5・決意

 やはり逃げられなかった、とアレックスは手にした封筒を眺めながら歩く。

 二十歳の誕生日には男性か女性、どちらとして生きていくのかを決めなくてはならない。

 分かっていたのに目を背けていた。苦しい心に蓋をして、あえて見ないようにしていた。女神はそれを許してはくれないようだ。現実は厳しい。

 はぁ、と溜息をついて、目指していた部屋の扉の前に立つ。

 とにかく、蓋をしていた自分の運命は動き出してしまったのだ。

 男として腹をくくれ、と伯父に言われたが、まだそこまでの気概は持てそうにない。

 ならば、いまのこの半端な自分のままで腹をくくるしかない。

 意を決するように、アレックスは部屋の扉を叩いた。

 中からどうぞ、と柔らかな母の声が聞こえる。

 部屋の中に入ると、寝台に身を起こした母の姿が見えた。夕日が差し込む部屋の中は、ほんのりと温かい。

 長年の療養からか、伸ばした髪は艶を失い、薄い色味の金髪は銀に近い色合いに変わってしまっている。華奢で小さな母は、いつまでの少女のようだ。

 潤いのない唇がふわり、と笑んだ。顔色は幾分かいい。オータスが言ったとおり、今日は体調が良いのだろう。それに、ほっとする。

「母上、お加減が良さそうですね」

「アレックス、お兄様からきいたのね」

 はい、と頷いて寝台のそばにある椅子に腰掛ける。

「あなたの気持ちは分かっているわ。ずっとこのままここで死ぬまで暮らしたって、お兄様は何も言わないでしょうに」

 そう言って、マリィツアはアレックスの瞳を覗き込む。愛した夫と同じ、琥珀と藍の混ざり合った、夜明けの空と同じ色をしている。

 本来なら嫁いだ身なのだから婚家にいるべきだが、体の事を考えて、実家であるシノン家の別邸で暮らしている。

 王の命を救った夫には、少なくない額の恩給が支給されている。生活にかかる費用はすべてそこからまかなっているし、先行きが不安なアレックスの為に、浪費を抑えて蓄えてもいる。

 贅沢はできなくても、使用人の数を減らして、ほそぼそとならこの別邸を維持しながら一生暮らしては行けるだろう。

 たとえ家督がヘラルドの嫡男に移っても、こんな田舎の邸を、小銭欲しさに手放そうとは思うまい。

 それでも、きっと我が子はそれを良しとはしない。ローゼンタールの名を持った以上、たとえ母の実家だとしても、寄りかかってなど生きたくないはずだ。母である自分にさえ、迷惑をかけていると思っている。アレックスはそういう子だ。

 呪いをかけた原因は勝手に産んだ母である自分なのに。

 迷子のように不安げな表情を浮かべる我が子の頬に、そっと手を添える。

「でも、あなたはそんな自分が許せないのよね」

 ふふ、とマリィツアは笑う。

「あなたのお父様に出会ってわたくしは変わった。あなたも愛する人と出会ったら、きっと変わって行けるわ。何も心配しなくていいの、大丈夫」

 だってジルとわたくしの子だもの、と愛しげに続けた。

 弾けるような張りのある肌を楽しむようにその頬を撫でてから、マリィツアはサイドボードの呼び鈴を鳴らした。

 しばらくして、彼女付きの侍女のハンナがやってくる。

 先代の時から仕えている者が多いおかげで、別邸の使用人の平均年齢は高めだ。このハンナも、マリィツアの乳母だったと聞く。

 真っ白な髪を後れ毛一つなくキッチリと纏め、糊の効いたお仕着せに身を包んだ小さな老婆はまだかくしゃくとして、坊ちゃまとお嬢様の孫の世話をするまで引退しないと息巻いているという。

 伯爵家の侍女らしくピンと背筋は伸びているが、アレックスの幼少期に比べたらふたまわりほど小さくなった感は否めない。

 否、自分が大きくなったのか、とアレックスは思う。

「ハンナ、あれをアレックスに渡して」

「はい、かしこまりました」

 ハンナは頷いて、室内から続く衣装部屋へと入って行った。どうやらアレックス付きの侍女キミーもやって来たらしい。アレックスの私室側の扉から入ったのだろう、女性らしい高めの声が聞こえた。

