30・甘美

 大尉への昇進を果たしたアレックスは、変わらず訓練と仕事に明け暮れていた。階級が上がって変わった事と言えば、佐官の補佐的な仕事が増えた事だろうか。

 騎士団は肉体労働が主な仕事とはいえ、組織として体系されている以上誰かが事務作業を行わなくてはならない。そして、それは主に佐官の仕事となっている。階級が上がるほどに職務は複雑になって行くため、どうしてもそれを手助けする補佐役が必要だった。

 今日もアレックスは、師団事務所の一角で佐官から預かった書類を片付けていた。

 書類仕事を振ってくる佐官に言わせると、アレックスの字は見やすいとかで、なんだかんだと理由をつけては事務仕事をさせられている。

 財務に出す申請書類の受理が遅れると師団運営に必要な公金の決済が間に合わないとかで、飼葉や備品の納入記録や請求書とにらめっこをしてかれこれ数時間。

 ようやく明日申請する書類一式が出来上がって、アレックスは椅子に背に預けて伸びをする。

 ふと窓の方へ視線を向けると、すでに外は暗くなっていた。

 この時間でも数名の士官の姿が事務所にあったが、夜間警備の任につく者もいるし、常に師団事務所は閉まる事なく動き続けている。

 いつも慌ただしく仕事をしている実質の最高責任者であるソルマーレ大佐も同様で、今夜はまだ師団長室に居残っているようだ。

 側近であるユーゲント中佐と他の佐官数名も師団長室に入ったきりまだ出てきていない。

 アレックスに書類を託して行った佐官もその中に含まれていた。

 出来上がった書類を確認してもらいたかったが、待っていてもいつ出てくるかは分からない。

 訂正があれば明日の朝一番でも間に合うだろうと判断して、左官の机に申請書類の束を置いて事務所を出る事にした。

 この時間だからレグルスを走らせてやる事はできないが、せめて世話をしてやろうと厩舎へ足を向ける。

 夏の終わり頃から―――正確に言えば王太子の誕生日後から、たまにレグルスの飼葉桶に砂糖が入れられるようになった。

 それも一度ならず数度だから、何か意図があってわざとやっているのは分かっていたが、その意図を知る機会はない。

 砂糖がレグルスの桶に入れられているからといって別段困る事はないが、回数が重なれば気になるのが人情というものだ。

 レグルスの馬房に着いてすぐ、気になって飼葉桶を覗き込む。

 桶の中にはすでに飼葉が入っている。砂糖はないようだった。今日は遅くなってしまったから、おそらく飼葉と水を馬丁が入れて行ってくれたのだろう。

 馬房の中を綺麗にしようと、柵の中に入ろうとした時だった―――レグルスの耳が寝る。

 何をそんなに警戒しているのかと思って振り返ると、入口の方から砂糖の入った瓶を持った王太子が近付いて来ていた。

 長身の王太子はあっという間にやって来て、馬房の前で足を止めた。

「こんな時間まで仕事か」

「はい」

 砂糖を桶に入れて行く意図を聞きたいと思っていたのに、いざその機会を得られても、なぜだかそれを問うことが出来ない。

 結局必要最低限な返事だけをして、二の句が継げないでいる。

「その偏屈、名はなんという」

 相棒から明らかに敵意を向けられているにも関わらず、王太子はそれを気にした風もなく楽しげな表情でレグルスを見ている。彼は砂糖を何度か桶に入れているから、おそらく慣れているのだろう。偏屈と言うくらいだ、気難しいのも把握されている。

