幕・開放

 王太子執務室の扉を叩く者がいる。今日は来訪者が来る予定はないのにおかしいな、と思いながら、ベリタスは口を開いた。

「はい、誰ですか?」

 すると扉の向こうから若い女の声が聞こえて来る。

「近衛所属ミレイヤ・アシュトンでございます。王太子殿下にお伝えしなくてはならないことがございまして」

 一瞬誰だったかな、と首をひねり、そういえば最近王太子妃付きになった女性近衛がいたな、と思い出す。

「入って下さい」

 失礼致します、といって恐る恐る入って来たミレイヤは、短く切り揃えられた癖のある金色の髪を持つ武官だった。

 カイルラーンは書類に目を通しながら、執務机の前まで来て騎士の礼を取ったミレイヤに声を掛ける。

「それで、どうした」

「あ、あの、それがですね……エルセオン様とアレクサンドラ様が行方不明にッ!」

 叱責を受ける事を予想してか、最後の方は目を瞑ってそう吐きだしたミレイヤに、王太子は真顔になって顔を上げた。

「サラは産休で、ナタリーが喪中だったな……シャルシエルの所を確認して、そこにいなければシルバルド師団の厩を見に行け。レグルスが居なければ、どうせあれはエルを連れて騎馬修練場にいる」

 一歳になる息子のエルセオンは眠くなると激しい癇癪を起こす。どうせ機嫌をとるのが面倒になって、馬に乗ろうと連れて行ったのだ。

 馬上で揺られる振動と、規則正しい蹄鉄の音が息子にはほどよく落ち着くらしい。

 妻付きの女性近衛として配属されてまだ三日目だ。王太子妃だというのに異様に行動力のある妻に慣れるにはまだ時間がかかるだろう。

「馬に乗って居れば大丈夫だ、どうせシルバルドの士官が側についているし、レグルス相手に勝てる馬もおらん」

「さすがアレクサンドラ様ですね! かしこまりました!」

 失礼しました、と元気良く言い残してミレイヤが出て行ったあと、カイルラーンは深いため息を吐きだした。

 婚前は男として騎士団に身を置いていた妻アレクサンドラは、女神の奇跡で女性へと転換したとまことしやかに言われている。妃は王太子を愛するがゆえに、戦場で身代わりとなって一度死んだが、愛の力で女性になって蘇ったなどという物語が広まってしまったから、それに憧れて騎士を目指す女性が増えた。死にかけた事は確かかもしれないが、死んでなどいない。

