38・急転

 何重にも覆われた硬い殻を砕いて、むき出しの柔らかい心にいつか触れてみたいと思っていた。

 その心の片鱗を、あんな所で思いがけず見ることになるとは想像すらしていなかった。

 今日のアレックスはひどく無防備で、自分を偽る事に疲れているかのように映った。

 真っ直ぐに背を伸ばし、気丈に見上げて来るその瞳に浮かんだ一雫が、瞳にせり上がって溢れて行くのを、スローモーションのように見ていた。

 白い頬に引かれて行く一筋までもを美しいと感じてしまったのは不謹慎だろうか。それと同時に、その涙にアレックスが気付いていないのを理解した瞬間、当人の生き辛さに触れたような気がして胸を衝かれる。

 その不安定な魂が、あまりにも痛ましくてならなかった。

 咄嗟に、引き寄せて腕の中で抱き潰してしまいたい衝動に駆られて、自分自身を抑えるのに恐ろしいくらいの自制心が必要だった。

 手を伸ばせば届く距離にいるというのに、一筋の涙さえ拭ってやれぬ自分はなんと不自由な事か。

 己とアレックスの間を物理的に隔てている馬房の柵を、思うままに飛び越えて行けぬ自分に心底うんざりした。

 そんなものは、糞喰らえだ。

 だから、今宵想いを伝える事に決めた。次こそは、こんなにも口惜しい事にならないように。

 いつものように自室を抜け出して、愛剣を手に庭園に降り立つ。その柄頭で揺られている護符に、柄にもなく祈った。

「言葉を交わす時間を我に与えよ」

 凪いだ冷たい空気の中、カイルラーンの低い声は暗闇に静かに溶け込んでいった。


 

 アレックスはランタンを手に、内宮の隔壁に沿って歩いていた。警戒ルートはあらかじめ決められているが、外部からの侵入を防ぐために一週間で道順は変わる。

 今日は比較的天候が穏やかだった。吹雪く日の警備は濁る視界と寒気との戦いだが、今夜は風もなく大気はどこまでも透って視野は開けていた。冬用の装備をしているから、立ち止まらない限りは寒さも厳しくは感じない。

 辺りを警戒してはいるものの、担当区域で一人きりの仕事となると、思考に余念が混じってしまう。つい、勤務に入る前の王太子との厩舎でのやり取りを思い出してしまって、情けなさに頭を抱えたくなる。

 みっともない所を見られてしまったなと、思わず小さなため息が溢れた。

 泣いて何かが解決するのなら、存分に泣くのも良いと思う。けれど、泣いたところで何も解決できないのは、大人なのだから分かっている。

 それなのに、八つ当たりのように王太子に自分の生まれの不遇を吐き出し、あまつさえ泣いたなどと、記憶から消し去ってしまいたいほど恥ずかしい。

 そんなアレックスをみて、あの男は痛ましい、と言った。肩を貸せぬ自分を許せとも。

 その場限りでも、己の苦しみに寄り添ってくれたのだと、これまで接してきて分かっている。もちろん、師団の厩舎など誰がやってくるか分からない場所で、王太子の立場で肩など貸せる訳が無い。せめて泣き顔を見ないようにと立ち去ってくれたのだ。

 完璧でなければならない―――強迫観念にも似たその考えにとりつかれたのはいつごろだっただろう。男性としても女性としても、足りない部分を隙間なく埋めるように、騎士訓練と淑女教育に没頭していった。より完璧で無ければ不安で仕方がなかった。けれど、いつまでたっても隙間は埋まることがない。


 ―――だから、お前は完璧であろうとしているのだろうな。


 それを、あの男は見抜いていた。何故こんなにも、自分の心が見透かされてしまうのかわからない。いつだって、心は幾重にも隠したままでいると言うのに。

 いつも惜しんでいるかのように言葉は少ないが、それでも、あの男が本当は細やかな気遣いをしているのを、嫌というほど理解している。だからこそ、うっかり勘違いしてしまいそうになる。特別扱いされているのではないのか、と。

