36・舞踏

 何も話さず、何もせず、ただ黙ってついて行くだけの仕事とはなんと胆力の必要な事か。近侍に上がればこれが日常になるのだと思うと、アレックスは少しげんなりする。

 シャルシエルとのダンスが終わった後も、カイルラーンは他にも令嬢二人にダンスを申し込んで会場には大きなざわめきが溢れた。

 シャルシエルと踊るのは誰もが想定していたのだろうが、今まで必要最低限の社交で済ませていた王太子が他の正妃候補の女性を誘ったのだから、そのざわめきも当然の事である。

 ホールの噂話を耳に拾ってみると、どうやらその二人も保守派の家の令嬢だったようだ。

 中立派の家のアレックスを将来の側近候補として連れ歩いているのだから、政治的なバランスを鑑みれば必要な事なのだろう。

 始めて出会った夜会では、あれだけ誰かと踊る事を忌避するような言動をしていたのに、それを押し殺してまで保守派の不満を抑えるために踊っているのだとすれば、何だか申し訳ないような気がしてくる。きっと、無理をさせているのは自分が原因だから。

 だが、申し訳ないとは思っても、与えてくれた猶予期間を手放す気は無かった。

 諦めるくらいなら、男の姿で後宮に入ったりなどしない。与えられた物は、きっちり仕事で返すつもりだ。

 王太子が三人目の正妃候補と踊っているその曲も終盤に差し掛かっている。夢見るような表情をしてカイルラーンと踊る令嬢の親だろうか、アレックスの近くに来て夫婦で話し始める。

「ああ、やはりうちのヘンリエッタは殿下に似合いだね。どこかの半分だけのご令嬢とは比べ物にならない」

「ええ、本当に」

 王太子が傍にいないことを良いことに、近付いて来てまで嫌味を言うとは、呆れるくらい分かりやすい嫌がらせだった。

 そんな事を言われた所でアレックスには響かない。好きに言っていれば良いのだ。

「ドレスも買えない困窮具合だとは耳にしておりませんけれど、せっかくなら勇ましい衣装よりドレスをお願いしたらよろしかったのに」

 バサリ、と扇を開く音が聞こえる。

 こちらが逆上するのを待っているのだろう。だが、相手はそれがどこの誰とは言及していない。それに乗ってしまっても、知らぬ存ぜぬで押し通され、王太子が攻撃されるのだろう。

 見え透いた手口になど誰が乗ってやるというのか。

 ようやく演奏が止まった。ダンスが終わって一礼をして帰って来る王太子と令嬢―――ヘンリエッタの姿が見えた。

 だが、近衛二人の隙間からその姿を捉えていたのはアレックスだけで、令嬢の両親はそれに気が付いて居ないようだ。

 夢中になって先をつなげる。

「ははは、もしかしたら、踊れないのかもしれないよ。ダンスが下手だからドレスが着られないのかもしれないね」

 男の声が止んだ瞬間、ビリ、と焼け付くような殺気が放たれた。

「お父様!」

 アレックスの場所からは、ヘンリエッタ嬢の表情はわからないが、少なくとも王太子がどんな状態なのかは分かった。もちろん、笑顔を浮かべたままキレているのだろう。

「それは誰の事を言っておられるのかな、フォーデュナム伯爵殿」

 主の言葉に、側近二人が左右に割れた。その先の王太子を見上げると、やはり表情は笑顔のままだった。

 隣にいるヘンリエッタは青ざめて、少し震えている気がする。

 アレックスはやれやれ、と頭の中で呟きながら彼女とは反対側に移動した。

 このままではマズイな、とさらに心内で重ねる。せっかく保守派のご機嫌取りをしたというのに、この一触即発状態では退屈なだけだった今夜の労力が無意味になってしまう。

 獲物をいたぶるような笑顔のまま、フォーデュナム伯爵の返答を待つ王太子に、伯母仕込みの文句のつけようのない笑みを浮かべて口を開いた。

「もちろん私の事を言っておられるのですよ、殿下」

「ほう、お前はダンスが下手だったか?」

「人並みには踊れると自負しておりますが、それを私の口から申し上げても信じてはいただけないでしょう。ああ、殿下のお気遣いで庇い立てされるのはおやめ下さい。また殿下にあらぬ噂が立ちましょうから」

