39・格闘

 騎士団では一月の中頃から、昇進試験が本格的に始まる。佐官に上がるための評価項目は尉官と比べて格段に多くなり、ここが上級士官昇進の壁と言われていた。

 年末の夜会に王太子の側近候補として出席してしまったアレックスも例外ではなく、通常業務の間にこの昇進試験を受けなくてはならなかった。

 他師団所属の尉官相手に、馬上槍術、対人の組手に加え、個人での筆記試験も追加される。筆記試験の内容も多岐に渡り、軍略、地形図、布陣、気候、土木、他国語が必須となる。

 このうち他国語は近隣国のうちの一国で構わなかったが、最低でも日常会話程度の読み書き会話ができなくてはならなかった。

 アレトニア国では国教の教義に基づいて積極的な侵略戦争を行わないが、そのためにも折衝は欠かす事ができない。その役目を担うのは、佐官以上の士官である。

 また、防衛のために国境に布陣し、そこから本陣を討つため敵国の内側へ侵攻して行く場合もある。相手国の関係者を介さず現地の情勢を知り、意思の疎通を図る事は重要事項で、それもあって他国語の習得は佐官昇進の必須項目とされていた。

 アレックスは予定されていた昇進試験を一通り終え、厩舎の馬房の中に居た。レグルスの蹄鉄を交換するため、装蹄師に立ち会うためである。

 馬房の中の壁に背を預け、装蹄師の見事な仕事をぼんやりと眺める。

 騎士団専属の装蹄師は数名いるが、気難しいレグルスは何故かこの目の前の男にしか蹄を触らせたがらない。仕事ぶりを見れば納得できるが、それでも彼よりもベテランの装蹄師がいるにも関わらずである。

 人間同士の付き合いでも相性というものがあるから、レグルスはこの装蹄師が良いのだろうとアレックスは思っている。

「お疲れですか、大尉」

 アレックスがぼんやりしているのを見取った装蹄師―――ベインが、にこやかに笑んで言う。

「ああ、ここ数日忙しかったから……」

「昇進試験期間でしたね……昔と違って今はあまり戦いがないから、士官の方々は大変だ」

 ベインは口を動かしながらも、腿の間に挟み込んだレグルスの前足の蹄を専用ののみで削っている。皮を剥ぐように少しずつ削られて、内側から白い部分が現われる。

 騎士団所属の装蹄師の中では中堅といったベインだが、それでも経験年数で言えば軽く十年は越えているだろう。毎年今頃が試験期間だというのは知っていて当然の事柄だった。

 粗方削れたのか、今度は外した蹄鉄を持ち込んだ簡易焜炉で炙り、それを金槌で叩いて歪みを調整している。厩舎の中にキンキンと小気味よい音が響き渡る。

「それでも、乱や戦が起きるよりはよっぽどマシですかね」

 現王ディーン以前の王の時代には内乱や戦争も頻繁にあったが、近隣国との同盟も進んで国内が落ち着いた事で豊かになり、軍人が功績を上げられる戦いそのものが少なくなっている。それでも、国として軍は維持して行かなければならず、軍功を上げて昇進して行く事の代わりに昇進試験というシステムが導入されて早十数年が経っていた。

「そうですね、平和な証拠だから」

 ベインは再び焼き付けた蹄鉄をレグルスの蹄にあてがう。熱せられた蹄鉄が蹄の表層を焼いて、辺りには焦げ臭い匂いが漂った。

 熱い蹄鉄を外して作業台の上に置き、彼は再び腿の間にレグルスの脚を挟んで茶色く変色した接着面を削り始めた。シャクシャクと蹄を削る音がする。

 仕事に集中している職人の邪魔をするのは好きではない。アレックスはベインの気が散らないよう、言葉少なに返事をした。

 ここ一年接してきたベインも分かっているのだろう、アレックスの様子に気を害した風もなく、彼は黙々と先の作業を続ける。

 ベインが言うように忙しかったのは事実だが、ぼんやりしてしまうのは疲れているからではない。考えてもどうする事もできない事を、あれこれ捏ねくり回して堂々巡りに陥ってしまうからだ。