 王太子の特別扱いが己の勘違いでないのなら、それは男の自分に向けてか、それとも女の自分に向けてなのか、あるいはその両方なのか、アレックスには判断がつかない。

 勘違いするな、と警戒する自分と、特別扱いに浸ってしまいたくなる自分が綯交ぜになって、頭の中はひどく混乱していた。

 外宮の隔壁との境界にある切れ目に差し掛かると、外宮側の警備担当者の後ろ姿が見えた。その隙間から、内宮の庭園に入り込む。

 庭園に入ってすぐ、迷宮のように張り巡らされた生垣が幾重にも重なっている。大人は横歩きしなければ抜ける事ができないその垣を、覚え込んだ道順通り音を立てないように進んでいく。外部からの侵入に備えてシーズン毎に石像や有棘木の柵が入れ替えられるため、警備担当者泣かせの場所だ。尉官昇進したばかりで警備中に迷い、朝まで出てこられない者が年に数名出る場所でもある。

 出口となっている薔薇の生垣を抜けると、見上げた空には冷たい色をした月が覗いていた。

 開けた場所で灯りは必要ない。ランタンの扉を開け、息を吹きかけて火を落とす。

 暗闇に眼が馴染むまでしばらくそこで立ち止まり、再び歩き出した。慣れれば、月明かりだけでも案外明るいものだ。

 いつも通り庭園の花壇に沿ってしばらく歩いて行くと、視線の先に見知った後ろ姿を見つけて息を飲んだ。

 見紛う事などない、その黒髪。月明かりに、頭上に近い部分は白く光って見える。

 意を決するように飲んだ呼吸を気取られないように吐き出して、そこに近づいていく。気配も足音も消していたのに、どうしてだか彼は振り向いた。

 男の視線が、直視した己のそれに重なった。

 側近くまで距離を詰め、その場で跪こうとした矢先、手がそれを制した。

「二人の時は頭を下げる必要はない。顔が見えぬ事が不快だ」

「かしこまりました。……殿下、お部屋にお戻りを」

 どうせ素直に言う事を聞かないのは分かってはいるが、それでも一応言っておかなくては。王太子の方が立場は上だとはいえ、こちらも職務中である。

「しばらく付き合え……お前が付き合うというのなら、終われば素直に部屋に戻ってやる」

 ニヤリ、と企んだように笑うその顔にため息が溢れた。

 アレックスの仕事は不審者がいないかの見回りであって、王太子の警備は対象外だ。ここで無視して庭園を一周して戻っても構わないのだが、交換条件にもなっていない条件をこちらが飲まざるを得ないのをカイルラーンは分かって言っている。王族に逆らえる者がどれだけ居ると言うのか。

「しばらくお供いたしましょう」

 やれやれ、といったふうに返すと、王太子は満足気に笑って見せた。そのまま彼は口を開く。

「あまり無理をするな」

 見下ろしてくるその瞳が、ひどく優しくて困惑する。

「無理……ですか。今日はみっともないところをお見せして、お恥ずかしい限りです」

 王太子の顔を見続ける事が出来なくて、アレックスは顔をそっと横に反らした。

「俺はみっともないとは思わぬ。お前は頑張りすぎだ……もっと弱音を吐け。心を寄せる者の涙を、拭ってやりたいのにそれができぬもどかしさを少しは理解しろ」

 カイルラーンの言葉に、反らした瞳を大きく見開く。

 今、彼は何と言ったのか。

「どうにもこちらの旗色が悪いのでな……鈍感で強情なお前が気付くのを待っていたら正妃選出期間が終わってしまう。俺はお前を正妃にしたいと思っている」

 その言葉に驚愕して、思わず彼の顔を反射的に見上げた。

「ッ……ですが私を近侍にと……」

「傍に置けば強情なお前も絆されるのではないかと思ってな」

 そう言って、王太子は不敵に笑っている。

 特別扱いの謎が解けたと同時に、寒さで冷たかったはずの頬が熱を持った。

「それは職権乱用なのでは」

 苦し紛れに絞り出すように言えば、ん?と首をかしげて言葉を返してくる。

「職権乱用はしているが、公私混同はせぬ。職権乱用を指摘されぬようにするのが俺の腕の見せどころでな」

 その二語が同一線上に並び立つのか疑問だが、悪びれる風もなくそう言い放った王太子に呆れた。

「そこまで回りくどい事をなさらずとも、私を正妃にとおっしゃれば済む話では……」

 アレックスの言葉に、カイルラーンは再び真剣な顔付きになって言葉を紡いだ。

「それではお前の心は手に入らぬ。俺は人形が欲しいのではない……お前の心が欲しいのだ。それに……お前を正妃に望むという事は、同時にお前の騎士としての未来を奪う事になるからな。無理に事を進めても、お前は納得などできまい?」

