53・帰還

 治療を終えて医療天幕を出る時、今夜は熱が出ると思いますよ、と軍医は言った。

 天幕外に足を踏み出せば、すでに陽は落ちかけている。

 地形知識のない他国での夜間の行軍は危険だから、出立は明日の朝になるだろう。

 夜を待つどころか既に思考は定まらず、フリューテッドを着込んでいるというのに寒さが背筋に這い上がってくる。血を失い過ぎているのかもしれない。

 主の居る指揮官天幕までの道さえも今は遠く感じる。己の存在が主の弱みになってはならないから、治療を受けた事などまるでなかったのかのように歩く。

 だが、それも天幕内に入って幕が閉じられたところまでが限界だった。

 ふら、とアレックスの身体が傾ぐ。

「おい、大丈夫かアレックス」

 咄嗟にセーラムに支えられ、どうにか倒れずに立っていることができた。

「すみません、どうにか」

 そう返事をするものの、思考がいつもより鈍いのが分かる。

「無理をするな、休んでいろ」

 力の入らない視線を主の声の方へ向ければ、医療天幕へ向かった時よりその表情は安堵しているように見えた。

 この状態ではさして己が役にたたないのは分かっているから、アレックスはその言葉に素直に従うことにする。

「申し訳ありません、少し休ませていただきます」

「ああ、そうしろ」

 そう言って、天幕内に積まれた荷物の前に移動して、片膝をついて座り込む。仰向けに寝れば傷口が痛む事は分かっていた。

 包帯を巻いた上から胴衣とフリューテッドを再び着る事すら激痛だったのだから。

 荷物に背を預け、剣を抱くようにして瞳を閉じれば、すぐに思考は眩むように回転しながら落ちて行った。

 

「傷口は深いのか」

 眠りに落ちたアレックスの青白い顔を見つめながら王太子が問う。

「はい、その場で傷口を縫いました。ナイジェル医師が言うには、今夜は熱が出るだろうとも」

「そうか……」

 王太子はそう漏らして、悩ましげに眉根を寄せた。

「あの軌道を見れば、アレックスがいなければ殿下は死んでいてもおかしくなかった……。今は二人とも命がある事に感謝いたしましょう」

 ベリタスの言葉に、いつになく素直にカイルラーンは頷いた。

「ああ、そうだな」

 王太子は席を立ち、歩きながらフリューテッドの上に羽織ったマントを外してアレックスに被せる。

 着る者の体格に併せられた大きさのそれは、アレックスを覆うのに充分すぎるほどだった。


 明けて早朝、アレックスは体を揺すられて目を覚ます。

 戦場で熟睡してしまえば、何かあった時に対処できない。ゆえに今まで常に眠りは浅かった。それにも関わらず、起こされるまで気が付かなかったなどと情けない。

 半覚醒状態の目を瞬かせれば、王太子の至近距離の顔がある。驚愕に目を見開けば、額の上に主のそれが重なっていた。熱を測られているのだ、と認識した瞬間に離れて行く。

「まだ熱が高いな。アレックス、無理をせず救護天幕で回復を待って王都に帰還してはどうだ」

「お断りいたします。ここに残れば付け入られるのが目に見えています」

「しかし……その状態で馬に乗れるのか」

「乗れます。ただの馬であれば無理でも、レグルスなら乗せてくれます」

 王太子は諦めたように小さく唸った後、分かった、と頷いた。


 出立前に配られた食料は、衛生兵が炊いた燕麦の粥だった。すでに兵站は残り少なく、水分の多いそれは体を酷使する軍人には質素すぎる代物だ。それでも、発熱している今のアレックスにはありがたい状態だった。これで干し肉など割り当てられても、咀嚼するだけの気力がない。

 無理にでも食べなくては回復すらままならないのは承知しているから、水で流し込むようにして飲み込んだ。

 目に力は入らず、身体はどこか地に足がつかないようなふわふわとした感覚で、正直な所しゃんと立っている事ができているのかどうかも怪しい。一番の懸念事項は、肩から腕がしびれて、左手の握力が心もとない事だ。辛うじて動きはするが、握ってみても手に力は入らない。鞍さえあれば片手でもレグルスには乗れるが、ハルバードを振る事は難しい。

