54・転換
意識は唐突に浮上する。
ああ、静かだな、と思考して、それに違和感を覚える。
馬のいななき、夜間であっても警備兵の装備が立てる微かな物音、風が吹くたびに原野をざわめかせる音さえもここにはない。
―――ここは、どこだ。
アレックスは寝台の上で瞼を開いた。視界に映る天蓋の木目が急速に覚醒を促す。見覚えのあるその光景は、後宮に与えられた部屋のものだ。
謁見の間で逆賊アルフレッドの自刃の様子を見ていたのは記憶にある。だが、そこから先はすっぽりと抜け落ちてしまっている。
「私はどうしてここに……」
己の口から出た声は、驚く程に嗄れていた。
「アレックス様、お目覚めですか」
懐かしい声のした方へ首を傾ければ、そこには椅子に座ったサラがいた。
泣き笑いの様な表情を浮かべているのに疑問を感じる。
「どうした、何かあった?」
「謁見の間でお倒れになったのでございます。王太子殿下がここまで運んでくださって……そこから丸一日ずっと眠ったままでいらっしゃいました」
「そうか……それは心配をかけてしまったね」
体を起こそうと、利き手を寝具から出して腕を引いた瞬間、激痛が走って顔をしかめる。
「ッ……」
「ああ、ご無理をなさらないでください。傷口が膿みかけていたのですよ」
「そうか……」
サラに手伝われ、寝台の上で半身を起こす。腰と背にクッションを入れてからヘッドボードにそっと背を預け、ようやくふう、と一息つく。
差し出されたコップを利き手で受け取って口に含むと、自分がどれだけ乾いていたのかを自覚する。口に含んだ綺麗な水は味覚に甘く染み込んで、コップ一杯のそれはあっと言う間に空になった。
水差しを持ったサラが再び水を注いでくれる。それを半分程飲んでからサラにコップを差し出した。
「もう充分だよ、ありがとう」
「はい。それから……アレックス様は女性におなりになられました」
サラの言葉に、怪訝な表情を浮かべる。
優しく微笑むその表情を見ていると冗談ではないのはわかるが、何がどうなればそうなるのか理解が追いつかない。
「どういうこと?」
「初潮をお迎えになられたのでございます。バロール先生がおっしゃるには、そのせいで貧血になられてお倒れになったのではと」
「そうなのか……」
戦場で負った傷からの出血もかなりあった。その上に血を失ったのだからそうなって当たり前という気がした。
だが、自身の肉体に裏切られた気分だった。主の側で騎士として生きて行けたらそれで良いと思っていた。それなのに、ここに来て苦悩して決別を告げたはずの事が叶うとは。
「そんなお顔をなさらないで下さいませ。お身体を女性に変えてしまわれるほど、愛しておられるという事ではございませんか」
「サラ……。しかし、私は既にお断り申し上げた。今更お心を望める立場にない」
クスリ、とサラは笑った。
「ほんと、アレックス様は良い子過ぎて嫌になってしまいます。そうやって聞き分けの良いふりをして諦めて後で苦しむくらいなら、まだ正妃を発表されていないのだからいっそ奪ってしまわれたら良いのです。シャルシエル様が正妃候補から外れた今、唯一公爵家出身でいらっしゃるアレックス様が一番有利なのですよ?」
サラの大胆な物言いに、アレックスは驚いて一瞬真顔になった。
そして、そうか、と得心する。逆賊となったアルフレッドの娘であるシャルシエルは真っ先に正妃候補から外されたのだろう。
「私の主はいつからそんなに気弱になってしまわれたのかしら。私のアレックス様はいつだって余裕綽々で大胆不敵で、不撓不屈が身上でいらっしゃるのだと思っていたのですけれど」
違いますか?と首を傾げたサラの様子に思わず吹き出した。
「ははっ……そうだね、その通りかもしれない。仕事に戻ったら機会を見つけて自分の気持ちを正直にお伝えしてみるよ」
アレックスの言葉に、サラは顔を曇らせる。
「その事ですが……アレックス様の騎士の身分は一旦剥奪する、と近衛から連絡がございました」
「そうか……医師の診断を受けたという事は、性別に関しても報告される、という事だね」
「はい」
