37・落涙

 勝利の歌を踊りきって、ダンスホールに居た王族全員が二階テラス席に休憩に戻っていた。

 アレックスは近くに居た伯母にマデリーンの扇を礼と共に託けて、再び王太子の後に付き従って来た。

 椅子に座ったカイルラーンの後ろにつく側近の二人同様、自分も背後に回ろうとした所で、王直々に手招きされる。

 本来アレックスの身分では王と直接言葉を交わす事などないが、当の王本人から直々に呼ばれたとあってはそれを無視する事はできない。

 黙ってそれに頷いて、王の側近くで片膝をついて頭を下げた。

「久しぶりに楽しい趣向であった、礼を言う」

 国王ディーンの言葉に、頭を垂れたまま口を開く。

「私にはもったいないお言葉です。お気に召して頂けましたこと、望外の喜びです」

 別段王のために踊った訳ではなかったから礼を言われる事柄ではないのだが、それを口にするのは不敬に当たるだろう。ここは大仰に喜んでおくべきだ。

 下級騎士が王から直接礼を言われる事などほとんどない。その言葉だけで、名誉な事には違いないのだから。

 顔をあげよ、と王の手が動いたのを、視界の端に拾って頭を上げた。

 事前に指示があったのか、それぞれの席に侍従が銀杯を置いて行く。毒見は済んでいるのだろう、王はためらう事なくそれを煽った。

「褒美に一献と言いたいところだが、その姿では飲めぬであろうな。些少だが別の褒美を取らせる。大尉もカイルラーンに連れ回されて疲れたであろう……サルーンの相手をしてやってくれ」

「大変光栄ではございますが、お言葉以上の褒美をいただくような事は何も……」

 言いかけたアレックスの言葉に、王が軽く手を上げて制する。

「カイルラーン、充分連れ回したのだから、これ以上連れ歩かずともそなたの心積もりは皆分かったであろう」

「まぁ、そうでしょうね」

 父の言葉に、王太子はいつもの無表情でそう返す。

「私はこれからエリーゼと一曲踊りに行く。妃もカイルラーンもまだやるべき事社交が残っている。サルーンが一人になる訳だ。近衛を付けて行くとは言え、一人では手持ち無沙汰であろうな……というのを建前にして、休憩せよ」

 王の言葉に異を唱えられるはずもない。アレックスは再び頭を下げた。

「は、ありがたく頂戴いたします」

 子守りが休憩だとは到底思えなかったが、王命とあれば仕方がない。本心はごめん被りたいが、手持ち無沙汰に歩き回るよりはマシと思う事にした。

「とは言え、会話して待つにも限度があろう。タフルの盤を用意してある。サルーン、大尉に相手をしてもらうと良い」

 王の口からでた言葉に、アレックスは内心で警戒する。気まぐれかそれとも意図を持ってか、何故その遊戯を選んだのだろう。もっと簡単なカード類でも構わない筈なのに、シノン家が好んでやる盤上遊戯である事に違和感を拭えない。

「はい、お心遣いありがとうございます、父上」

 どうしてだか分からないが、頻りとアレックスと話をしたがる様子を見せるサルーンの、嬉しそうな返答が聞こえた。

 頭を下げたまま、面倒な事になったな、と口には出さずに呟く。

 淑女教育のためにシノンの本邸に出入りしていた頃、休憩と称して外祖父と茶を飲みながら、よくタフルを打ったものだ。

 フリッツを相手にするのだから、休憩どころか相当な頭脳労働だった訳だが、今思えばあれも遊びと称した軍略の訓練だったのではないかとアレックスは思っている。

 祖父、外祖父共に、色々な遊びを教えてくれたが、大人になった今その半分以上は遊びでは無かった事を理解している。

 グスタフが遠乗りに行こうだとか、山に狩猟に行こうだとか言って誘うのに、疑いもせずについて行って楽しんでいたわけだが、遠乗りは馬術に直結する事で、狩猟は野戦に関連する事だ。

 これは騎士訓練の一環だったはずで、もちろん、獲った獲物も自分で捌けるように教え込まれた。

 何故祖父が子供の自分にそこまでの事をさせたのかも分かっている。狩った獲物を捌けると、戦場での生存率を上げられるのはもちろんだが、それとは別に命を奪う事を覚えさせる為だ。戦場に出れば、人の命を奪わなくてはならない。だが、普通の人間なら最初はそれに抵抗を覚える。だからと言って戦場でためらう事は自分の死に直結している。

 取るか、取られるかの命のやり取りに、人を使った予行練習はできない。だから祖父は鳥や兎だけでなく、大型の四足獣も狩らせたのだろうと思う。

 外祖父の遊びは全てが思考力を育てるものだった。盤上遊戯に始まって、アレトニア国内外の土地の特色を知り、各地の農業や産業を覚える事―――これを空想旅行とフリッツは言っていた―――、史実に沿った英雄譚を古地図と共に手渡された事もあった。

