58・約束
カイルラーンにエスコートされ、クロウェル邸のホールに足を踏み入れる。
集まった招待客が二人の姿を認めると、歓声が会場内から沸き起こった。
今日は主賓としてここに来たから、打ち合わせ通り二人はその場で衆目に向かって一礼する。王族であるカイルラーンは胸に手を当てて軽く頭を下げるのみだが、婚約者として正式に発表されていてもまだ婚姻前のアレックスは、きちんとした礼をしなくてはならなかった。
ドレスの裾を扇と共に両手で軽く持ち上げ、片足を斜め後ろに引いて跪礼をする。伏し目がちに顎を引いて、流れるように美しい淑女の礼をしたアレックスに、周囲からほう、と嘆息が漏れたと同時に割れんばかりの拍手が巻き起こった。
正妃候補として入宮していたとはいえ、正攻法とは言い難い道のりで婚約者の座についてしまったから、それなりの反発があるだろうと覚悟して会場にやってきたが、驚く程暖かな反応で内心戸惑いを隠せない。
だが、拒絶されるよりも受け入れられる方が良いに決まっているのだから、アレックスはそれをありがたく感じながら、傍らの婚約者の腕に手を伸ばした。
しばらくそのまま連れ立ってホールを移動して、夜会の主催である宰相エドガー・クロウェル侯爵の元を目指す。少しだけ距離をおき、近衛二人がそのあとを付いて行く。
先々で簡単な挨拶を交わしながら進んで行くと、懐かしい色合いが瞳に飛び込んでくる。
ハーフアップにした美しい波打つ赤毛の後ろ姿に、アレックスは笑顔を浮かべる。
そこに近づいて行けば、彼女の隣に立っている壮年の男がこちらに気がついた。
自ら進み出て、カイルラーンに頭を下げる。
「王太子殿下、本日はようこそおいでくださいました。ご婚約おめでとうございます」
「クロウェル侯爵殿、本日の招待、感謝する。我が婚約者のアレクサンドラ・ローゼンタールだ」
そう言って、カイルラーンは半歩後ろに立っていたアレックスを紹介する。
性別申請による戸籍の変更はアレックスの誕生月である来月だが、既に対外的には王太子の婚約者として周知されたため、それに合わせて名も女性のものへと変えていた。
「初めてお目にかかります、クロウェル侯爵様。殿下からご紹介に預かりました、アレクサンドラ・ローゼンタールでございます。以後お見知りおきくださいますと幸いです」
スカートの裾を持ち上げ、軽く会釈する形の礼を取る。
「ああ、これは噂に違わずお美しくていらっしゃる……。失礼いたしました、エドガー・フォン・クロウェルでございます。こちらこそ、ご記憶くだされば幸いです、未来の王太子妃様」
お手を、と言われて差し出した手袋の甲に、触れるか触れないか程度に軽く口付けるように顎を触れさせて、エドガーはアレックスの手を離した。
宰相という事もあって厳格な空気を漂わせるエドガーだが、白い髭を綺麗に刈り揃えた口元に笑みを乗せれば、同時に目元が柔和な印象になって雰囲気がガラリと変わる。
それでも、隙のないその立ち振る舞いを見ていると、宰相というのも頷ける男だった。
「お久しぶりでございます、カイルラーン殿下、アレックス様」
懐かしいその声に視線を移せば、そこにビビアンが立っている。柔らかく笑んだその深い海色の瞳を見ていると、厳しい印象を抱かせるのはクロウェル家の者には共通したものなのかもしれないと思う。
確か、ビビアンに初めて会った時もエドガーと同じように感じたものだ。
「息災そうで何よりだ、ビビアン嬢」
「ビビアン様、お手紙も差し上げず申し訳ございません」
アレックスの言葉に、ビビアンはふふふ、と笑った。
「お怪我をなさっておいででしたし、お忙しいのは分かっておりますから、気になさらないでくださいませ。それよりも、ぜひあとでお話をお聞かせくださいませね」
扇で口元を覆ったままニコニコと意味ありげに笑っているビビアンの顔が怖い。
話しとはなんの事だろうと思うが、今ここでそれを追求する事はできない。
もうすぐ、主賓として踊らなくてはならないからだ。
ビビアンにまた後ほど、と言い残して、カイルラーンに手を引かれるままダンスホールの中央へと移動する。
向かい合って立つと、見上げたその顔が企むように笑っている。
「馬に乗ってばかりで踊り方を忘れてはいないか? 足を踏んでも構わぬぞ」
「わたくしが失敗するという事は殿下のリードが下手という証拠でございますよ?」
アレックスはそう言って、満面の笑みを浮かべた。
ダンスホールの周囲にいる者たちとは距離があるから内容までは聞こえないだろう。それを良いことに、互いに軽い応酬をする。
手を、と差し出されたそれに自分のそれを重ねれば、時を置かずして弦楽器の生演奏が始まった。
ステップを踏んで大きく回りながら、ホールドされた上半身が厚い胸板に近づくたびに、頭の上からカイルラーンの低い声が降りてくる。
「確かに、お前はサラを上手くリードしていたな。……あの日初めてお前に出会ったのだったな」