今までずっと走り続けてきた。一心不乱に父の後ろ姿を追い、夢が叶って近衛になった。
それだけでも、僥倖だったと言える。二年前の自分は、騎士になることすら想像していなかった。騎士団への入団希望の不受理を知ったときから、騎士への道は諦めかけていた。だから、悔いがないと言えば嘘になるが、そんなにも落胆はしていない。
入宮してからずっと騎士としての道を邁進していたから、仕事がなくなると暇になってしまうな、と、ぼんやりと考える。
「とりあえずここから退去しなきゃいけないな」
体が女性になったのだとしても、正妃候補の席を失った事に変わりはない。正規の手続きを踏んで受理されたものを覆す事はできないのだ。
「それはしばらく難しいと思います。……陛下が行方不明ですから」
その言葉に、アレックスは大きく目を見開く。
「陛下が行方不明?」
「はい。昨日の夜……革命に決着がついた日の夜ですが、自室に入られた所までは護衛に当たった近衛が確認しているのですけど、今朝侍従が部屋に入った時にはもうお姿がなかったと。ご自分で出て行かれたのか、賊に攫われたのかもわからないとか」
「そうなのか……」
物憂げに思考に沈むアレックスを見て、サラは思い出したように席を立った。
「ともあれまずはアレックス様です。何か少しでもお食べになられませんと……調理場に行って参りますね」
サラはそう言って部屋を出て行った。
一人になったのを機に思考を巡らせる。サラの言葉を考慮すると、いろいろと奇妙な事が多すぎた。
夜間の王族の部屋の扉の前には必ず近衛の警備がつく。ゆえに誰にも見られずに部屋を出るならば、王族しか知らない通路を通った事になる。
王太子もおそらくそれを使って夜間抜け出していた。問題はその先だ。
いくら外に出られたとしても、厳重な警備の敷かれた城内を、警備兵に見られることなく外に出るのはほぼ不可能といって良い。
仮に警備兵が何らかの形で敵の手の内に抱き込まれていたとしたら、途中に配置された兵が全て敵方に落ちている事になる。
警備の割り当て区域は師団毎に違う上に、警備担当者は機密事項だ。まして今は戦時下の体制で、その日によって空いた者が抜けた師団の担当区域の警備をする事になっている。
抱き込むなら全ての師団員を抱き込まなくてはならないが、それはあまりにも非現実的すぎる。戦後処理が終わるまでは逆賊に加担した者の調査も行われるから、逃げ出すことができないよう城外にも兵が配置されている。
その状態で賊が秘密裏に王を連れ出せたとは思えなかった。
ならば、まだ城内のどこかに閉じ込められている可能性の方が高いだろう。
問題は、誰がどこに何の為に王を連れて行ったかという事だ。
王を弑す事が目的なら、賊が寝所に入れたならその場で殺すだろう。だが、サラの口ぶりから寝所で争った形跡はない。
王の命はなによりも優先されるから、城の中のほとんどの場所は問答無用で捜索の手が入る。
それができないのは、後宮と王族の私的な居住空間だけだ。
後宮を去った正妃候補も多いから空き部屋は複数あるだろうが、それをあの女官長が見逃すとは思えない。それと同様に、まだ令嬢の居る部屋もおそらく女官長は確認しているだろう。王が失踪したことを理由に部屋を確認させろと言われて、拒否できる者がいるとは思えない。それを断れば、疑われるのは部屋の主なのだから。
今が何時か分からないが、窓へ視線を向ければ、すでに夕陽が差し込んできている。朝、王の不在に気がついたとして既に半日。未だに無事を確認できないのであれば残るは王族の私的空間のみだ。
王太子は王の為にクレスティナ師団を残して戦地に向かった。その王太子がこんな回りくどいやり方で王を害するとは思えない。
ならば、残るは王妃と側妃だが、王が居るからこそリカチェの地位は確固たるものなのだから、王妃の仕業とは考えにくかった。息子であるカイルラーンのためにも、周辺諸国の安定の為にまだ王の首が必要な事は理解しているだろう。終戦してすぐの今、王を失えば外交的に周辺列強に足元を掬われかねない。