 盤上遊戯は戦略を、農産業は各地の気候変動を、英雄譚は侵略経路を。そのどれもが、軍人に取って必要な知識であると同時に、領地運営にも応用可能な知識であったのだ。貴族としてどこかの領主、嫡男に嫁した場合、あるとないとでは明らかに苦労の度合いの違うものだ。

 外祖父は盤上遊戯を通して人の心を読むとアレックスに言った。

 ならばまだ、こんな所で己の手の内は見せてはならない。だが、王が選んだタフルが気まぐれだとはどうしても思えない。おそらく、シノン家が盤上遊戯を好んで指すのを知っている。故に手を抜きすぎても良くない。

 サルーンの実力がどの程度かはわからないが、もしも自分の方が強いのなら、上手く誘導して勝たせなければ、とアレックスは思った。



「して、結果はどうであった」

 王家主催の夜会の翌日、王の執務室にはサルーンに付いていた近衛が報告に訪れていた。

 結果とは、もちろん昨夜の盤上遊戯の勝敗の事である。

「途中までは競っておられましたが、見事殿下が勝利されました」

 近衛のその報告に、王は意外そうに一瞬眉を上げたが、それには何も返さず顎を揉んだ。

 しばらくそのまま思考するように椅子に背を預けて、再び口を開いた。

「打ち筋を見ていて、お前は何か感じたか」

「打ち筋……ですか。私は特に何も感じませんでした。今話題の騎士でございますし、頭脳面でも隙がないのかと思っておりましたので意外には感じましたが」

「ははっ、なるほどな」

 常に表情を崩す事のない王の笑い声に、男は一瞬背をびくりと震わせた。

 堅い表情を浮かべて先を続ける。

「いえ、サルーン殿下がそれだけお強いということなのですが」

 男の言い訳のような言葉に、王は軽く手をあげた。

「ああ、いや、そういう意味ではない。あれの数少ない趣味でもあるし、腕前についてどうこう思わぬ」

 生まれついて虚弱な息子に、気まぐれに盤上遊戯を与えたのは自分だ。

 同じく幼少時虚弱だったカイルラーンは成長と共に健康になり、上手く武人として育ったが、サルーンはおそらく大人になっても虚弱なままだろう。何故なら、サルーンと同じ年頃には、カイルラーンは剣術指南を受けていたのだから。

 おかげでサルーンは華奢で体も小さい。それでも自分とカイルラーンに何かがあった場合、サルーンが王位を継ぐ可能性も考えておかなくてはならない。

 せめて戦略的に人を動かしていく思考をと思って遊びがてらタフルをやらせたが、筋は悪くないように思う。

 だが、アレックスとの指し合いの結果を聞くと、力量としては不足している、と認識せざるをえなかった。

「ご苦労であった。下がれ」

 は、と頭を下げ、男は臙脂の隊服を翻して辞して行った。

「アレックスが勝てなかった事が気になりますか」

 傍らに立つルードが興味深げな顔をして問いかけて来る。

「勝てなかったのではない、サルーンが勝たされたのだ。私の時とは逆だな……盤をアレックスの思うままに誘導してサルーンを勝たせたのだ……それを、誰にも悟らせずに」

「シノン翁ならともかく、アレックスにそこまでの事ができますかね……」

「むしろ勝てぬ方がおかしい。負けたという事は、わざと負けたのであって、途中まで競っていたのであれば、盤は支配されていたと見るべきよ」

 あのシノン家が育てていながら、サルーン程度の相手にタフルで負ける事は考えられない。

 シノン家の直系であるヘラルドもマリィツアも、接してみて相当頭の方はキレるのを知っている。あの二人もあのフリッツに育てられた盤上遊戯の名手なのだから。

 アレックスの昇進に関わる騎士団の評価報告も秘密裏に目を通しているが、それを見ている限り、評価と盤上遊戯の結果がそぐわなかった。

「政治的に微妙な場所に立っているからな……サルーンに勝った噂がたてばまたいらぬ反発を買うゆえそれを嫌ったのだろう。それと……棋譜を記憶されるのを避けたのであろうな」

「なるほど、アレックスは軍人ですしね。戦略面で思考傾向を読まれるのは確かに嫌がるかもしれませんね」

 ルードの言葉に頷いて、ディーンは楽しげに表情を崩す。

 全方位敵に囲まれたあの状況の中、一人で歌い踊る強靭な精神力を持ち、不利を有利に逆転させる知略を持っている。そしてなによりも、敵を欺く為ならば王族さえ謀って見せる強かさがある。

 やはり自分の直感は間違いでは無かった、とディーンは思った。

 

 

