20・春嵐
クレスティナ師団指揮官天幕の中で、やや遠くから響いて来る笛の音を耳にひろう。
「ああ、負けましたねうちが」
事も無げに言ってのけたベンジャミンの言葉に眉根を寄せると、演習後の雑事のために待機させていた佐官が驚いたように口を開いた。
「まだ結果は連絡きていないですよ中佐」
「見なくてもわかりますよ、決着が早すぎる」
ベンジャミンが口にした事を後押しするかのように、馬の蹄の音が近付いて来る。連絡係になっていた佐官が報告に来たのだろう。
答えは聞かなくても分かっている。この副官の読みが外れたりしないことは長年の経験でわかっている。
「結果報告をいたします! 我らが師団の負けであります!」
「おつかれさま。撤収準備に取り掛かって」
天幕の向こう側で、はっ、と返事をして去って行く馬の足音が聞こえた。
「どうしてわかったんですか? ……決着が早いっていうのは」
半信半疑な様子でベンジャミンに問いかける佐官に、穏やかに笑んで話し始める。
「こちらの裏をかくために、敵がどう動くのかを考えたんですよ。私なら、せっかく手に入れた駒を有効に使うだろうな、と。アレクサンドル・ローゼンタールは優秀な尉官ですよ、なにせ過去に例を見ない速さで尉官昇進したのですからね。私はエイデンに伝えました……最初に首を取りに来るのは間違いなくロゼアベイユだと。防壁を布いて蜜蜂を押さえたあとで、
ベンジャミンの説明に、信じられない、といったふうに呆然としている部下を眺めて溜息をついた。
「だから言っただろうが、あれを女だと思ったら痛い目を見ると」
騎馬練度も高いし士官としての能力もそれなりに優秀な者が集まっているのに、どこか大らかと言うのか気の良い者が多いおかげか、いまひとつ締まらない感がある。
集団で纏まった動きをするのには力を発揮するが、やや脳筋気味で力押しで勝てると思い込んでいる節がある。
ベンジャミンの戦略の通達も、おそらくそこまで深く考えていなかったのだろう、という事が手に取るように分かった。
アレイストは額に手を当てて、長い溜息を吐きだした。
「終戦から時間が経って不抜けてきてやがる……訓練内容を考え直さないといけないぞベンジャミン」
「ええ、私も近頃そう思っておりましたので、今日は良い機会でした。あの王太子にもうまい具合に利用されましたね」
ベンジャミンの口ぶりだと、負ける事まで想定済みだったようだ。
だが、そのあとの言葉が気になる。
「王太子に利用された?」
「いつもこの時期の合同演習はスウォン師団とやっているでしょう。それが珍しくうちに声が掛かったのは、勝った時の事を想定していたからですよ。負けの場合は特に問題はありません。その場合は師団を鍛え直せば良いだけで……今回のうちがまさにそれですが」
「スウォン師団だと白兵戦だろうな。うちとやるなら練度的に騎馬になるが、それぐらいしか思い浮かばん」
「師団長、あなたが最高責任者だからですよ」
ベンジャミンの中では何か見えているのだろう。だが、自分がいるからだと言われても、皆目見当もつかなかった。
理解が及ばず首をひねっていると、ベンジャミンが先をつなげる。
「噂の元を流した者は処分を受けたという話を上層は耳にしていますけど、未だに下位兵の中には殿下が誑かされているという説は根強くあるんですよ。シルバルド師団に限って実力もないものを昇進させる訳はないのですけど、実質佐官クラスであってもその噂は払拭できていませんしね」
チラリ、と視線を向けられた佐官はビクリ、と背筋を震わせた。かしこまって背を伸ばす様子が見えた。
「甥の実力を知っている伯父の率いる師団が、その甥の一手で負ける。誑かされているのではなく、本当に実力があるのではないか……と、今日の勝ちで噂になるかもしれませんね」
なるほど、と心の中で呟く。
「軍人としての評価は操馬技術にかかっているからな。うちとやって勝てば噂になるし、アレックスの汚名も払拭できる。ついでに、負けたからとて俺は言い訳などしない」