残るのは側妃エリーゼだ。ミアの一件もあるから可能性としては高い。アルフレッドがいなくなった今、王と王太子を始末すれば息子が王位を継ぐ可能性は充分にある。
だが、それは動機としては薄いような気がしている。仮に王だけを始末しても、まだ王太子が控えている。軍事面でかなりの権限を掌握している王太子を力技で排除するのは難しいだろう。残るは政治的に王位継承権をサルーンに移行する場合だが、政治を喰いものにする層には担ぐ輿は軽いほうが良いだろうが、保守派の筆頭であったアルフレッドがいなくなった今、果たしてどれだけの者が第二王子を推すだろう。
いずれにせよ、確認しなくてはならないな、とアレックスは思った。
しばらくして戻って来たサラは、アレックスが士官候補生時代、唯一食が進んだスープを調理場から運んできた。
疲労が激しくて消化する事さえ困難な時はこのスープに支えられたと言って良い。
しばらく味わっていなかったそれを口に含むと優しい味がして、じんわりと体が暖まる気がする。幸いにも熱は下がっているような気がする。三ヶ月ぶりに、充分に眠ったからかもしれない。元来軍人は頑丈なのだ。
「サラ、食事が済んだらお願いがあるのだけど」
そう言って、アレックスはサラに微笑んだ。
アレックスはマダムカミナの作ったライラックのドレスを身にまとい、伯母に贈られた化粧品で薄化粧を施して、扇を手に来客を待っていた。
まさか今自分が身につけている物を、本当に使う日が来るとは思っても見なかった。
女性の服装に着替えるのを手伝って欲しいと言った時、サラは驚きつつもきちんと支度を整えてくれた。着替えだけでなく、髪を結って化粧をしてくれたのだ。
どこから調達してきたのか、
だが、これからは必要なものだ。この歪な身体を抱えて生きていくのだから。
時間通りに客はやってきた。サラの出迎えで部屋の中に入って来たのは、女官長ナタリーだ。
「ナタリー夫人、お呼び立てして申し訳ありません」
どうぞ、と自分の前の席へ促すと、ナタリーは頷いて椅子に座った。
「お加減が良さそうでよろしゅうございました。それで、わたくしに話とは?」
「陛下が行方不明だとサラから聞きました……わたくしならばお助けできると思います」
どんな体であろうとも、ドレスを着たら女性なのだと伯母は言った。もう、男には戻れないが。
「それは……思い上がりではございませんか? 失礼ですが、アレクサンドル様はもう近衛騎士ではいらっしゃらない。正妃候補ですらない。何の力も持たないあなた様が、この城の中で何が出来るとおっしゃるのか」
「そう、わたくしはもう男には戻れない。けれど、男であったからこそ知っている事、見えるものがあるのです。単刀直入に申しましょう……陛下はおそらく、サルーン殿下の部屋にいらっしゃる」
その言葉に、ナタリーの鋭い視線がアレックスのそれを捉える。
「場合によっては不敬罪に相当致しますよ、アレクサンドル様」
「もちろん承知の上です。それでも、今まで王太子殿下のお側で働き、騎士として見知った事からあらゆる可能性を探りましたが、陛下は王妃方どちらかの元にいるということしか考えられないのです。わたくしには何の力もないとおっしゃいましたが、ナタリー夫人、あなたの権限も後宮女官長の域を出ない。この国の為に、今陛下を失うわけにはいかないのです。わたくしに女官長としてのあなたの力を貸してください」
「そのお言葉、どこまで信じて良いのでしょう」
「今のわたくしには、何一つ自分の言葉を担保するものはありません。それでも、王太子殿下の近侍としてお仕えするときに誓った騎士の誓約を忘れた事はございません。たとえこの身が女だとしても、王家に誓った忠誠を違える事はこれから先もございません。それが、わたくしの騎士としての矜持です」
硬い表情のままの睨み合うようにして向き合う事しばらく、瞳を外す事なくじっと見つめていると、ふっとナタリーが笑った。
「この主にしてこの侍女ありなのかしら……何も明かさないのに信じろだなんて。それでも、信じても良いかと思わせるのはどうしてなのかしら」
「ナタリー夫人……」