 瞬く間に時は過ぎ、めまぐるしかった一年目は終わりを迎えた。

 年が開けても三日間は騎士団も休みである。とは言え、警備をおろそかにできるはずもなく、アレックスは交替勤務に入らなくてはならなかった。

 年始休みで訓練がなく不満も溜まっているだろうレグルスを夜間警備の任に入る前に走らせてやる為に、少し早めに部屋を出てきた。

 それでも冬の日暮れは早く、夏の頃ならまだ宵の口だというのに、既に辺は暗闇に沈んでいる。手にしたランタンで足元を照らしながら師団の厩舎への道を行く。

 思い出したように時折降る粉雪で、通路は白く薄化粧をしている。その真新しい白いカンバスの上を歩けば、アレックスの足型が等間隔で抜かれて行った。

 厩舎の中に入ってレグルスの馬房まで行くと、来た事を既に分かっていたのだろう相棒が、ブルブルと鼻を鳴らしている。

 その顔に笑顔を向けて、首を撫でながらそこに顔をうずめる。レグルスの肌からは、干し草の香ばしい香りに混じって、独特の匂いがした。それは鼻をうんと近付けないと分からない程度のレグルスの匂いだ。きちんと世話をしているから臭う訳ではない。長年共に育ってきたから知っている、落ち着く匂いだった。

 ランタンを壁際に置き、騎乗するために壁に掛かった鞍に手を伸ばした瞬間だった。背後でレグルスの尾が、鞭打つようにしなって揺れた。そのなびいた毛が、アレックスの背中を打つ。

 何事か、と振り返ると、苛立ったようなレグルスが見える。

 アレックスはああ、と内心で納得した。

 立っている場所から姿は見えないが、おそらくもうすぐ王太子がやってくるのだ。

 シルバルド師団の厩舎の中で相棒がこんな反応を見せるのは、あの男しかいないのだから。

 落ち着くまで準備はできないな、とレグルスの首を撫でていると、思った通り王太子がやってきた。

 馬房の前で足を止め、こちらに向かって口を開く。

「交替勤務か、精が出るな」

「はい」

 アレックスはそう言って頭を下げるにとどめる。馬房の中で跪く事はできない。万一馬に蹴られたら命を落としかねないからだ。王族がいても、馬の近くでは跪かなくて良い事になっていた。

「まだ礼を言っていなかったな。中々に趣味の良い物をもらった……礼を言う」

 そう言って、カイルラーンは腰に佩いた剣の柄を指先でトントンと叩いた。その振動で、柄頭に下げられた護符がゆるゆると揺れる。

 アレックスはその光景に、頭を伏せたまま目を見開いた。まさか本当に使っているとは思ってもみなかった。

「お気に召して頂けて、私も嬉しいです」

「顔を上げよ……伏したまま嬉しいと言われても、本心を隠しているように思えてならん」

「は……」

 王太子の言葉に、アレックスは困惑して頭を上げた。

 相変わらず、レグルスは警戒して気が立っているが、彼はそれを気にした風もなく眺めながら口を開く。

「二月がお前の誕生月であったな……何が欲しい」

 スイ、とレグルスに向けられていた視線がアレックスに移る。

 真っ直ぐに向けられる金色の瞳はいつになく穏やかだった。

「何も……」

 何か欲しいものがあっても、正妃候補ならば何もないと答えるべきなのだろう。だから、この返答は間違いではない。アレックス以外の正妃候補の令嬢ならば、王太子直々に問われたら嬉しいだろうし、本音の部分では何か贈って欲しいのかもしれないが、アレックスには本当に欲しい物がなかった。

 アレックスのその答えに、カイルラーンは、ふ、と笑った。

「お前は本当に欲がないな……遠慮せず言うが良いのに」

 王太子のその言葉に、なぜだか無性に虚しさがこみ上げた。欲のない人間が、この世にどれだけいると言うのだろう。自分とて、この見せかけの姿を一皮剥けば、内側は欲や醜悪な心や、禍々しいものであふれていると言うのに。

「欲なら私にもございます……」

「ほう……それは、形ある物ではないと言うのだな。お前の欲しい物とは何だ」

 穏やかな微笑は息を潜め、真剣な眼差しで射るように見つめて来る瞳が痛い。

 その苦痛に、アレックスはほんの少し眉根を寄せた。

「私は生まれ落ちた時から定められた性が欲しいです……父のような騎士らしい体が、母のような女性らしい体が、私は欲しい」

 それは、絶対に叶わぬ願いだ。子供のように、この男にそれを言って何になると言うのか。なぜ、はぐらかしてしまわなかったのかと、心の中は混乱している。

「だから、お前は完璧であろうとしているのだろうな……女神アレシュテナを信じる事は出来ぬか」

「どんな生を受けようとも、私の人生は私が歩むべきものです。他人に委ねる人生なぞごめんです。だから、私は神を信じません」

 それが強がりなのは自分でも分かっている。それでも、そう言い切ってしまわなくては、ポッカリと空いた足元の闇い穴の中に落ちて行きそうな気がした。

 それを振り払うように、アレックスは前を向いてカイルラーンの瞳を真っ直ぐに見据えた。

 その瞬間、カイルラーンの顔が不快感を表すように歪んだ。

「痛ましい……お前に肩を貸してやれぬ俺を許せ」

 カイルラーンはそれだけを言い残して、自分の馬房へ向かって歩いて行った。

 何故、と疑問に思ってその背中を眺めていると、確かな質量を伴って軍靴を何かが弾く音が聞こえた。

 一雫、こぼれ落ちたそれはアレックスの右頬に一筋の線を描いていた。

 

 ―――ああ、私は泣いているのか。……どうして?

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