 こうして伝説うそが流布されていく実例を目の当たりにした訳だが、ミレイヤもそれに憧れて女性近衛になったというくらいだから、妻を崇拝しすぎていて手綱が緩んでいる。

 やはりナタリーとサラがいないのは痛いな、と思いながら、カイルラーンは短くなった黒髪に広げた五指を差し込んだ。

 壁に掛かった時計を見ると、時間は夕方の四時。

「急ぐ決済もございませんし、あとは明日でも大丈夫でしょう。今日はもう切り上げますか?」

 出来る腹心のベリタスがそう言ったので、カイルラーンは諦念したように頷いた。



「もー、ダメですって、まいどまいど誤魔化す俺らの身にもなって下さいよ王太子妃様」

「大丈夫よ、あの人はわたくしのせいだってわかってるから。あなた方が怒られたりしないから」

 アレックスは勝手知ったるシルバルド師団の厩よろしく、慣れた手つきでレグルスに鞍を置いて馬房から出る。

 その間も、傍らの尉官―――セスタが泣き喚く王子をアレックスの代わりに抱いている。

 男の腕の中にいる赤子は、王太子妃と同じ色の黄色味の薄い金髪だった。真っ赤になって泣いているから、瞳の色は今は見えない。

 レグルスの隣の馬房のアルファルドは、王子の泣き声に両耳をピクピクと震わせているが、レグルスは慣れているのか無反応だった。

 厩舎をでたところでレグルスに飛び乗る。セスタからエルセオンを受け取って、首から下げた、底に穴のあいた鞄に息子を入れ、穴二つからむっちりとした脚を手早く引き出す。

 首だけがカバンの縁から出ているのを確認して、アレックスはレグルスの首を腿で締めた。

 すると、レグルスはアレックスの指示を受けてゆっくりと走り始めた。

 その後ろから、濃紺の隊服を来たロルとスレイが馬に乗って追いかけて行く。

 供をせよと言われていないが、破天荒な王太子妃に慣れた二人が決まって後を追う事になる。

 どうせこの時間には通常の業務もほぼ終わっているし、過去師団勤務もしていた王太子妃は師団が忙しい時期をわきまえているから、本当に忙しい時には厩に現れない。

 前を行くレグルスは王子を乗せているからか速度はあまり出ていなかった。それでも、その騎乗している後ろ姿を見ていると、相変わらず綺麗に乗るな、とロルは心の中で思う。

 部下として共に働いていた時はどう見ても少年のような姿だったが、出産を経て体型もすっかり女性になってしまった王太子妃の背中を見つめる。

 妊娠中の妻もそうなるのかな、などと思い浮かべる。つわりがひどくて痩せてしまった妻にパステクすいかを買って帰らねばな、とぼんやり考えていたとき、背後から馬の蹄鉄音が複数近付いて来る。

「来られたか」

 呟けば、スピードに乗ったアルファルドが王太子を乗せて追いついてくる。

 その後ろから、近侍二人と、女性近衛が付き従ってやって来た。

 物語にされてしまうくらいの愛を貫いたこの夫婦は、相変わらず睦まじい。

 妃の馬の隣を並走する形に追いついた王太子の姿に、思わず笑みが溢れた。


「アヴィ、ミレイヤが困るから黙って行くな」

 追いついて来た夫を見つめ、あら、と口元に手を当てる。

 ナタリーとサラに見つかると怒られるから、こっそり出なければといつもの調子で出てきてしまっていた。

「あら、じゃないだろう」

「そうですね、今日はわたくしが悪かったです」

「いや、今日だけではないだろう、お前」

 わかっているくせに「ん?」と首を傾げてしらばっくれている妻に苦笑する。

「それで、エルはもう寝たのか」

 夫の言葉に、アレックスは首から掛けた鞄の口をそっと開いて覗き込む。

 寝ぐずりしていた息子はすっかり夢の中だ。夫と同じ色をした瞳が見られないのは少し寂しいが、穏やかな寝息を立てるその姿をみているとホッとする。

「ええ、やっと寝てくれました」

 そうか、と妻に穏やかな眼差しを向ける。

 アレックスが息子エルセオンを出産してから、惨劇の夜の夢を見ることはなくなった。

 妻は息子に、最初に殺された兄の名前をつけようと言った。

 きっと、あなたのお兄様が護って下さるわ、と。

 殺された王子の名をつけるだなんて、と反対する声もあったが、結局妻は譲らなかった。

 死は神の御前に帰る事で、肉体は再び生まれ来る器でしかないのだから、と。たとえ名が同じでも、人生は息子のものだから、不吉な事など何もないと言って笑った。

 幼少期に抱えた呪いは、この妻のお陰で解かれたのだと思っている。人を愛する事の喜びを知り、子を腕に抱く幸せを与えてくれた。そして、古い記憶呪いから解放された。

 死は、現世での荷を下ろしてひと時の休息を得る事だと、王族として国教に触れて生きてきたのに何一つ分かっては居なかったのだと、その時ようやく思い知った気分だった。

 誰よりも、呪いを受けて生きてきた妻。だからこそ、息子の名にこだわったのだと分かっている。

「帰るか」

「はい」

 騎馬修練場に日が沈む。また明日も、陽は昇るだろう。妻の瞳の色と同じ夜明けを越えて。



―― 完 ――





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蜜蜂は王乳の夢をみるか 藤野うに @utakosan

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