 しかたなく、歩兵が引く荷車にハルバードを預ける事にする。

 出立時刻がやって来て、アレックスは右手だけで手綱を持ち、レグルスの背に乗ろうとあぶみに足を掛ける。

 いつものように飛び乗ろうと、勢いをつけて足をあげる動作を繰り返すが、どうあっても体が持ち上がらない。

 情けない、と悔しさに歯噛みして相棒の首に額を埋めると、レグルスはその場に伏せるようにして膝を折った。

 聡い相棒の気遣いに感謝して、アレックスは鞍を跨ぐ。

 主人が尻を預けたのが分かったのだろう、レグルスはゆっくりとその場に立ち上がった。

 ごわつくたてがみを利き手で撫でながら、アレックスは小さく呟く。

「ありがとう」

 レグルスはそれに返すように、ブル、と小さく鼻を鳴らした。



 カイルラーンが率いるシルバルド師団は七日を掛けてアレトニア国の首都サンスルキトに帰還した。

 一師団だけならば行きよりも機動力が増す分、移動速度は速くなる。とは言え、それでも帝都グレンゾワールから僅か七日で王都までを踏破するのは強行軍だった。

 アレックスは変わらず微熱が続いているし、握力もほとんど戻っていない。なにもかもがおっくうになるほど気だるく、七日の間レグルスに揺られている間も覚醒と半覚醒を繰り返すような状態で、道中のほとんどが記憶になかった。

 それでも何とか王都まで戻って来ることができたのは、シルバルド師団のみでの帰還だったからだろう。

 アレックスが王太子を庇って負傷した事も、その傷口を縫った事も、いつの間にか師団兵は知っていた。

 まどろみながらレグルスに揺られていても皆笑って見逃してくれたし、左手の不自由なアレックスの代わりに、他の士官がレグルスの餌の世話もしてくれた。

 シルバルド師団以外が帯同していればそうは行かなかっただろう。短い間だったのにそれでも自分を受け入れてくれた仲間のいる出身師団だった事へのありがたみを噛み締める。

 王都に凱旋を果たせば通常は市民の出迎えがあるが、城の周囲に軍が出ている事もあって、一般市民は家の窓を閉めて内側に籠り、街は死に絶えたように静まり返っていた。

 隊列は進みやすい大通りを抜けて、クレスティナ師団と合流を果たした。

 閉ざされた城門前に詰めていた伯父アレイストと副官のベンジャミンが、王太子の旗を確認して近づいて来ていた。

 馬上の王太子を見上げて、アレイストは口を開いた。

「ご無事の帰還何よりです、殿下」

「ああ、お前の甥のおかげだ。それで、戦況はどうなっている」

「アレックスがお役に立ったようで良かった。今は時期を見計らっている、というところです」

「時期を見計らう?」

「ええ。全てシノン卿の予測された通りに運んでいます。……アレックス、フリッツ様が動いているから、安心しろ」

「おじいさまが?」

 伯父の言葉に、アレックスは首を傾げた。現在の当主である伯父のヘラルドならばともかく、祖父が動いているという部分が解せなかった。

 それについてのご説明は私から、とベンジャミンが口を開く。

「殿下がグリギルに向かった後、王弟が革命を起こす事をシノン卿は確信しておられたようです。より確実に事を進める為に、あえてウィルディゴを兵站輸送の護衛として王都外に出すように仕向けたと」

 ベンジャミンの説明によれば、王弟が王位を狙っているのは近年に限った事ではなかったらしい。後宮の惨劇においてもアルフレッドの関与があった事は紛れもなく、それでも生かしておいたのは、虚弱なカイルラーンとサルーンが王位を継ぐ事なく亡くなる事への懸念から、あくまでスペアとして残しておいたというのが内実らしい。

 カイルラーンが立太子した事でスペアとしての価値が失われても、後宮の惨劇は政治的にうやむやにされて終わっているので、それを訴追する事はできなかった。

 フリッツはアルフレッドの野心に終わりが無いことを見抜いていたから、十五年前からピノワ師団の師団長クライブ・スオンソンを手の内に抱き込んでいた。

 また、フリッツはカイルラーンが城に残して行く師団も予測していた。ディーンの事を考慮してクレスティナ師団を置いていったのは妥当な選択だが、それでも王が一番危険な事には変わりなかった。

 いくら兵を配置しても、城内で狙われる可能性がある。近衛がついていても万一数で押された場合、戦場で士官が取り囲んで守るよりもずっと危険なのだ。戦場では身を守る鎧があるが、近侍は剣を手にしただけの軽装にすぎない。