 アレックスの部屋は、本来なら邸の主人と対になる夫人の部屋だ。衣装部屋は夫婦で共通となり、そこを挟んで二つの部屋を内側から行き来できるようになっている。

 父はすでにこの世になく、ここを間借りしている母が、実質この家の主人のようなものなので、特別にアレックスがその部屋を使っている。

 邸の持ち主は当主である伯父のヘラルドだが、王都の本邸に住んでいるから滅多にこちらにやってこないし、たまにやって来ても宿泊することはほとんどない。

 嫁いだはずのマリィツアに、日当たりや風通しの条件の良い部屋だからと、伯父の厚意で主人の部屋を親子で使わせてもらっているのだ。

「お持ちしました」

 と、ハンナとキミーの二人がかりで持ってきたものは、真っ白なドレスだった。

 立ち上がって二人に近づく。

「それはね、わたくしがデビューしたときに着たドレスなの……あなたのお父様に出会った日に着ていたものなのよ」

 アレックスはそれを、壊れ物にでも触れるようにこわごわと受け取った。

「あなたのおじい様とおばあ様が、心を込めて用意してくださったとても良い品なの。ハンナとキミーが丁寧に管理してくれていたから、生地も傷んでいない。あなたはわたくしより大きいから、もちろんこのままでは着られないわ。これを解いてあなたの物を作りなさい」

 おいでなさい、と母が自分を手招きする。

 それに従って、ドレスを抱えて母のもとへ行く。

 寝台に垂れ下がったドレスのスカートを愛しげに撫でながら、マリィツアは口を開く。

「ドレスじゃなくても良いの。テイルコートにしても良いし、帽子や手袋にしてもいい。あなたの思うままの物を作って」

「母上……」

「あなたのデビューだというのに、何もしてやれないわたくしを許してね。でも、いつだってわたくしの心はあなたを想っているから……わたくしの心も一緒に連れて行って」

「ありがとうございます、母上」

 ドレスを手にしたまま立ち尽くしたアレックスの夜明けの空の瞳から、一筋の雨がこぼれ落ちた。

 


 母の部屋を辞して自分の部屋に戻ったアレックスは、トルソーに着せられた母のドレスをじっと見つめる。

 椅子の上で小さな子供のように両膝を抱き込んで、その上に頭を載せた。

 仕立て直しをするのは良い。だが、一体なにを作ればいいのだろう。

 茶の用意を手にして部屋に入ってきたキミーが、母のドレスを眺めて顔をほころばせる。

 古い記憶が蘇るのか、キミーは夢見心地にうっとりと口を開く。

「なつかしゅうございますねぇ。

 お嬢様に本当にお似合いで……お仕えする私たち侍女もみな誇らしくって」

「母上はさぞ美しかっただろうな」

「ええ、それはもちろん」

 誇らしげに断言するキミーに微笑む。

 再びドレスを見つめて眉根を寄せる。これを仕立て直してドレスを作っても到底自分に似合うとは思えない。このドレスに関わった人達全ての思い出を汚すような気がした。

「またそんなお顔をなさって」

 元は母の侍女だったキミーが、自分についてくれるようになってもう十年以上になる。長い付き合いだから表情から考えている事が読めるのか、気持ちを悟られてしまったようだ。

「アレックス様はご自分を卑下されますけど、お美しくていらっしゃるのですよ?

 お嬢さま譲りの美しい御髪に、ジレッド様譲りの綺麗な色の瞳。農村出の私なんかとは違って肌もお白くて、シノン家のお血筋を引かれた整ったお顔立ちで。女性になっても男性になっても、わたしたちの自慢でございます」

 言い募るキミーの腕に力が入っている。

 両手をにぎって力説するキミーが少しおかしかった。

「ありがとう、キミー」

 いつもこの侍女は明るくて前向きな言葉をくれる。それが今まで自分の心をどれだけ軽くしてくれただろう。歳の離れた姉のように、アレックスを慈しんでくれる心根が嬉しかった。

「わたしたちシノン家にお仕えする者たちは、いつでもアレックス様の味方ですからね!」

 お茶をどうぞ、と給仕をしてからキミーは部屋を出て行った。

 それを見送って、自分の頬を両手でパンと叩く。

 全てはまだ始まってさえいないのだ。支えてくれる人たちのためにも、胸をはってしゃんとしなくては。

 アレックスは、キミーの淹れてくれた紅茶を口に含んで、ふぅと息を吐きだした。

 よし、と何かを決意したように呟いて頷いた。

「おじいさまにお願いしよう」



 アレックスは翌日、母のドレスを持って馬を駆った。別邸には馬車がない。母も自分もあまり出かける事がないから、維持費を考えて所有してはいないのだ。

 男女どちらになっても生きていけるよう、馬には幼い頃から乗っている。それに王都くらいの距離ならば馬車に揺られるよりも自分で馬を駆った方が速いのだ。

 アレックスの愛馬レグルスは珍しい青毛まっくろの雄で、脚力が強くて俊敏な良い馬だ。ローゼンタールの祖父が十歳の誕生日に贈ってくれたが、これがまた偏屈な馬だった。とにかく気性が激しくて、なかなか心が通わない。一年自分で世話をして何とか鞍を置けるようになったが、そうしたら今度はアレックス以外を乗せたがらない。結局毎日自分で世話をして、雨の日以外は慣らす程度に走らせている。おかげでアレックスの心をよく読んで鞭を入れなくとも走るようになった。偏屈だが良い相棒だ。