負けた言い訳などいくらでもできる。理由はあれこれこじつけられるが、最も有効なのは王太子の意思―――正妃候補を勝たせたい―――を尊重して手を抜いたというものだろう。だがもちろんそんな言い訳などしない。負けは負けなのだ。たとえ違う人間がアレックスと同じ立場だったとしてもそうしただろうし、ましてアレックスは可愛い甥だ。なおさらそんなくだらない忖度などありえない。
クレスティナ師団の士官達も、今回の結果が自分たちの実力だと受け入れることはできるだろう。だが、スウォンの場合は上位貴族の子息も多いし、その内訳もやや保守層が多い。女に負けたことが矜持に関わる者もいるだろう。どんなにアレックスが軍では男だと主張しても、そう見ることができない人間など掃いて捨てるほどいる。
王太子の師団とスウォン師団が合同演習をしていたら、べつの噂がたったのだろうということを想像するのは容易かった。
「本当にあの王太子は油断ならないな」
「まぁ、将来王になられるお方です。それくらいの手は抜かりなく打てるということですよ」
今回の事でアレックスの噂が払拭される方向に動くのなら身内としてはありがたい限りだが、その王太子の意図を測りかねて困惑する。
たかだか一介の騎士のためにそこまでの事を考えるものなのだろうか。男としてみているのか女としてみているのかどちらなのだろう。
考えたところでわかるはずもない、と気付いて思考を止めた。
伯父が気を揉んだところで何がどうなるわけでもない。
何かあった時に手を貸してやればそれで良いのだ。
―――ジレッド、お前の子はきちんと前を見て歩いているぞ
夜間警備が終わって交替勤務の一般兵に持ち場を引き継ぎ、早朝の帰り道を隊舎へ向かって歩いていると、途中でよく知った人物が正面に立っているのを捉える。
朝から見たい顔ではないな、と思いながらその人物に向かって手を上げる。
いや、ここは身内としてではなく、上官として対応をすべきだったか、と思い直したところで目の前に来た相手が口を開いた。
「セーラム、どう言う風の吹き回し?」
家名ではなく名を呼ぶのだから身内で良かったのだろう。
「近衛に転属願いを出したことか? ルカ」
セーラムにとってルカ・ユーゲントは母方の四才年上の従兄にあたる。
「今まで評価訓練でも手を抜いていたくせに、ここにきて近衛だって? お前打診されて蹴ったよね、近衛の席」
本気で評価訓練を受ければ今頃佐官昇進していてもおかしくない程度の能力を持っているくせに、重要な職責を担うのが嫌なのか評価項目を手抜きして尉官でいたようなやつだ。
セーラムはファンデル侯爵家の直系の三男になる。本来は軍人にならずとも別の道も選べるくらい恵まれた立場にありながら、生家のしがらみに束縛されるのが嫌だと言って、成人したらさっさと家を出て軍に入ってしまったような自由人だった。
能力も家柄も問題なく、出征先で戦果を上げて中尉に昇進した後すぐに近衛から打診があったくせに、セーラムは一度それを蹴っている。それきり階級を上げる事への興味をなくしたかのように、現階級で居続けること三年。
与えられた仕事は真面目にやっているし、人あたりも良いのに出世欲だけがないから、結局それだけでは処分することもできず、宙ぶらりんのままでいた。それなのにここに来て近衛への転属願いを出したと聞いて分かってしまった。
「アレックスはやめておけ。お前の手には入らない女だ」
わざわざこんな早朝に師団に出向いて来たのも、この話が広まったら厄介だったからだ。幸いにも、今この道を通る者は他には居ない。
「それくらい分かっている。俺もそこまで馬鹿じゃない」
「じゃあどうしてだ。単純に出世したくなっただけなら僕も何も言わない。だがどう見たっておかしいだろう。アレックスと親しくなってからだ、こんな事を言いだしたのは」
「そうだ。それについては否定しない。あいつが馬を駆る姿に魅せられたんだ俺は」
合同演習の最中、単騎突撃して疾走していくアレックスの後ろ姿に言いようのない感情が湧いた。
それを恋というのかもしれないが、そんな単純なものではないと思っている。
「は、馬?!」
「俺は男だから姫を守る騎士でありたいんだろう、おそらく。王太子殿下の師団にいるし、守るべきは殿下だとわかっちゃいるが、根っこの部分でずっと心は乾いたままだ」