 城内にいるピノワ師団は表向きアルフレッドに従っている風を装っているが、その実ディーンを護っている。

 フリッツはヘラルドにも事前にそれを伝え、城内にピノワが乗り込んでも焦る事なく連携を取るようにと言い含めてあった。現在ヘラルドは他の官僚と共に城内に留め置かれている。

 もちろんそれらの事をアルフレッドは知らない。保守派のふりをずっと続けて来たクライブに、革命を起こして王位につく自分に味方せよ、と王弟は言ったという。

 王位を簒奪するならば、カイルラーンが戦地へと向かった長期不在時を狙うはずで、ウィルディゴが王都を離れれば、アルフレッドが確実に動くという事は予測できていた。かつ、終戦してハヴェンとスゥオンが帰還するタイミングを狙う。つまり、今だ。

 だが、アレックスの進言によって、その二師団は帰って来なかった。

 おそらく自分の孫の戦略傾向を考慮すればシルバルドだけ連れて帰るよう王太子殿下に進言するだろう、とも。

「ローゼンタール少佐、あなたが殿下の近侍として重用された事で、シノン卿は王弟を今排除しておくべきと決断されたとか。だから革命を起こすようにあえて仕向けた、とおっしゃっておいででした……今度こそ王弟を断罪できるように、と。あなたの御祖父さまは、恐ろしいお方ですね。でも味方につけば、これほど頼もしい方はいない……私も軍略家を自負しておりますが、まだまだだと感じずにはいられません」

 ベンジャミンのその言葉に、アレックスは馬上から誇らしげな笑みを浮かべた。

「ええ、私の自慢の祖父です」

 馬上でそう返した時だった。遠くから王都の石畳を震わせる馬の蹄鉄音が響いてくる。その大音量は明らかに多数の軍馬の群れ―――ウィルディゴ師団だ。

「ようやく舞台は整ったようです」

 ベンジャミンはそう言って、清々しく笑った。


 城の周囲を兵で取り囲み、王太子カイルラーンは三師団の精鋭を連れて城門前に立った。

 それを待ち構えていたかのように、閉じられていた城門が内側から開かれる。

 城門から外宮へ繋がる通路の両脇にピノワ師団の兵が並び、それは謁見の間まで繋がっていた。

 王太子が精鋭を連れてその間を進む度、兵は順に頭を下げて行く。重鎧の騎士の群れは金属音を反響させながら謁見の間へたどり着いた。

 広間の最奥にある階段を登った先に玉座はある。今、その前には白い幕が降りている。

 カイルラーンの指示で、セーラムとベリタスはその幕を開いた。

 逆賊はふてぶてしく王の席に座って満面の笑みを浮かべている。その隣に、クライブ・スオンソンが抜き身の剣を持って立っていた。その刃は、アルフレッドの首の前に突き出されていた。

「お久しゅうございます、叔父上」

「存外早かったな、カイルラーン。それに、忌々しいローゼンタールの小娘め」

 そう言って、アルフレッドはチラリ、とアレックスに視線を流した。

「まぁよい、お前たちはどんなに望んでも添い遂げる事はできぬのだから。私は読みを見誤ったが、愛などというものがくだらぬ幻想だということが証明できて満足だ」

 そう言って、アルフレッドはふてぶてしく笑った。まるで、呪いを撒き散らすのが愉快で仕方がないと言わんばかりに。

「それこそがあなたにとって最大の敵だと気付くべきでした叔父上。あなたが見下したその小娘の為に長い年月をかけて張り巡らされた罠に、まんまと絡め取られたのですよ……それこそが、愛ゆえだと気付かずに」

「ふん、お前とはことごとく考えが合わぬ」

「そのようです。ソルマーレ、捉えて牢に連れていけ」

 疲れたように吐きだしたカイルラーンの声が響いた瞬間、アルフレッドは目の前に突き出されたクライブの腕を両手で掴み、その手の中の剣を自分の首に当てる。よく研がれた刃は抵抗なく王弟の首に沈んで、内側を抉って通り抜けて行った。

