬間に美鈴が一気に下がって膝撃ち体勢でバレットショットを構えている結花の隣に立つ。逃してなるものかと追いかけてきた熊目掛けて、今までの牽制ではない本気の突きを繰り出す。
――ザクッ!! ガシャーン!! バシャァァァ!!
「ギャアァァァ!!」
槍の穂先が熊の右目を貫くのと熊の右前肢が煮立った湯の入った鍋ごとファイヤーホールを踏み抜いてもうもうと蒸気が立ち込めるのはほぼ同時だった。
突然に襲いかかってきたいくつもの痛みから逃れようと、ファイヤーホールから前肢を引き抜いた熊が立ち上がる。その時、まだ右目に刺さったままの槍はがむしゃらに振り回される前肢に弾かれて美鈴の手から奪い取られてしまった。
「や、槍が!?」
次の瞬間、遼の号令が下る。
『今じゃっ! ってぇぇ!!』
――バシュッ!
「ッギャアァァァ!!」
狙いすました一撃がバレットショットから放たれ、立ち上がった熊の胴体を貫く。着弾の瞬間、熊の体がビクンッと跳ね、一際大きな悲鳴が上がった。
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