 確かに、いきなり正妃にと言われたら、王族の求め故嫌とは言えず、なし崩し的に了承するのだろうと思う。

 もちろんそうなったら、彼の言う通り自分は心を閉ざしたまま嫁す事になるだろう。政略結婚などその程度のものだと言わんばかりに。

 だが、自分の何が目の前の男にそうさせるのか皆目見当もつかなかった。

「確かにそうかもしれません……。殿下はいつから……」

「いつから……か。自覚したのは夏頃だったか。初めて出会ったあの夜に始まっていたのかもしれないがな」

 この男は、こんなにも饒舌だっただろうか。

 苦笑する王太子に、自分がどんな顔をして向き合っているのか想像する事さえできなかった。おそらく、情けない表情をしているにちがいない。

 それ以上、何をどう返して良いのか分からず、アレックスはただ立ち尽くすことしかできなかった。

「時間が許す限り待つつもりでいる。だから、お前も考えろ……男女どちらの決断をしようとも、俺はお前を手放す気はない」

 呆然とするアレックスの顔に、王太子の手が伸びてくる。

 目を瞑る事も逃げる事もできず、その光景を凝視して固まった。

 するり、と左肩から垂れ下がったアレックスの髪を持ち上げて、カイルラーンはその毛先に口づけた。

 名残惜しそうに毛先を弄び、その弾みで最後の一筋が彼の手のひらから逃げていく。

 また、泣きたくなるような優しい笑顔を一瞬向けて、カイルラーンはそのまま背を向けて去って行った。

 理解が及ばず、思考は悪戯に空回る。息苦しさに胸に手を当てれば、心臓が壊れそうなほど脈打っている。

 職務を忘れて、その場に崩れ込んでしまいたかった。

 胸の鼓動が落ち着くまで、アレックスはしばらくその場で立ち尽くしていた。


 

 庭園で考えるには自分の許容量をあまりにも超えていた。だから、アレックスは考える事を放棄した。

 とにかく気持ちを切り離して夜間警備の任を終え、部屋にたどり着いたまでは良かったが、その後の記憶が曖昧だった。

 風呂も食事も朧気で、どうやって寝台に入ったのかさえ分からない。サラとキミーが心配そうに訊ねてくるのに、辛うじて大丈夫だ、と返したような気もするが伝わったのかどうか。

 考えても考えても自分の気持ちに納得のゆく答えをみつけられずにいる。

 ヘッドボードに備え付けられたもう一つの枕を抱いて、上掛けの狭間を行きつ戻りつしているが、全く埒があかない状態だった。

 心が欲しい、と王太子は言った。つまりは、アレックスにも王太子を好きになれ、と言う事だ。

 以前ほど嫌ではないし、むしろ仕える主としては好ましくすらある。

 だが、異性として好きかと問われたら、正直なところは分からなかった。

 好き嫌い云々よりも、目の前に横たわった深い谷がある。正妃になるには、出産できる体である事が必須条件だ。

 どんなにカイルラーンが自分を好ましく思っても、これからアレックスの気持ちが彼に動いても、この身体ではどうする事もできないのだと、それだけが分かっている。

 そうか、とアレックスは思った。悩む必要などないではないか。

「私は正妃にはなれない……」

 小さく呟いたその言葉に、どうしようもなく打ちのめされた気分になった。

 男性にも、女性にも、自分は恋などできないのだ、とようやくそこで思い出した。

 瞼を腕で覆って、無理にでも眠りに落ちていく。

 もうこれ以上、考える事が苦痛だった。

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