「それで、わたくしは何をすれば宜しいのですか」
「この後宮にも、裏の道がございますよね。おそらくここから正妃の塔へ繋がる道がある」
万一の場合に備えて、近侍は城内のほぼ全ての道を把握している。それは、普通の士官が知ることのできない抜け道なども含んでいる。そうでなくては、主を護りながら逃がす事ができないからだ。唯一わからないのは、王族のみが知る道である。
城内の詳細な配置図を眺めながら思ったものだ。正妃の塔とこの後宮は隔絶されていながら近接して建っている。万が一正妃に何かあれば、後宮を抜けて行かなければ城外に出る事ができないのだ。だとすれば、後宮を管理しているナタリーだけは、その道を知っている可能性が高い。
「招かれもしないのに尋ねれば、最悪の場合切られても文句は言えませんよ? それでもよろしいのですね?」
「切られる覚悟は、騎士になった時からしています。実際撃たれて帰ってきたのですから、今更でございましょう?」
くすり、とナタリーは笑った。
「そうでございましたね。では、ついていらして下さい」
ナタリーを先頭に、アレックスは扇で顔を隠しながら後宮の廊下を歩いた。アレックスの後ろには、荷物を抱えたサラが付いて行く。
女官長室に入って、部屋の隅まで移動する。そこにある本棚を、ナタリーは力を込めて横に押した。現れたのは、地下へと繋がる階段だった。ナタリーはサイドテーブルの上に置いてあったカンテラに火を入れて、それを持って降りて行った。アレックスとサラもそれに続く。
薄暗いそこを通り抜け、突き当たりの扉を横に引くと、目の前は石の壁に覆われている。
ナタリーはその壁を奥に向かって押した。すると、さほど苦労せずに壁は動いた。奥に向かって動いたそれを再びスライドさせれば、そこには見上げるほどの生垣がある。外に出て隠し扉の様子を眺めると、閉まれば左右の石壁に紛れるようになっていた。
重そうなそれがさして苦労せず動いたのは、石壁の内側の上部に隠れた滑車で吊られているからだと分かった。
生垣の内側を通り抜け、しばらく進んで行くと、内宮に接した庭園まで辿り着く。そこは、夜間警備中に王太子と出会った庭園だった。
慎重に庭園を抜け、内宮の壁際に沿って歩いていけば、正寝に繋がる通路へと出た。通路を真っ直ぐに行くと、途中で立ち番の兵に止められる。
「こんな時間に何用だ。来訪者の連絡は受けていないぞ」
緑の隊服を着た尉官だった。ここはシルバルド師団の割り当て区域ではないから、アレックスも警備に入った事はなかった。
扇の隙間から盗み見ても、その顔に見覚えはない。
「おかしゅうございますね、本日中にリカチェ様付きの侍女が来る事になっていたのですが……遠方から参られましたので早い時間に間に合わなかったのでございます。ですが、確かにご連絡は差し上げました。……今は城内もこのような状態でございますし、もしかしたらどこかで連絡が行き違ったのかもしれません。明日から必ず出仕せよとのお申し付けで御座いますので、リカチェ様付きの方に一度ご確認いただけませんでしょうか。こちらにおられますのは、アヴィ・シュバイツアー伯爵令嬢でございます」
畳み掛けるようなナタリーの言葉に、立ち番の尉官は気圧されるように分かった、と頷いて塔の奥に消えて行った。
しかしナタリーも上手く嘘をつくものだと扇で隠れた下の顔で笑う。
アヴィ・シュバイツアー ――― アヴィは人名に充てた時のアベイユの略語、シュバイツは騎士。武門の家系の姓で、数は多くないがシュバイツアー家は実在する。
つまり、直訳すれば蜜蜂という名前の騎士―――アレックスだ。尉官程度ではその意味に気付かないかもしれないが、王妃の周囲に居る者ならばおそらく気がつく。
しばらく待っていると、尉官が戻ってきて口を開いた。
「確かに侍女が来ることは聞いている、とおっしゃっておいでだ。すぐにお会いになられるとの事だから入れ」
ありがとうございます、と頭を下げ、三人は塔の中に入った。
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