 忙しくしている時には気にならないが、手持ち無沙汰になるとどうもダメだった。つい、王太子と交わした言葉を思い出してしまう。


 ―――女神アレシュテナを信じる事は出来ぬか。


 いっそ王太子の言うように、盲目的に神を信じる事が出来たなら、どんなにか幸せだっただろうと思う。

 サミュエルが立派な法王だという事はわかっているし、彼がこんな壮大な嘘などつく必要がないのも分かっている。けれど、なぜそれが本当に神の奇跡と言えるのだろう。もしかして、悪神のささやきだったのかもしれないし、あるいは幻聴だったのかもしれない。誰も聞いたことのない女神の声を、何の疑いもなく奇跡だと信じてしまうのが怖かった。

 信じた先に今以上の絶望が待っているのではないかという考えをずっと捨てることができずに生きてきた。だから、今まで自分が最善と思える選択をしてきたつもりだ。

 けれど、自分は弱いから、信じないと突っぱねたものに流されてしまいたくなるのだ。

 いつの間にか、ベインは蹄鉄に釘を打ち込んでいる。蹄の外側に先が出るように斜めに打ち込んだその先を、やっとこでつかんで折って行く。蹄の表面と折れた釘の面を合わせるためにヤスリ掛けするベインの手元を、力なく見つめる。

 男としての性を決断しきれない自分の優柔不断さに嫌悪してうつむいた。


 ―――神よ、なぜ福音の子が私でなければならなかったのですか。




 通常業務と並行での昇進試験は、人によって終了時期にバラつきがある。師団内に試験終了の解放感が満ち始めた二月初旬、アレックスは師団長室に呼び出されていた。

 呼び出された際いつも座る席に着き、副師団長ソルマーレの言葉をオウム返しに問う。

「要人警護の任、ですか」

「ああ。機密上何処の誰とは言えないが、近隣国の要人がお忍びで我が国に来る事になってな。ただ、要人といっても国賓待遇の方ではないから近衛をつけるほどではない。本来なら佐官に就かせるべき任だが、なにぶん来週からロブロフォスでの演習に入るだろう?」

 必要最低限の佐官を残し、残りの佐官と師団長のソルマーレ、上等兵はロブロフォス山での雪中行軍訓練に出かけてしまう。

 シルバルド師団だけでなく、他の師団でも満足な訓練ができない冬季は試験期間になっているから、人員の確保が難しかったのだろう。一応は尉官の中で最高位まで昇進している自分が選ばれたというわけだ。

「いかにも騎士の護衛が付いていますよ、みたいなのは警備上避けたいというのもあってな。言っちゃなんだが私服のおまえを騎士だと思う人間は少なかろうし、階級面でも都合が良いしな。誰が来るかはわからんが、当日は他師団の佐官とペアで任に当たる事になる。簡単な護衛だから佐官の指示に従って動くだけの仕事だ」

「わかりました、お引き受けいたします」

 そう返したアレックスに、ソルマーレは穏やかに笑んだ。

「任せた」



 要人警護の任の日の朝、アレックスは指定された外宮の一室に向かった。そこで手渡された服に着替え、外套の下に軍支給の剣を吊って初めて顔を合わせた佐官―――ウィルディゴ師団のサイラスと名乗った―――と王都の中心街にある宿屋に軍の訓練馬に騎乗して向かった。いかにも軍用という面構えの馬で向かうわけにも行かないからだろう。

 宿屋から出てきたのは、いかにも商人然とした風体の壮年の男だったが、どこか違和感の拭えない人物だった。

 アレトニア語は不慣れなのか、片言のアレトニア語と、北方の同盟国ガルガンの言葉を主に使っているようだが、訛りが酷くて助詞が不自然に聞こえた。

 とは言っても、自分はガルガン人ではないのだから、客人の方が正しいのだろう

『私は今日塩市場を見たいです。案内をお願いできますか』

『かしこまりました。ご案内いたします』

 会話は上官であるサイラスに任せ、アレックスは黙って二人について行く。目立つ風貌を隠すため、外套についたフードを深めに被り、周囲に気を配る事に集中する。幸いにも今は真冬だから、それは不自然な事ではなかった。