 剣が首を離れたのと、赤黒い鮮血が勢いよく吹き出して白い幕を点々と染め上げたのは同時の事。ゴトン、とアルフレッドは玉座から前のめりに倒れて床に転がった。

 逆賊アルフレッドの最期は、執着した玉座に身を預ける事さえなく事切れていた。

「終わったか……」

 カイルラーンが呟いた瞬間、背後でガシャン、と金属が落下するような音が響く。

 咄嗟に音のした方へ振り向けば、そこにアレックスが崩れ落ちていた。

「アレックス!」

 王太子は咄嗟に駆け寄って、バイザーの上がったヘルメットを脱がせる。

 口元に耳を近づけると、かろうじて呼吸をしている事は確認できた。

「セーラム、近衛に行って女性士官を二人程連れてこい。ベリタス、お前は奥医師に後宮へ向かうように伝えろ」

「殿下、しかし……」

「後宮の部屋はまだ残されている。軍医の元まで保つかわからん……俺は父上のように側近を英雄になどするのはごめんだ」

 主の言葉に、側近二人は承知しました、と言い残して広間を出て行った。

 カイルラーンはアレックスを横抱きで抱え上げる。

「ソルマーレ、陛下を探し出して後のことは指示を仰げ」

「お任せ下さい」

 頭を下げたソルマーレには一瞥もくれず、王太子はアレックスを抱えて歩き出した。

 後宮へ向かってカイルラーンが踏みしめた床に、点々と血がこぼれ落ちて続いて行った。


 後宮へ渡る通路の前の立ち番の兵は、騎士を抱えて歩く王太子の姿に驚愕の表情を浮かべる。

 だが、その腕の中の騎士がここ三ヶ月姿を見なかった変わった正妃候補だと分かった瞬間、恥じるように王太子に頭を下げた。

 血色が悪く、紙のように白くなったアレックスの顔は、カイルラーンの腕の中でピクリとも動かない。

 ピノワ師団の兵もここまでは来ることを躊躇ったのだろう。通路を抜けると、お仕着せの侍女が外宮の状態なぞどこ吹く風で、掃除道具を抱えて歩いていた。

 その侍女を捕まえて、女官長とサラを呼ぶように申し付ける。肩から下がったシルバルドの星の入った紅いマントを見て、侍女は慌てたように頭を下げて走って行った。

 アレックスの部屋の前でしばらく待つと、そこに女官長とサラが早歩きでやってくる。

 王太子に抱えられた意識のないアレックスを認めて、サラは悲鳴を上げるように叫んだ。

「アレックス様!」

「奥医師と女性近衛を呼んであるゆえすぐに来るだろう。女官長、部屋を開けてくれ」

「かしこまりました」

 ナタリーは主鍵を使ってアレックスの部屋の鍵を開け、両手がふさがっている王太子の代わりに扉を引いた。

 王太子は部屋の中央に置かれた応接セットまで歩いて行き、そっとアレックスの体をソファに横たえた。

 サラは逸る気持ちを抑え、胸の前で祈るように両手を組んで医者が来るのを待った。

 ほぼ同時に、女性近衛二人と初老の医者が開け放たれた扉の先に表れる。

 近衛の一人は、王妃の側近であるリネットだった。

「バロール、これは背中に傷を負っている。戦場で縫い合わせたがそこから出血している可能性が高い。近衛二人でフリューテッドを脱がせろ。傷口を洗う必要があるなら風呂まで運べ。ナタリー、サラ、アレックスの事を頼む」

 その場に居る者全員が、かしこまりました、と頭を下げた。

 カイルラーンは部屋を出て、開け放たれた扉を閉ざす。そこに背預け、利き手を力いっぱい握り締めた。

 

 王太子の出て行った部屋の中、リネットは部下と共にアレックスのフリューテッドを脱がしにかかる。

 おなじ士官といえども、女性近衛は戦場に出ることがない。ゆえにそれを脱がせるのは手探りの状態だった。

 体側に沿って締められているベルトを緩めるためにしゃがみこめば、アレックスにまとわりついた濃厚な血臭が鼻につく。次いで、泥や汗、様々な腐臭が混じり合った、強烈な臭気が追い討ちを掛ける。

「臭うな……膿んでいるなら洗わなくては。侍女殿、湯浴みの用意をお願いします」

 リネットの言葉に、ナタリーとサラは一礼して風呂の準備に取り掛かった。

 どうにか全ての装備を取り払って胴衣だけの状態にすれば、元は白いはずのそれでさえ赤茶色さが染みている。だが、それを見た医師バロールは怪訝な表情を浮かべながら口を開いた。

「負傷は背中と殿下はおっしゃっておられたが……さて異な事もあるものだ」

 確かに乾いた血の染みは胴衣の身頃にも見て取れる。

 だが、何故だか胴衣の股下から膝までが赤黒く染まって濡れていた。

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