王家を護るのは騎士の役目でもあるし、それについて不満はない。それなのに、イルキスのようにあの王太子を尊崇して護りたいなどとは思えないのだ。
「アレックスが女になるかの確証なんて何一つないんだよ? 今の状況をみていると、男になるようにしか思えないよ僕には」
ルカがたしなめるように言うのを否定するつもりはない。自分でもそう思うからだ。
「あいつが女になるのなら、おそらく殿下はあいつを選ぶだろう。何の根拠もないが、そう確信している。だから、絶対に俺のものにはならない。だが、あいつが男のままでいるのなら、おそらく殿下の側近に上がるだろう。あいつの背中を護っていたいんだ。その結果殿下を護る事になるならそれで良くないか?」
セーラムの言葉に、ルカはあきれたような顔をして眉根を寄せた。
「お前は本当にそれで耐えられるの。自分の心が制御出来なくてアレックスに何かしでかしたら、お前だけじゃなくファンデル家にも影響があるんだよ?」
うんざりしたようにセーラムは息を吐きだした。
だから嫌なのだ、こうして家にも影響があるだのなんだのと言われる。それがわかっていたから近衛の打診を蹴ったのだ。
「自由でいたい俺が、そのしがらみに自ら飛び込んでも良いと思うような人間に出会ってしまったのだから仕方がない」
いつ戦場で果ててもおかしくない立場だというのもあるし、自由に生きていたいから今まで特定の女を愛そうなどと思わなかった。だから結婚する気もなかったし、一人寝の寂しさを埋めるのは娼婦で充分だったのに。なんの因果か絶対に手に入らないやつに心を奪われてしまったなんて自分でもどうかしている。
「後悔した時には遅いんだよ?」
「今はまだほとんどの人間が気付いちゃいない。でも、いずれ皆あいつの魅力に気付く。そうなってからじゃ間に合わない。だから俺は人より先に動く。確信しているのに今動かずに、時がきて指を加えて見ている方が後悔するだろ?」
「本当に、救いようがない馬鹿だよセーラム……お前の恋路は茨の道だよ。その道の先に救いなんかない」
「アレックスが女になっても、殿下が選ばない可能性もあるだろ? 俺の確信なんかあてにならないんだから。そうなったらなりふり構わず俺は動く。でも、家督のない俺にアレックスは無理だ。だが近衛なら、結婚を申し込める」
清々しいほどの笑顔で言い切ったセーラムを見て、ルカは彼の意思を変える事はできないのだと悟った。
「お前の気持ちが本物だってのはわかったよ。もう何も言わない。でも、殿下にとって為にならない事をお前がしようものなら、僕は敵に回るからね」
「わかっている。今まで通り、俺はあいつの先輩でいられたらそれでいい。みすみすその席を手放すような事はしない」
今までセーラムの能力を知っていながら、口惜しく見守っていたのは自分自身だ。
理由はともかく、やる気を出して近衛に行くというのなら、それもまた良いのかもしれない、とルカは思う。
つまらなそうに生きていたのを知っているから、こんなにも生気のみなぎった顔をするのなら、救いのない恋でもしないよりはした方がマシなのかもしれない。
貴族社会に身を置きながら、心のままに恋を追って行けるのなら、それも幸せなことなのだろう。
「一応忠告はした。良い大人なんだから勝手にするがいいさ」
男の色惚けた顔など見たって何一つ面白くはない。
ルカはセーラムを置き去りにして、師団事務所へと歩を進めた。
春は恋の季節だという。暖かな春の陽気に誘われ、命あるものは恋を謳歌していた。
「おはようございます殿下。面白い者が近衛に上がって来そうですよ」
ベリタスは執務室にカイルラーンが入室して早々に口を開いた。
出勤したら最初に近衛事務所に顔を出し、その後王太子執務室に行くのがベリタスの日課だ。夜間警備の近衛が王太子の自室から執務室へ帯同し、入室してからベリタスに警護を交替する形となっている。
朝一番に近衛事務所で拾って来た情報が、ベリタスにとっては面白いものだった。
「セーラム・ファンデルが近衛に上がってくるようです」
おそらくソルマーレも同様の報告を上げてくるだろうが、多忙を極める副師団長はまだ執務室に顔を出していない。
「ほう……あの昼の燭台のような男がまたどういう心境の変化だろうな」