「あ……レグルスと」

「ふん、獅子の心臓レグルスか……軍馬には似合いの名だな」

 いつもは背筋が粟立つような油断ならない気配をさせているが、今日はそれが和らいでいる気がする。

 穏やかな笑みを浮かべてレグルスを眺めているその顔を見ていると、喉の奥で止まっていた言葉がするりとこぼれ出た。

「殿下……なぜレグルスに砂糖を?」

 レグルスに注がれていた視線が、アレックスに向けられる。

 相棒に向けられていたその笑顔は、視線を移しても途切れる事はなかった。

「飼い主に似て頑なだからな……こう敵意を剥き出しにされては何とか懐柔してやりたくなるのが人情というものだろう?」

「は……懐柔……ですか」

 確かに懐かない馬に砂糖を与えて慣らす事はある。ただし、それはあくまで自分が騎乗する事を前提に行う事だ。他人の馬に砂糖を与えて懐柔してどうなるというのか。

 理由を聞いても謎はさらに深まるばかりで、アレックスの混乱はひどくなった。

「俺は甘いものはあまり好まぬ。次は形に残るものが良い……苦手な刺繍細工でも構わぬぞ」

 そう言って、王太子は手にした瓶をアレックスの眼前で軽く振りながら、ニヤニヤと笑っている。

 砂糖を贈ったからと言って、何故刺繍が苦手な事になっているのだろう。どう言う思考回路でそういう結論に至るのか分からないが、なぜだか無性に腹立たしかった。

 アレックスはムッとした表情を隠そうともせず口を開いた。

「私の刺繍をご覧になった事などないでしょう……。次は甘いものは避けるように致します」

「ああ、だから贈ってくれ」

「それはどういう……」

 今まで見たこともないような表情を浮かべる王太子に言葉が詰まる。

 痛いくらいの殺気も、強ばるほどの威圧感も、嫌悪するような傲慢さもない。ただ、胸が痛むような優しい笑みだった。

 驚愕に立ちすくむアレックスに、カイルラーンは、ふ、と笑って背を向ける。

 去り際、レグルスの飼葉桶に砂糖を一粒放り込んで行った。

 桶の底に落ちたそれが、コンと軽い音をたてる。その音にはっと我に返り、慌てて馬房の中に入って掃除を始める。

 背を向けたアレックスの後ろを王太子が馬を引いて通り過ぎて行くのを感じたが、胸の動悸が止まらない。

 その後自室に帰って落ち着いても、レグルスの世話をどうやって終えたのか全く記憶になかった。



 季節は夏から秋へと移り変わり、シルバルド師団から内宮へと繋がる道は赤や黄色の落葉で埋め尽くされている。

 アレックスの隊服もまた夏の薄物から秋冬物へと衣替えをして、肩章の線は三本に増えていた。

 夜間警備の任を終え、後宮の自室へと歩いていると、その道の途中に男が一人立っている。男の着た隊服の色は白地に臙脂の縁取り―――軍上層に席を置く者なのだとわかる。だが、アレックスには面識がなく、それが誰なのかは分からない。

 姿を認識してから、男の視線がずっとこちらに向いている。おそらく自分に用があるのだろう。だが、一体こんな所まで出向いてなんの用があるというのだろう。

「アレクサンドル・ローゼンタール大尉かな?」

 声の届く範囲まで近づけば、男の方から話しかけて来た。

「はい、私にどんなご用件でしょうか」

 近づきすぎないようある程度の距離を開けたまま、アレックスは立ち止まった。

「私は近衛隊長のレイノル・バルスタン。昔君のお父上と一緒に陛下の元で働いていた者です」

 そう言って、レイノルと名乗った男は人好きのする穏やかな笑みを浮かべた。父がまだ生きていたらおそらく同年代なのだろう、笑うと目尻にシワが寄る。

「しかし、君はジルに似ていませんね……マリィツア夫人に似てるいのかな。ああ、それよりも用件でしたね。君、近衛に来る気はありませんか」

 立身出世はアレックスの願いでもあるし、大尉に昇進した事で実力を認められたと受け取れなくもない。だが、レイノルの言葉を素直に受け取る事はできなかった。

 ここに至るまで、騎士団への入団をことごとく潰されて来たのだ。師団入りから一年も経たずに近衛に行けるなどと、そんな甘い話がある訳が無い。

 そんな話があるとすれば裏があるに決まっている。王太子の手の内を離れてしまえば、軍上層の思惑でいかようにも扱えるのだ。純粋な出世ならば歓迎だが、それ以外の思惑が透けて見える移籍などごめんだった。