 そこまでを一気に言い切って、アレックスは驚愕の表情を浮かべて肩をすくめる夫婦に体を向けた。笑顔のまま、伯爵夫妻に声を掛ける。

「不肖ですが私が踊ってご覧に入れます。その代わり、これ以上殿下を侮辱されるのはお辞めいただきたい」

「ぶ……侮辱などとは、私はただッ……」

「爵位を賜っておきながら満足な教育も施されていない家の者を近侍にあげようとしている、と殿下に受け取られてもおかしくはないお言葉です。殿下はそのような方ではありません」

「うっ……」

 伯爵は短く呻いて、アレックスから顔を反らした。

「殿下、私にお任せ下さいましょうか?」

 再びカイルラーンへ顔を向けると、先ほどの殺気立った顔なぞどこ吹く風で、心底面白がっている表情をしている。

 問いかけに、ニヤリ、と黒く笑った。

「ああ、全部俺が責任を取ってやる」

 王太子の言葉に、アレックスは恭しく騎士の礼を取った。



 王太子にセーラムを少しの間貸してくれと頼みこみ、ふたり揃ってダンスホール近くの壁際を目指して歩く。そこにはダンス曲の演奏をする宮廷楽団がいるからだ。

 これから何をしようとしているのか気になるのだろう、セーラムが小声で問いかけてくる。

「相変わらずだな、お前……一体何するつもり?」

 顔を見なくても分かる。きっと呆れたような顔をしているに違いない。

 アレックスはその問いかけに、薄い笑みを浮かべた。

「見てのお楽しみです」

 衆目のあるところでの会話は誰が見ているか分からない。二人はそれ以上口を開くことはなく楽団までたどり着く。

 先ほどの騒ぎのせいか、それきりダンス曲は演奏せず、優雅な背景音楽を流していた楽団の指揮者に合図する。指揮者はそれを認めて、楽団員を指揮して徐々に音を収束させていった。

 完全に音が止むのを待って、アレックスは口を開いた。

「勝利の歌、ご存知ですか?」

 勝利の歌、とは文字通り戦争に勝利した時に騎士が踊る曲である。

 本来は地方の収穫祭の奉納に使われる歌で、最初は剣を持った舞手の歌声と踊りで幕を開ける。

 国土の周囲を他国に囲まれていたアレトニア国は、古来より戦争は切っても切り離せないものだった。侵略者に踏み荒らされない事は穀物の収穫と同義で、その豊穣に感謝して戦女神ヴァルキュリアに感謝の舞を捧げるのである。

 舞手が踊った第一部分が終わると、そこに男だけが参加して男舞を踊る。

 軍にはもちろん平民も混じっているから、地方ごとに多少の違いはあるものの誰もが知っているこの収穫祭の男舞を、兵士が勝利時に祝宴で踊るようになったのが、騎士団における勝利の踊りの由来である。

