第58話 低体温症
両手を緩め、両足を同時に蹴って思い切りよく後ろ向きに飛び出し、数㍍自由落下した後でザイルを握って制動をかけ、振り子の原理で戻ってきた瞬間、崖の途中に両足をつき、蹴ると同時に再び手を緩めて降下し、谷底まであと少しというところでもう一度ザイルを握って落下速度を落とし、ふわりと降り立つ。
そこは足首ぐらいの深さの水が流れる沢だったので水しぶきが顔まで飛んできた。
見上げれば谷の深さはおよそ10㍍。そんな高さから岩だらけのこの谷底に滑落したら打ち所が悪ければ死ぬ。即死を免れただけ、葵は運が良かったのだ。
周りを見回し、数㍍離れた所で葵が下半身を沢の水に浸した状態で仰向けに倒れているのをついに見つけた。
「葵っ!! 大丈夫かっ!?」
大声で呼びかけながらばしゃばしゃと駆け寄ると、葵は焦点の定まらない虚ろな目のまま、握りしめたままの杖を今なお軽く揺すり続けていた。
「葵。助けに来たぞ! よく頑張ったな!」
「…………ひさしぶり?」
葵が無表情に大介を見上げて訊いてくる。その様子に大介は葵の意識が混濁していることに気付いた。もし落ちた時に頭を強く打ち付けていたら拙いことになる。
「ちょっと頭に触るぞ」
大介はそっと葵の頭に触れてみたが、打ちつけたことを印付ける陥没骨折やこぶや出血はなかったので一安心する。内臓系は病院で検査してもらわないと分からないが、今のところ顔色が黄色くなったりどす黒くなっているような内臓破裂の兆候はない。
おそらく、この意識の混濁と無表情は、冷たい水に身体が浸かっていたことで中枢体温が下がって低体温症を引き起こしてしまっているのだろうと結論付ける。
そうであるなら、身体に震えがなく、意識障害が出ているこの症状からして、中枢体温が30℃近くまで下がっているのだ。
もう一刻の猶予もなかった。中枢体温が30℃以下に下がると命の危険が一気に跳ね上がる。なによりもまず、体温の下落を止めて体を温めてやらねばならない。
大介は葵のわきに後ろから手を差し入れて水から岩場に引き上げた。その際、弱弱しく葵が抗議する。
「……足が痛い。たぶん熊に食いちぎられたの」
「なにっ!?」
見れば、右足が不自然なところで曲がっていた。噛み傷などの外傷はないのでおそらく落ちた時に折れたのだろうが、葵の中では記憶が混線しているらしい。
「痛いな。だがもうちょっとそっちは我慢してくれ」
「やだ。我慢できないぐらい痛いの。あたしの足、熊から取り返してきて」
我が儘を言ったり、思考力が低下して支離滅裂なことを言ったりするのは低体温症の軽度~中度の特徴だ。これ以上悪化すると錯乱状態、昏睡状態になり、代謝が一気に下がって最終的には死に至る。
一般的には30℃以下が重態、28℃が生命維持のボーダーラインとされている。
『……こちら参謀。隊長どうぞ』
一成からのトランシーバーの呼び掛けに応答する。
「隊長だ。葵は右足の骨折、および低中度の低体温症で意識障害が出ている状態だ。今は動かさずにこの場で応急処置をする。どうぞ」
『了解したぜ。電話が一応使えるからすでに忍者には一報入れてあるが、軍曹たちは電波状態が悪い場所にいるようでまだつかまらねぇ。忍者からの連絡頼りだが、博士がここに到着するまではまだ時間がかかるはずだ。応急処置に必要なものはあるか? どうぞ』
「応急処置に必要なものは揃っているが、葵が少し回復した時に飲ませられるようにそっちで湯を沸かしておいてほしい。それと狩人と射手の現在位置を調べてくれ。もし谷の反対側に来れるなら葵を引き上げるのが楽になる。どうぞ」
『了解だ。忍者にそのように伝達しておく。葵ちゃんの応急処置は頼んだぜ。オーバー』
一成との通信を終え、大介は葵に向き直った。
まず、低体温症患者は決して激しく動かしてはいけない。末端組織の冷たい血液が心臓に一気に流れ込んで心臓発作を引き起こしてしまうことがあるからだ。手足のマッサージは絶対にしてはいけない。よく映画の山岳遭難シーンなどである、裸で抱き合うというのも良い方法ではない。
何よりもまずは乾いた衣服に着替えさせ、わきの下と内股を温めて、その下を流れて心臓に戻る大静脈を温めてやることが大切だ。
温かい飲み物もいいが、意識障害のある者は溺れ死ぬことがあるので今の葵には与えられない。それはもう少し回復して意識がはっきりしてからだ。
頭の中で低体温症への応急処置の手順を復習しながらリュックを下ろし、中から乾いたタオルと着替え、貼るタイプの使い捨てカイロを取り出して袋を破りすぐに使える状態にした。
本当は女子の美鈴か結花に手伝ってもらいたいところだが、二人にはまだラペリングを教えていないから自分がやるしかない。
「とりあえず、濡れた服を脱がすからな」
「……大介のえっち」
膝から力が抜けそうになった。
「そんなことを言ってる場合じゃないだろ!」
まずは葵の着ている合羽の上を脱がせた。その中に来ていたTシャツは幸い濡れていなかったのでそのままにして、葵のわきの下に挟み込むようにして使い捨てカイロを貼り付け、その上から持参した薄手のジャンパーを羽織らせる。
次に靴を脱がせ、合羽のズボンを脱がせた。
その下に穿いていた七分丈のジーンズは予想はしていたがびしょ濡れで、葵の体温を容赦なく奪っているのが明白だった。なんとか脱がそうと試みたが、肌にぴっちりとしたスリム系ジーンズでしかも濡れている状態。その上葵が痛がって泣き出すのでとても脱がせられるものではなかった。
「すまん。破るぞ」
ナイフを鞘から抜き放ち、刃で肌に傷をつけないように丁寧にジーンズを裂いていく。色白の魅力的な脚線が露わになってくるにつれ、そのあちらこちらに擦り傷や青痣ができていることに気付く。なにより、骨折箇所は腫れ上がり、内出血でひどく変色してしまっていた。
破ったジーンズを捨て、ソックスも脱がせ、下半身はショーツだけのあられもない姿になってしまった葵の濡れた足を乾いたタオルで丁寧に拭き取っていく。合羽のズボンの防水性のおかげでショーツまでは濡れていなかったのはせめてもの幸いだ。
「…………」
今の葵は抵抗する素振りさえ見せないが、正気に戻ってこのことを思い出したらおそらく涙目でビンタは間違いないだろう。
「あとでビンタの一発ぐらい貰ってやるから、今だけはこの恥ずかしい格好を我慢してくれよ。お前の命が懸かっているんだから」
「………………別にいい。あんたにだったら……全部見られてもいい。…………あんたになら、抱かれても」
葵が淡々ととんでもないことを口走る。
正直かなり動揺したが、意識障害によるたわごとと聞かなかったことにして手当てを続けた。
骨折部位である右足の脛に副木を当てて、サバイバルキットに入れてあった養生テープで固定して応急処置とし、自分の着替えとして持参していたカーゴパンツを葵に穿かせる。当然葵にはぶかぶかで、副木を当てた状態でも割合楽に穿かせることができた。
ズボンを穿かせた後で内股の大静脈の上に使い捨てカイロを貼り付ける。あとは、ある程度回復するまでこのまま動かさないことだ。
ただ、地面というのは容赦なく体温を奪うから、このまま岩の上に直に寝かせておくのは良くない。かといって辺りを見回しても他に適当な場所があるわけでもない。
「仕方ないな。葵、ちょっと抱き上げるぞ」
「ん」
わき下と膝の裏に手を通してお姫様抱っこで葵を岩から抱き上げ、そのまま岩に座って自分の身体を断熱材と緩衝材の代わりとする。
「身体が温まるまでしばらくこのままでいるからな」
「ん」
葵は素直にうなずき、大介の胸に頭を預けてきた。
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