「今はまだ、師団で経験を積みたいと考えています」

「今だからこそ近衛への道があるのかもしれない。断れば二度と上には行けないかもしれませんよ?」

 優しげな顔をした人物が、見た目通り本当に優しいかなど分からない。

 人間など一皮剥けば醜悪な姿を内側に隠しているものだ。少なくともアレックスの知る貴族社会とはそういうものだ。

 目の前の近衛隊長も、軍上層に身を置いているのだから、清濁併せ飲んで進んで来たから今の地位にいるのだろう。

 レイノルの言葉は今上がらねば自分の権限で近衛への道を閉ざしてやる、という意味にも受け取れる。

 だが、それならば仕方がない。近衛に行かずとも騎士として働く事ができるなら、自分はそれだけでよかった。

「それならば私にそこまでの実力がなかったという事なのでしょう。私は私にできる事をするだけです」

 アレックスはそう言って、男の瞳を真正面から見据えた。

「ああ、やはり君はジルに似ていますね……眼がそっくりです。わかりました、この話はなかったことにしましょう」

 レイノルはそう言って、アレックスに背を向けた。

 進行方向が一緒だったが、その後をついていく気にはなれなかった。

 しばらくそうして姿が見えなくなるまで見送ってから、アレックスは再び歩き始めた。


 

 真正面から自分を見上げて来るその瞳は既視感を抱かせる。

 近衛への打診をあっさり断られた帰り道、早朝の近衛事務所への道を歩きながら先ほど相対していた金藍の瞳を思い出していた。

 戦場で散って英雄となってしまった同僚は、若い姿のままで記憶の中に生きている。

 その英雄の子が史上類を見ない速さで昇進しているのを知って、あわよくば近衛に引き抜いてやろうと思って出向いたが、さすがにあのローゼンタールの血を引いているとあって一筋縄では行かなかった。

 無難な切り返しではあったが、おそらくこちらの思惑には気づいている感触があった。


 ―――それならば私にそこまでの実力がなかったという事なのでしょう。私は私にできる事をするだけです

 

 ジレッドと同じ色の瞳をしたその騎士は、父とは似つかぬ容姿をしていた。

 硬質な鳶色の髪に金藍の瞳のいかにも雄臭い精悍な顔付きの同僚は、高い背と広い背中を持つ騎士だった。

 対してその子供はと言えば、華奢な体躯で背は低く、騎士としては不似合いなほどに美形で、全体的に真っ白だった。

 最初は似ていない、と思った。けれど、逸らすことなく向けられた瞳を見てしまえば、親子なのだと実感せずにはいられなかった。

 清々しい程に高潔だったその精神は、おそらく子へと受け継がれている。白いままでは生きられぬ世界で、ただ一人真っ白なまま逝ってしまったその男の精神が。

「この先も白いままでいられるか楽しみだな」

 人知れず男は呟いて、笑みの張り付いたその口元を薄く歪ませた。



 銀製の茶器を口に運んで、甘い香りと味わいを楽しむ。

 いつもは味気ないだけで楽しむほどではない茶も、主人の心配りとやらをひと匙加えれば、なんと芳醇な味わいになることか。

 それと同時に、どっと虚しさが込み上げて、味わうべきか一気に飲み干すべきかで胸の内は縮れる。

 おそらくそれは主から自分への牽制なのだろう。

 たかが砂糖一粒の甘さに胸を痛めながら、やはりこの男も魅せられてしまったか、と絶望にも似た諦観を抱く。

 いっそ冷淡とも言えるほどの王太子が、毒見もせずに砂糖を口に入れた事で分かってしまった。自分が一番に口にしたかったのだ、と。その証拠に、他の令嬢たちからの品は一応確認していたものの、ベリタスに保管を命じたきり手にする気配はなかったのだから。

 抱くこともできず、触れることも叶わない、そんな想い人が自分以外の男に贈った砂糖のひとかけらを、色事も知らぬ少年のように喜んでしまうなどと、馬鹿馬鹿しくて涙が出そうだ。この恋に方を付けて、また自由気ままに一夜限りの遊びで満足することが出来たなら、どんなにか楽だろうと思うのに。

 金色の髪の女など抱くのではなかった、と後悔した。身代わりにしてやろうと選んだら、ますます執着がひどくなったような気がする。

 誰も代わりになどなれないのを分かっていながら、それでも女の体を求めてしまうのは男としての性か、それとも自分の弱さなのか。

 触れられないのだから許して欲しい、と、言い訳をするようにセーラムは茶を飲み干した。

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