カイルラーンの言葉を受けて、ベリタスは楽しげにニヤリと笑って見せた。
「決まっているじゃないですか、近くに人誑しが居るでしょう……アレックスですよ」
ピクリ、と主の片方の眉が動いた気がした。
「先日の模擬演習でも同じ小隊に組み込まれてましたしね。このまま順当に進めばアレックスが近衛に上がるのを見越したんでしょう」
「セーラムがアレックスに恋着していると?」
いつも通り冷静な表情で問いかけてくるが、気になるから問うのであって、どうでもいいならそれで終わる会話である。
まだはっきりと自覚していないようだが、確実に何かが芽生えているのをベリタスは知っている。
でなければ、いつも丸投げしてくる正妃候補宛の誕生日の贈り物を自ら選んだりはしないし、合同演習にかこつけてアレックスを見に行ったりなどしない。
興味のない事柄には冷淡なカイルラーンである。そのカイルラーンが自ら動いているのだから、アレックスに興味があるのは間違いない。それが恋なのか、それとも違う何かなのかはベリタスにはわからないが。
「さて、セーラムの心の中まではなんとも。さすがに正妃候補だというのは重々理解しているでしょうから、正妃選出から外れたら可能性としてはあると踏んでいるのかもしれないですね」
思わぬところから強烈な伏兵がやってきたな、とベリタスは心の中でほくそ笑む。
本来なら正妃候補なのだから、それを狙う男が居ようなどとは考えない。候補とはいえ後宮に入っているのだから、婚約者と同等の身の上だ。それに手を出そうものなら最悪の場合一族の首が飛ぶ。
敵など居ないと高を括っていたら、うっかり横から拐われてしまう可能性があることに気付いたら、この色恋に淡白な主がどうなるのか見ものだった。
もっと近くで観察したい、と悪戯心に火が付いた。
「どうせなら側近に引っ張ってはいかがですか。過去に一度、人事が近衛に打診していたので能力は低くない男ですよ」
「お前、面白がっているだろう」
不機嫌そうな顔をして己を睨めつけてくる王太子の顔を見ていると、楽しくて仕方がない。
「側近がもう一人必要だとおっしゃってたでしょう? セーラムは侯爵家の血筋ですし、条件的には悪くないですよ。ファンデル家は確か中立派でしたかね。特に気になるつながりも無かったはずです」
「アレックスに恋着しているなら、むしろ寝首を掻かれることにならないか」
「寝首を掻いてどうするんですか、王族相手に。むしろアレックスを守りたいでしょうよ、本気で恋をしているなら。だから昇進したいんですから」
人の悪意や悪辣な手口には驚く程聡いくせに、こと恋愛に関してはまるきり心の機微に疎いらしい。女嫌いで恋とは無縁の王太子だから当たり前なのかもしれないが。
「近衛に上がることがアレックスを守る事になるのか?」
心底理解できていないのが丸分かりの表情を浮かべている。
「現状セーラムが想定できる道はそう多くないですよ。アレックスが女になって、殿下の正妃になれば自分は出世して近衛の所属に変わるだけ。殿下の正妃に選ばれなかったのであれば、近衛まで出世していなければ婚約を申し込めない。男のままならば、順当に行けば近衛に上がるのですから、自分も近衛に上がらなくては接点はなくなるわけです。セーラムにとって一番良いのは二つ目の道でしょうが、三番目の道ならば殿下の側近に上がることは躊躇しないはずです。妻にはできなくても、側にはいられますからね」
ベリタスが可能性を列挙すると、カイルラーンの仏頂面の頬が不快げに動く。
「あなたにとって不本意でも、セーラムは役立ちますよきっと。アレックスが手の内にある限りは、裏切ったりはしないでしょう」
今、カイルラーンの心の中は揺れているはずだ。利をとるか感情を取るかの狭間にいるのだろう。
真顔になった主の口が開く。
「それについてはしばらく考える」
「もちろん、お心のままに」
ベリタスはそう言って、悪辣な笑顔を浮かべる。
それを見た主の顔は心底げんなりしていた。
今日の業務は頑張れそうだ、と心の中で思った。
※昼の燭台/昼行灯
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