 モアレの別邸を出てから二時間余り走って、王国の首都サンスルキトにあるローゼンタールの本邸にたどり着いた。

 門番はアレックスを見ると、何も言わずに門を開いてくれた。

 父が亡くなってから成人するまでの間、こことシノン本邸とモアレを行ったり来たりしていたから、ここは第二の実家のようなものだ。

「ありがとう」

 見知った門番に一声掛けて、敷地内を軽く走らせる。門から玄関までが遠いのだ。

 玄関口まで行くと馬丁のサムが駆け寄ってきた。それを認めて歩を緩める。

 彼は蹄鉄の音を聞けば、主家の馬ならどの馬か見なくても分かるという特技を持っている。

「アレックス様お久しぶりですね!」

 かれこれ半年は来ていなかった気がする。

「ああ、連絡もなく急にすまない」

「なんのなんの。レグルスなら大歓迎でさぁ」

 手綱をサムに預けてレグルスから飛び降りる。ぶるる、と鼻を鳴らしたレグルスのそれを撫でて、黒い瞳を覗き込みながら、小さくおつかれ様と呟く。汗をかいたレグルスの黒い肌が湿っている。馬体から立ち上る靄がうっすらと見えた。

 レグルスの背に載せていたドレスのケースを、サムが下ろしてくれる。

「おじいさまはいらっしゃるかな」

「ベガが出てないんでいらっしゃると思いますよ」

 ベガとは祖父の愛馬である。六十を過ぎてなお頑健な祖父は、いまなお現役で愛馬を駆る。

 そのベガが厩にいるという事は、邸にいるということだ。

「レグルスを頼む」

「お任せください」

 サムとのやり取りを終えると、ちょうど執事長のマルドが玄関扉を開いた所だった。

「アレックス様」

「連絡もなくすまない。おじいさまにお会いできるかな」

「今日は急ぐご予定もございませんのでおそらく大丈夫でございますよ。大旦那様も喜ばれるでしょう」

 そう言って、ドレスのケースを当然のように手に持った。運んでくれるのだ。

「お部屋に運んでおいてよろしいですか?」

「ああ、頼む」

 一年前まで頻繁にこの家を訪れて滞在していたアレックスの為に、客室の一つが半ば専用のように与えられている。その部屋に運んでくれるのだ。

 今日はこれから針子も呼ばなくてはいけない。

「マルド、テーラーベノワドゥのマダムに使いを出してくれる?」

 この優秀なベテラン執事なら、わざわざ店の名前まで出さずとも針子とだけ言えばローゼンタール贔屓の仕立て屋を呼んでくれるが、今回は母のドレスを仕立てたマダムに依頼したかった。

「かしこまりました」

 談話室の前でマルドと分かれる。ここで待っていれば、祖父を呼んできてくれるだろう。

 ソファに腰掛けて、久しぶりに会う祖父を待った。

 座ってすぐに侍女が茶を置いていった。相変わらず仕事が早いな、と感心していると、廊下側から腹に響くような声が聞こえた。

「アレックス! お前ちっとも来ないから心配しとったんだぞ」

 歩みを止めることなく話しかけてくる祖父を見て立ち上がる。

「おじいさま、申し訳ありません」

 その勢いのまま、ガシ、と抱擁される。

 元々騎士団長をしていた祖父は大柄で、アレックスはその腕のなかにすっぽり収まってしまう。引退してなお、その肉体は衰えていないように見える。

「よい。元気にしていたか?」

 腕の中から引き剥がされて、祖父はアレックスの瞳を覗き込んだ。

「はい、ご覧のとおり」

 アレックスはそう返して笑った。

 祖父が反対側の席につくのと同時に、アレックスも腰をかける。

「後宮に上がるらしいな」

「お耳がお早いですね」

 国の中枢から退いてかれこれ十年以上になるのに、祖父の下には様々な情報が飛び込んでくるようだ。

「家ん中騒然としとるわ。お前は美人だが背負った物が大きすぎる」

 祖父は落ち着いてそう言ったが、家内が騒然としているというあたりに、慌てふためく伯父たちの姿が浮かぶ。

 でしょうね、と心の中で呟く。騒然としたのは自分の心だって同じだ。

「それで、アレックスよ……女装して行くのか?」

「その事でおじいさまにお願いが……」

 昨夜一晩考え抜いたことを、アレックスはゆっくりと話し始めた。

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