「あの日もこうして踊りましたわね……あの時は不満で一杯でございました」
クスリ、とアレックスは初めての夜会を思い出して笑った。なんて横柄でいけ好かない男だろうと思っていたのに、恋に落ちるとは想像すらしていなかった。
「作り笑いも中々楽しめたがな」
「まぁ、ひどい方……」
「すまぬ……あの頃は、婚姻に関して諦めしかなかったのだ。だが、そのお陰でお前に出会えたのだから、それも意味があったのだと今は思える」
過ぎ去ったあの夜と同じように、ホールドした手が腰に降りて、そのまま体が宙に浮く。
軍に身を置いて絞られた身体は、あの頃よりもずっと軽く動いた。
ふわり、と優雅にターンをして、名残惜しく残された手を力強い手が引き寄せる。そのまま腕の中に収まってしまえば、そこは軽く包み込まれる程に広かった。
「殿下が羨ましくてなりませんでした……わたくしも恵まれた体が欲しかった」
「俺はむしろ安心したがな……
そう言っておどけるように片眉を上げた婚約者に吹き出しそうになる。
本気でステップを間違えさせようとしているのではないかと、思わず睨みつける。
「自分が馬鹿になった気がするな……怒っても、泣いても、どんな顔になっても嫌だと思わぬ」
「ふふ……それを、恋、と言うのでございますよ」
「そうか……、そうだな」
そう言ってカイルラーンはいつになく穏やかな表情を浮かべて笑った。
互いに見つめあったまま、一曲を踊り終える。
心を寄せる相手とのダンスは、あっという間に終わるのだと、その時二人は初めて知った。
鳴り止まない拍手を受け、二人は観衆に向かって一礼をする。再びカイルラーンがアレックスの手を引いて、ホールを後にした。
ダンスが終わるとしばらくは王太子と二人で主要な朝臣への挨拶回りをしていたが、それも一段落する頃に、ビビアンとイデアとキティが連れ立って向かって来るのが見えた。
それを認めたカイルラーンが、薄く笑って口を開く。
「アレックス、俺は軍部の連中と会ってくる。お前も女同士の付き合いがあろう?」
「ええ、ではお言葉に甘えて少しだけ」
「ん。ではまた後で」
「はい」
小さくなって行く後ろ姿に、近侍二人の背が重なる。視界から消えたそれを少しだけ残念に思いながら体を前に戻すと、ちょうど三人がやってきた所だった。
「まぁ、お熱うございます事」
ニコニコと笑ってそういったのはイデアだ。
「イデア様……お久しゅうございます。恥ずかしいです」
アレックスはどんな顔をして良いのか分からず、思わず扇を広げて目の下までを覆う。
「悔しい! とうとう殿下にアレックス様を奪われましたわ……」
そう言って可愛らしく扇の下で頬を膨らませているのはキティだ。
「だから、最初から殿下もアレックス様も無理だって言いましたでしょ? キティ」
相変わらず、妹を見るような目でキティをたしなめているのはビビアンだ。
「解ってましたのよ、わたくしだって……でも、もしかしたら何かのアクシデントが起こればわたくしにもチャンスがあるかもって……。そう思っても良いじゃありませんこと?」
アレックスににじり寄り、キティは胸の前で扇を両手で握り締めて言い募る。
「アレックス様、機会があればまた男装姿を見せてくださいませね」
そう言って、自分より長身のアレックスの顔をうっとりと見上げる。
「え……ええ? 男装姿、でございますか?」
「仕方がないんだからキティは……恋に恋するお年頃ですわね。アレックス様みたいな男性くさくない殿方なんてこの世にいなくてよ」
イデアが呆れ顔でそう突っ込んでいる。
「わかりませんわよ、まだどこかにいらっしゃるかも!」
両手を握ってそう力説しているキティに、三人で顔を見合わせて笑う。
広げていた扇を顔から下げて閉じた瞬間だった。何気なく視線を送った先から、こちらに向かって歩いてくる女が見える。
入宮してすぐの頃、後宮から去ったアゼリア・ハイリンガムだった。今日は他の令嬢を引き連れる事もなく一人だ。
どこか別の場所を目指しているのかと最初は思ったが、明らかにここに向かって歩いてくる。
アゼリアは四人の傍までやって来て、相変わらず険を含んだ表情で口を開いた。
「みなさまお久しゅうございます。アレクサンドラ様、ご婚約おめでとうざいます。それから、ビビアン様も」
「ありがとう存じます、アゼリア様。……ビビアン様も?」
アレックスは首を傾げて、ビビアンの方に視線を移す。
ビビアンは苦笑しながら口を開いた。
「アゼリア様はお耳が早くていらっしゃるのですね。わたくしも縁談の話がまとまりそうなのでございます、アレックス様」
「まぁ、それはよろしゅうございますね」
「とんだ茶番でしたわよ」
ふん、と鼻で笑って、不機嫌さを隠さずにアゼリアは先を続ける。
「ビビアン様は入宮前から決まっていらした婚約者様とのご縁談ですのよ? 本来なら後宮に上がる時に白紙に戻す所を、男性側が二年も待っていらっしゃるなんてありえませんわよ。最初から王太子殿下との結婚は考えていらっしゃらなかったのではなくて?」