 海に面した土地を持ち、近年は海を隔てた国との貿易も盛んなアレトニア国では、塩は簡単に手に入るものだが、北方の山岳地帯を領土に持つガルガンでは、塩の大部分を他国からの輸入に頼っている。塩の買い付けはガルガンの国営で厳密に管理されているというから、この客人は国の指定輸入業者か役人という事になるのだろう。

 三人は交易品の卸売市場へ向かって、宿から徒歩で移動を開始した。

 ここ一年は、ほぼ後宮と師団の行き来のみで生活していたのもあって、久しぶりの城下はとても新鮮だった。惜しむらくは、今日が仕事だという点だ。

 気楽に店を覗いてみるわけにも行かず、商人とその護衛と付き人という風を装って歩いて行く。

 人通りの多い商業区域を歩いていると、奇妙な気配を感じた。

 サイラスの背後から、小さな声で呟く。

「おそらく敵が……」

「ああ、分かっている。ここでの立ち回りは一般人を巻き込む」

「承知しました」

 商業区域を抜けるまでは抜剣する事はできない。サイラスが客人に『招かざる客が……お早く』と耳打ちするのが聞こえた。

 客人が頷いたのと同時に、サイラスはその手を引いて走り始めた。

 その背後を護るように、アレックスも同時に速度を上げる。

 アレックスは走りながら周囲に視線を巡らせて、敵の数を数える。少なくとも、三人以上が追ってきている。

 大通りを避け、卸売市場とは反対側へ抜ける枝道へと入って行く。敵がこちらの目的を知っているなら、市場方向への道には更に敵が潜んでいる可能性がある。アレックスがサイラスの立場でも同じ判断をしただろう。

 背後に迫る追手の気配で距離をはかりながら、そろそろ剣を抜けるか、と思考した瞬間、前方から敵が迫ってくるのが見えて眉根を寄せた。

「ここは私が引き受ける。おまえは客人を護れ」

 そう言ってサイラスは男の手をアレックスに引き渡し、外套の下に佩いていた自分の剣を抜いて前方の敵を薙いだ。

「はっ」

 アレックスは引き渡されたその手を引いて敵をすり抜け、裏路地に入って行った。

 王都の構造はある程度把握しているが、裏路地はあまり詳しくはない。勘を頼りに背後に気を配りながら客の手を引くが、警告音が頭の中で鳴り響いていた。

 何かがおかしい。ずっと頭の片隅に引っ掛かっている。

 しばらく出口を求めて走り続けていたが、自分が選択ミスをしたことに気付いて奥歯をかみしめた。

 進んだその先は、完全な袋小路だったのだ。見上げれば、優に大人三人分以上はある壁。足がかりもないこの壁を登れるとは到底思えなかった。

 こんな場所では、王都の警戒に当たっている官憲の目も届かないだろう。

 護りきれるか、と袋小路の奥に男を押し込む。すでに、追手の足音が近づいて来ている。やはり多対一では留めきれなかったのだ。

『あなたはそこから動かないでください』

『わかりました』

 背後にかばった男の落ち着いた声が聞こえた。

 客人から距離を取って前に出る。万一巻き込んで傷など付けてしまっては元も子もない。もちろん、自分が生きているという前提だが。

 細い路地だからここで剣を抜いても満足な可動域が得られない。近接格闘だけでどこまで敵を排除できるかわからなかった。

 距離を詰めてくる敵の足音を耳に拾いながら、頭の片隅に妙だなという考えが浮かんだ。

 泣き叫んだり騒がれたりするよりよほど扱いやすいが、客人の落ち着きはらった態度が何故か気になる。男の立場を考えれば、こういった事には慣れているのかもしれないが、無性にそれが気になった。

 前方から、がたいの良い男が足早にやってくる。埃っぽい薄汚れた衣類に、農夫が冬場防寒でするように顔の目元以外を布で巻いて、いかにも胡乱な風体だ。

 体格差を考えれば拳では制圧できないのを理解して、アレックスは壁を蹴った。そのまま飛び上がって敵の肩を左手で前倒しに掴みながら、反動で男の肩に乗る。

 両足を敵の胸の前で組み合わせ、腿で男の首を締めあげながら、残りの追手が来る事を想定して剣の柄を手繰る。

 敵の意図を知るためできるだけ生かして捕えたいが、手間取って客の命が危険にさらされるなら息の根を止めるべきかと思考する。とりあえずここで一人は行動不能にしておかなくては、と両腿にありったけの力を込めかけた瞬間、目が合った客人が口を開いた。