 収穫際では男舞の第二部分が終われば、あとは男女入り混じって簡単なステップを踏んで踊る。

 初見であっても踊れるような、誰でも楽しむ事のできる民族音楽だった。

「え、ええ、わかります」

「最後まで、演奏していただけますか?」

 指揮者はセーラムの近衛の隊服をチラリ、と確認して大きく頷いた。

「わかりました」

 返答を聞いて、アレックスは踵を返した。しばらく連れ立って歩いたところで、セーラムに声を掛ける。

「もうここで……殿下の所に戻ってください。ありがとうございました」

「ああ、わかった」

 気を遣ったのだろう、また背景音楽が鳴り始める。

 王太子の元に戻っていくセーラムには目もくれず、アレックスはどこかで後ろ姿を見た気がしたシノンの伯父を探す。

 移動している可能性が高いからもうそこにはいないだろうが、記憶を手繰って場所の目星を付け、早足で移動する。

 しばらくそうして探し歩くと、見知った顔を見つけて声を掛けた。

「エランド!」

「アレックス、どうしたの」

 振り返ったその男は、エランド・シノン―――アレックスの二つ年上の従兄弟だ。シノン家の嫡男である彼は、伯母に似た柔和な雰囲気を持つ美丈夫である。

「伯父上と伯母上はどこに?」

「ああ、ビクトール様とご一緒していたけど、どこに行ったかな」

 ビクトールとはローゼンタールの現当主であり、これもまたアレックスの伯父である。

 周囲に視線を巡らせて居たエランドの隣に立つ令嬢が、彼の手を引いた。

 可愛らしい表情でエランドを見上げているその令嬢は、おそらく従兄弟の婚約者だ。

「ランディ、わたくしにも紹介していただけて?」

「ああ、僕の従兄弟のアレックスだよ。アレックス、彼女は僕の婚約者でマデリーン」

「はじめまして、マデリーン嬢。私はアレクサンドル・ローゼンタール。皆アレックスと呼びますから、あなたもそのようにお呼びください」

「アレックス様、わたくしはマデリーン・リンデルと申します。マディと呼んで下さいませ」

 そう言って、マデリーンはドレスの裾を両手で持ち上げて頭を下げた。

 その手には扇が握られて居る。

「すみませんマディ嬢、その扇お借りしても?」

「扇ですか? ええ……どうぞ」

 キョトンとした表情をして差し出された扇を受け取って、アレックスはやや早口で二人にまくし立てた。

「助かります。マディ嬢、しばらくお借りします、必ずお返ししますから。エランド、伯父上と伯母上を探してダンスホールの近くまで来てもらえるように伝えて。できたら協力して下さいと」

 伝言を言い切って、アレックスは足早に踵を返した。

 久しぶりに会った、ますます男ぶりに磨きが掛かった従兄弟の後ろ姿を見送りながら、エランドは小さく首をかしげた。

 ―――伯父上って、父上かな? ビクトール様かな? ……どっちでもいいか。

   

  

「勝利の歌をやるようです」 

 アレックスと楽団の側で別れたというセーラムが小さく耳打ちしてきた言葉を聞いてほくそ笑む。

 どうやらあの負けず嫌いは楽団まで巻き込んで面白いことをするらしい。

 任せてくれというから期待していたが、そう来るか、と内心で唸ってしまうような選択だった。

 そもそも、普通のダンスでは男性ポジションであれ女性ポジションであれ、踊る事そのものがアレックスにとって不利な状況だった。

 男性ポジションで女性をエスコートした場合、完全に男とみなされて後宮から出て行かざるをえない状況に追い込まれるのは目に見えていた。

 逆に、女性ポジションで誰かを相手に踊った場合、着込んだ隊服が枷になる。女の身では師団の席を剥奪されてしまうからだ。

 そのどちらかを狙ってわざとアレックスを煽っていたのは間違いがなく、それをフォーデュナム伯爵の独断でやるとは考えられない。保守派に属する旧家とはいえ、家柄が古いだけでさほど能力の高くない男だ。おそらく影で操っていたのは叔父アルフレッドだろう。アレックスが挑発に乗らなくても、衆人観衆の中でコケにできればそれで良かったのだろう。王太子の庇護なしには何も出来ない無能と印象づけたかったに違いない。叔父の姑息な手段には業腹だが、お陰で面白いものが見られそうなので溜飲も下がると言うものだ。