バサ、と音を立てて扇を広げ、それで口元を覆い隠しながら、ビビアンは妖艶な笑みを浮かべた。
「さあ、それはどうでしょう? ……ご想像にお任せ致しますわ。結果わたくしは王太子殿下に選ばれなかった、それだけの事でございますわ」
「今にして思えば、アレクサンドラ様が王太子妃になった時に必要な人脈を得るのに都合の良い正妃候補ばかり。わたくしたち保守派に属する家から入宮したものは良いカモフラージュでしたわ」
アゼリアはそう言って憤懣やるかたないと言った様子でため息をついたあと、扇で口元を覆った。
「王太子殿下に……いいえ、陛下に利用されたのですわ」
耳目を気にしてか、ここにいる女性だけに聞き取れる程度の声でそう吐きだした。
そして、険のある表情が一瞬で苦笑に変わった。
「それでもまぁ、それがなくたってあなたには勝てませんでしたわ。戦場にまで付いて行って、自分の命を盾にしてまであの方を護ることなんて、わたくしにはできませんもの。せいぜい、他の女性の妬み嫉みを買うがよろしくてよ。あなたが正妃の役目を果たさなければ、側妃を送り込もうと画策する者など山のようにいるのですから」
吐き出すだけ吐き出してスッキリしたのか、清々しい表情をして、ごきげんようと鼻で笑ってから去って行った。
「あの方も素直じゃありませんわねぇ……」
揃ってアゼリアの後ろ姿を見送りながら、イデアが呆れたように呟く。
「仕方がありませんわ、後宮にいた時からわたくしは嫌われていましたし」
そういってアレックスが小首を傾げて肩をすくめると、ビビアンがふふふ、と笑った。
「違いますわよ、あれはわざわざ激励して行ったのでございます。それでも矜持が許さないから、強がりであの最後の言葉が出たのかと」
「そう……なのですか?」
「今まで結婚に消極的でいらした殿下が、後宮の閉鎖期限前にアレックス様をお選びになった。今日殿下のお顔を拝見しても、とても不本意な選択をされたようには思えませんもの……側妃なんてあの殿下が受け入れるようには思えませんわ。それに、公爵家出身の王太子妃に喧嘩を売れる令嬢がいたら見てみたいですわ、わたくし。アゼリア様くらいじゃなくて?」
ビビアンの最後の言葉に、四人は小鳥が囀るように笑いあった。
しばらくそうして、アレックスは久しぶりの女子会を満喫したのだった。
夜会はまだ続いていたが、カイルラーンとアレックスは翌日も仕事があるからと早めに切り上げて帰路を馬車で揺られている。
四人乗車できる馬車は向かい合って座れるようになっているのに、結局帰りも隣り合って座るはめになった。
カイルラーン曰く立場上二人きりになれる機会もほぼなく、喪が開けるまで結婚することもできないのに俺を我慢させて憤死させる気か、という事らしい。わかったようなわからないような理屈だが、それを言われてまんざらでもない気分なのだからまぁ良いか、とアレックスはおとなしく隣に座っている。
「久しぶりに友と語らって楽しかったか?」
「はい、楽しませていただきました」
良かったな、とカイルラーンの手が愛しげに頬を撫でる。
「まだ、きちんと言っていなかったな……」
「何をでしょう?」
アレックスは言葉の意味を測りかね、まじまじと王太子の顔を覗き込む。
「俺は、お前を愛している。これからもその気持ちは変わらぬ自信がある」
まぁ、と呟いて、アレックスは花がほころぶように笑って見せた。
「殿下、わたくしも殿下をお慕いしております。これからもずっと殿下をお慕いしていとうございます。ですから、良き統治者におなり下さいませね」
「それはまたなかなか難しい要求だな。お前の心がずっと俺に向かうようにするには、己を律して国を導いてゆかねばならんという事だな」
「そのためにわたくしが側でお支えするのですよ。わたくしは、宝石もドレスも欲しくありません。公務に必要なものは仕方がございませんけれど。グリギルのように、井戸の側で飢えたまま亡くなる子供や、骨と皮だけの兵や、立ち枯れる麦などないように……どうぞ、豊かな国をわたくしにくださいませ」
見つめた瞳が、政務をしている時のように鋭い光を放った。
「わかった。お前と未来の子に、そして民に……必ず豊かな国をやろう」
「約束いたしましたよ? 約束を破ったらその時は……」
「その時は?」
「寝首を掻かれることをご覚悟なさいませ」
「それは怖いな……お前が言うとシャレにならんな」
愛しい人は、そういって大仰に驚いてみせた。
愛で眼が曇ることがないように、情で罪を赦してしまわないように、怠惰が互いを遠ざけてしまわないように。オリハルコンのナイフがある限り、死ぬときは二人一緒だ。
「殿下が思っているよりもわたくしの愛は重いので、先に謝っておきます」
それは俺のセリフだ、と言ってカイルラーンは笑った。
サラリ、と長い黒髪が頬を撫でた。
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