「そこまで」

「え?」

「そのままやったら落ち気絶ちゃうから……これ、試験ね」

 客人のよどみないアレトニア語に、アレックスはああ、と得心して脚を緩めた。

 頭の中にあった疑問は当たり前だったのだ。全員騎士団所属の軍人だったのだから。


 ――― 一般人を巻き込まないためにわざとここに誘導されたんだな。

 

 


「いやぁガルガン語まで堪能だとは想定外だったねー」

 書類を片手にのんびりした口調で言ったのは、アレックスが要人警護の名目で任に就いた日にガルガンの商人役をしていた男だった。

「助詞がおかしい事に気付かれていたらしいぞ、ブラッド」

 呆れ気味にサイラスは言って、咎めるような視線をブラッドに送る。

 二人とも、臙脂の隊服を着ている―――近衛だ。

「うわぁ……嫌なルーキー来ちゃったなー。才能あふれる新人とか目障りすぎる。出来の良い後輩とかベリタスだけで良いのに」

 そう言って、ブラッドは楽しそうに笑っている。吐き出したセリフ程に嫌がっている風には見えない。もちろん、タチの悪い冗談ブラックジョークを言っているのだ。

「昇進試験の報告書はベイルスタン語の記載しかなかったからさー、まさかガルガン語が出来ると思わないよね」

 ベイルスタン語は近隣諸国で使用する国が多く、上級士官のなかでも習得率の高い言語だった。対して、ガルガン語を公用語として使用する国の範囲は狭く、独特の音節並びも手伝って、習得者の少ない言語だった。

「いろいろ微妙だからな……あえて試験で選ばなかったんだろうな。それで、あやうく落とされかけたおまえはどうだった、スノーデン」

 サイラスがブラッドの隣に座る男―――スノーデンに話を振った。もちろん、アレックスと直接戦う羽目になった暴漢役の男である。

 危うく落とされかけた、と揶揄されたスノーデンは、チッと小さく舌打ちをした。

「まぁ、すばしっこいな。抜剣するかと思ったが、警護対象者ブラッドを巻き込むのを嫌ったんだろうな……長引いていたら俺を殺るつもりだったな、あれは。剣の柄に手が伸びていた」

 スノーデンの最後の言葉に、ブラッドがヒューと口笛を吹いた。

「怖いねぇ……判断力も瞬発力もある。近接格闘もできるとあっちゃケチの付けようがないね。この報告書を見る限り、筆記試験もほぼ満点に近いねどの項目も。年末の夜会で殿下が連れ歩いてるのを見たときは、半信半疑だったんだけどねぇ。最短で上がってくるかね普通……」

 あー、やだやだとブラッドは軽い調子で続けた。

「という訳です、隊長」

 サイラスはそう言って、執務机に座る―――文字通り机の縁に尻を預けている近衛隊長レイノル・バルスタンの顔を振り仰いだ。

「試験結果で少佐昇進が決定していたからな。近衛で内部試験をやって結果を出したのだから、殿下の近侍行きは確定だな。隊服の手配をしておけサイラス」

「承知しました」

 副官のサイラスの返答を確認して、レイノルはそのまま思考にふける。

 直接出向いてまで手の内に入れてやろうと思っていたのに、王太子の元から離脱させる事は出来なかった。それがほんの数ヶ月前だ。迂遠に近衛入りを阻止する事も出来ると脅しておいたが、それも効果はなかった。結局、実力で近侍に収まってしまうのだから、若い才能とは恐ろしい。

 現王ディーンから、程良く負荷を掛けろと言われていたが、そんなものはもろともしなかったのだから、それに意味があったのかどうかはわからない。

 唯一わかっているのは、アレックスもまた、ローゼンタールの血を濃く継いでいるという事だ。

 古より脈々と受け継がれてきたその血が、王家を護る盾となるのか、それとも滅ぼす剣となるのか、じっくりと見定めさせてもらおう、とレイノルは思った。

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