 ダンスホールにはいるものの、先程から少しずつ離れて行く騒ぎの元凶をチラリと一瞥する。しくじってここに居るのがいたたまれないのだろう。その姿が小物過ぎてどうしようもなく己を苛つかせる。

 あと少しでも時間が経てば、アレックスの言葉を無視して狩りに行こうかと衝動的に思った時だった。

 麗しの想い人はどこからか扇を借りてきたようだ。アレックスはそれを手に、ダンスホールの中央に立った。

 なるほど、と心の中で納得する。本来は第一部分の舞手は剣を手に踊るものだが、今日のアレックスは帯剣していない。仮に剣を持っていたとしても、許可なくそれを振り回す事はできない。その代わりに扇を使うのだろう。

 自分の後ろをついて歩いていたのは皆見ていただろうが、騎士団の式服などこの場に不似合いなのも良い所だ。その異質がこれから何をしでかそうとしているのかと、周囲のざわめきが大きくなる。

 事前に申し伝えてあったからか、アレックスの姿を確認して背景音楽が徐々に小さくなっていった。

 一瞬、アレックスの瞳が閉じられる。おそらくそれは、アレックスが無意識にやっている癖なのだろう。スイッチを入れるような感覚なのかもしれない。カイルラーンは折に触れ、その癖を目撃していた。始めて出会った夜会の時に、神事でも、そして今も。

 再び目を見開いたとき、アレックスの朗々とした歌声がダンスホールに響き渡った。


 勝利の歌を捧げたる 女神にいさおしの歌を捧げたる

 戦場いくさばに降りたるその御手を 授けたもうたその御手を

 引いて我らは勝利せり

 勝利の歌を捧げたる 女神に感謝を捧げたる

 導かれし我らは勝利せり


 アレックスの鍛えられた腹の奥から、よく通る声が溢れ出る。

 剣代わりの扇を閉じたまま手にして舞う姿は、どこからどう見ても騎士には見えなかった。

 キレのある動きに、首元で括った髪と飾緒が浮き上がる。

 独特の節回しに併せて動くその様は、隊服を着ていながら奉納の舞手そのものだった。

 最後の一節が終わると、優雅な動作で広げた腕が剣を抱いた。

 ほう、と観衆からため息のような声がこぼれた瞬間だった。

 ドラム音が中心の、第二部分が楽団の後押しと共に始まった。

 アレックスの見事な舞に視線を奪われていたが、気づけばテイルコート姿の男たちがホールに集まって来ている。その顔ぶれを見ると、グスタフに縁を持つ者たちばかりだった。見知った所で言えば、現当主のビクトールに、クレスティナ師団長のアレイスト、剣の師であるカシウス・メイロードまで混じっていた。

 ローゼンタール総出だな、と苦笑する。

 男舞は手足を踏み鳴らし、雄々しく踊るものである。やかましく、大仰に踊るのが基本で、先ほどまで第一部分の舞手をしていたアレックスもそこに混じって踊っている。

 一般兵から上がってきた者ならば誰でも踊れるが、アレックスはおそらくグスタフに教わったのだろう。あの老騎士はこんな事まで教えているのか、と感心すら覚える。

 死んだ魚のような表情をして付き従っていたくせに、今は水を得た魚のようだ。楽しげに踊る姿を見ていると、何故か全てがどうでも良い事のように思えた。

 男舞が終わって曲調がかわり第三部分が始まると、そこにシノン家や、地方の領地で領民と近い生活をしている下位貴族までもが混じって行って、気がつけば村の祭りのような有様になっていた。保守派も中立派も関係なく人々が楽しげに踊っているのを疑問に思って視線を巡らせると、送った目線の先に父王ディーンと母リカチェ、側妃エリーゼとサルーンまでもがいつの間にか踊っているのが飛び込んできた。

 臣下の長たる王が踊っているのだから、派閥など関係ないに違いない。

 まんまとアレックスに巻き込まれた形で、夜会の夜は更けつつあった。

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