第55話 滑落
葵は、谷の手前で地面に座り込んで泣き崩れていた。
――プルルル……プルルル……
どうせ圏外だろうと諦めていつしか電波状態を確認することもしなくなっていたケータイがポケットの中で鳴り始めた。慌てて取り出すと、アンテナが一本だけ立っていて、発信元は大介だった。
「もしもしっ! 大介ぇ! 迷っちゃったのよぉ! 今どこにいるの――!?」
通話ボタンを押すと同時にまくし立てるが、向こうもかなり電波が悪いようで声が途切れ途切れにしか入ってこない。
『……あお……無事…………よ……った。今……こにいるか分か……か?』
「分からない! 分からないよ大介! ここどこなの? やっと森を抜け出せたと思ったのに谷で通れないのよぉ!」
『……その谷…………はあるか? ピピッ』
「なにがあるって? 聞こえない! もう一回言って!!」
『水は……るか? ピピッ 川にな……てるか? ピピッ』
「水? あるわよ! 川が流れてるわよ! それがどうしたのよ?」
『分か……た。そこを……ピ――――――――』
大介の言葉に耳障りな電子音が重なって語尾が聞こえなくなる。
「ちょ、何の音? 聞こえないよ! 大介! 大介ぇ!?」
そのまま通話が切れる。慌てて掛けなおそうとしても、葵のケータイの画面は真っ暗でうんともすんとも言わない。
今の電子音がケータイの電池切れの警告音だったのだとようやく気付く。
なんで? そんなに使ってないのに、家を出る前にちゃんと充電もしてきたのにどうしてもう電池切れになっちゃうの?
結局大介の最後の指示は聞こえなかった。でもたぶん、大介が今の自分の居場所にだいたいの見当がついたのだろうということは分かった。だから、きっとそこを動くなと言いたかったんだろう。
よかった。大介はあたしのことを見捨ててなかった。あたしのことを探してくれていた。
大介が自分のことを見捨てたりしないのは疑う余地もなく当たり前のことなのに、なんでそのことに真っ先の思い至らずに頑なに自分の力で脱出しなくちゃいけないと思い込んでいたのか。
やっぱり、迷ったことでパニックになっていたのだろう。
「くっ……ふふふふふ」
安心したらなんだか笑えてきた。
「あはは。あはははは」
電話と同時に一旦引っ込んだ涙が、今度はさっきまでと違う意味を伴って目じりから零れ落ちる。
帰れる。もうすぐ家に帰れる。
ほっとした瞬間、思い出したように空腹と喉の渇きを実感した。考えてみれば朝からずっと歩き通しで、【水のみ場】での休憩以後、水分補給すらしていなかった。どうせここから動けないんだから、ここで食事を摂ろうと適当な木を背もたれに座ってショルダーバッグを下ろした。
別に頼まれたわけじゃないし、実は大介にも言っていなかったが、大介の分も余分に作ってきた、いっぱい具の入ったバクダンおにぎりがバッグの中に三つラップに包まれて入っている。それと、おかずを色々詰めたタッパーも一つ。
とりあえず、おにぎりを一つ出して包みを解いてかぶりつく。片手では持てない大きなおにぎりは一口目では具まで到達しない。口いっぱいにほおばった海苔とご飯を咀嚼するが、喉が渇きすぎて中々唾液が出てこない。
だんだん苦しくなってきたのでペットボトルのお茶を一口含んで無理に飲み下す。
二口目からは味わう余裕が出てきた。中身も唐揚げとツナマヨと判明する。そうとうお腹が空いていたようで、普段ならそれだけでお腹いっぱいになるはずの特大バクダンおにぎりをあっという間に一つ平らげてしまった。むしろちょっと物足りない。
指に付いたご飯粒を行儀悪く舐め取りながら、もう一つ食べようかなと葵が考えていると、近くの藪ががさりと音を立てたので内心飛び上がった。
まさか、今の恥ずかしい姿見られてないわよね。
努めて平静を保ちながら、相手が大介だと疑いもせずに立ち上がりながら藪に向かって話しかける。
「大介、こんなにすぐに来てくれるなんて思ってなか……!?」
言葉を失う葵の目の前で藪からのっそりと現れたのは、体中が真っ黒い剛毛で覆われた大きな四足歩行の獣だった。その獣が、葵の前で二本足で立ち上がり、特徴的な胸の白い毛が露わになる。丸い小さな耳、ぎらぎらとした目、鋭い犬歯、いかにも強靭な四肢の先に伸びる尖った爪。
実物を見るのは初めてだったが、見間違えようなどなかった。
「……く、熊!?」
膝ががくがくと震え、歯ががちがちと音を立てる。震える手で木に立てかけていた杖を手に取り、大介が付けてくれた熊避けのベルを鳴らす。今更こんなものが役に立つとは思えなかったが、藁にもすがる思いで杖を振ってベルを鳴らした。
「こ、こないで!!」
もうすぐ大介が助けに来てくれるのに。もうちょっとで助かるのに、こんなところで熊に襲われて死ぬなんて、そんなのいや!
しかし熊は、ベルの音に怯む様子もなく、さかんに鼻をひくつかせながら一歩一歩葵の方に近づいてきた。
葵も一歩一歩後退するが、谷に追い詰められてしまった。
「……こないで。お願いだからこないで! お願いだから……」
震える声で必死に訴える葵に向かって熊が吼えた。低い雷鳴のような咆哮に威嚇され、葵は無意識のうちにもう一歩後退してしまった。
その瞬間、足元の土が崩れ、葵の身体は宙に浮いた。
「い、いやあぁぁぁぁぁぁ!!」
熊の姿が一瞬で遠くなる。そして、次の瞬間、何かが砕ける嫌な感触と共に葵は岩だらけの硬い地面に叩きつけられた。
「…………あ゛……ぐっ……うう」
呻きつつ、遠のきそうになる意識の中、死ぬんだと悟った。
……死にたくないな。大介にまだ好きって言ってないのに。
仰向けに転がったままの葵の目から涙が筋になって流れていく。
…………ごめんね大介。せっかくあたしのこと探してくれてたのに。
足の先がだんだん冷たく痺れてくる。霧の向こうでは、まだあの熊が未練がましく下を覗き込んでいるのだろうか? それともどこからか谷に降りようとしているのだろうか? せめて、汚らしく食い荒らされる前に大介に見つけてもらいたい。
………………ごめんね。……もう駄目みたい。
最後にそう心の中で呟いて、葵は意識を手放した。
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