第45話 山へ
ゴールデンウィークの初日である四月最後の土曜日は、雲ひとつない快晴で、これ以上ないぐらいの行楽日和だった。
葵が出掛けに観てきた朝のニュースでも、高速道路の渋滞がピークに達しているということで渋滞中の高速道路の映像が流れていた。しかし、そんな世間とは裏腹に、丑草山の登山口に向かう葵たちの乗ったバスはがらがらに空いていて、射和高校ハイキングツアー貸切状態だった。
結局、参加者は山岳部から四人。サバ研から四人。一般参加者二人に目付け役の葵を加えた十一人だった。
櫛田川の堤防沿いの国道を上流に向かって走っていくと、だんだん民家が疎らになってきて、山と田畑の緑が目立つようになってくる。
傾斜した土地を利用した段々と続く棚田。遠くから見ると縞模様に見える茶畑と霜取り用の送風機。昔ながらのピッチを塗った木製の電柱。頭に手ぬぐいを被り、もんぺ姿のおばあさんたちが土手に腰を下ろして談笑している。
さながら自分が昭和にタイムスリップしてしまったのではないかと錯覚してしまうような古き日本の田舎の風景がここにはまだ生きているようだった。
川も幅がだんだん狭く、流れが速くなり、河原の石も角の取れた丸いものだったのが、次第にごつごつとした大きな石や岩に様相を変える。
腰まで急流につかりながらフライフィッシングをする釣り人。
大介の説明によると、アマゴという魚が海に下り、産卵のために遡上してくるからそれを狙っているのだという。そして、海に下ったアマゴは五月頃に遡上してくるからサツキマスという名に変わるそうだ。
そうこうしているうちに真っ赤なアーチ橋が見えてきて、いかにもな登山家スタイルの武井が立ち上がってバス中に響く大声を張り上げる。
「諸君! いよいよ目的地が近づいてきたぞ! あの橋のたもとにある次のバス停で降りるから忘れ物のないようになっ!」
「ああ、すごく空気が美味しい」
葵に続いてバスを降りてきた武井が自慢げに胸を張る。
「そうだろう! この美味い空気こそ山の
「……お手柔らかにお願いするわ」
水を得た魚のような武井を適当にあしらいつつ、葵はバスから降りて早速装備の点検をしているサバ研の四人に目をやる。
揃いの濃緑色のカーゴパンツと黒の長袖のシャツ。大きなリュックを背負い、ごつめのブーツを履いている。
バスの中ではさすがに身につけることを自重していたシースナイフや鉈を大介と美鈴がそれぞれリュックから取り出し、腰のベルトに装着し始め、一成と結花はフォールディングナイフをそれぞれリュックからカーゴパンツのポケットに移していた。
ちなみに葵の服装は、縞模様の長袖Tシャツの上にベージュの半袖Tシャツを合わせ、七分丈ジーンズにハイソックスとスニーカー、長い髪は一つに束ねてキャップの後ろから出している。
早起きして大介の分も作ったお弁当は大きめのショルダーバックに入れて肩にたすき掛けにしている。
橋を渡るとすぐ公民館があり、その軒下には1.5㍍ほどの木や竹の棒が並べてあって、『ご自由にお使いください』と書かれた張り紙があった。
「なにかしら、これ?」
「ハイキング客用の杖だな。葵も借りて持っておいた方がいいぞ」
山岳部とサバ研のメンバーはそれぞれ杖やピッケルを持参しているが、一般参加の二人と葵はそんなものは持っていないので、ありがたくこの貸し出し用の杖を使わせてもらうことにする。
葵が適当な杖を選ぶと、大介が自分のリュックにつけていた熊よけのベルの一つを外して杖に取り付けてくれた。真鍮のベルがカランコロンと音を立てる。
「山の中は声が通りにくいからな。熊よけ以外でも、自分の居場所を知らせたりするのにも役に立つ」
「ふーん。ま、一応持っておくことはやぶさかじゃないわ」
大介と一緒にいれば、熊が出てもぜんぜん心配する必要なんかないだろうけど。もちろん、口には出さない。
そこへ武井が近づいてくる。
「茂山、坂東もちょっと提案があるんだが」
「ふむ」
「あいよ」
武井が他の二人のベテラン山岳部員と大介、一成を交えてなにやら話し合いを始めたので、葵はそっとその場から離れて、これから登る丑草山のハイキングコース地図を取り出して眺め始めた。
地図といってもデフォルメされた大雑把なルートと、ある地点からある地点までの大体の所要時間が記してあるだけの簡単なものだ。まあ、地図を見慣れていないハイキング初心者にはこれぐらいがちょうどいいのかもしれない。
地図によると、丑草山は一つの独立した山ではなく、いくつかの山が連なった連峰の一つらしく、登山口から登り始める山は
所要時間は普通の人間で、大日山の登山口から丑草山の山頂までが約二時間。丑草山の山頂から朝間のバス停までが約一時間半だそうだ。
そうこうしているうちに話し合いが終わったらしく、武井が全員を呼び集める。
「みんな、聞いてくれ! 今日は総勢十一人なわけだが、そのうち六人がハイキング初心者だ。今日のハイキングコースは初心者向けとはいえ決して危険がないわけではない。それで、この十一人を三つのパーティに分けることにした。一つのパーティを三、四人で編成してベテランが初心者を確実にフォローできるようにするためだ」
なるほど、と葵は納得した。
そもそもこのハイキングの目的が山岳部の新入部員の訓練を目的としている以上、高見沢には当然ベテランのフォローが必要だし、一般参加の二人もそうだし、葵も美鈴も結花もハイキングは初心者だ。
確かに大人数でぞろぞろ歩くより、少人数のグループにしてそれぞれをベテランが監督する方がいいはずで、そのあたりはさすがに専門家だと葵はちょっと武井を見直した。
「では、それぞれのパーティの編成だが、まず、タケちゃんとヒロムのところに一般参加の二人に入ってもらおう」
一般参加の二人はカップルだそうだから妥当な組み合わせだ。
「次に、茂山と坂東は当然のこととしてサバ研の新人二人の面倒をみるべきだな」
まあ、そうよね。…………って待って! ということは。いやな予感、というか確信した。
「葵さんと高見沢はオレが責任をもって面倒をみよう! さあ、二人とも大船に乗ったつもりでオレについて来い!」
自信満々に笑いながら、武井がどんとその分厚い胸板を叩く。
「おっす! キャップテン! よろしくお願いするっす」
武井に懐いているらしい高見沢は嬉々としているが、葵はひどく複雑な心境だった。
大介と一成が同じサバ研の後輩の面倒を見るのは当然のことだから、大介が葵より美鈴を選んだなんてことじゃないことは分かっているが、それでも、やっぱりいい気分はしない。
でも、この編成が最も妥当な組み合わせであることは理解できるし、武井の独断ではなく大介たちも含めたベテランたちが話し合って決めたものだから、葵が一人ごねることなどできない。そもそも葵は、建て前は顧問代理、ツアーの付き添いとして参加しているわけであるし。
しかたないか、と葵は重い気分でため息をついた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます