6・矜持
「やはりマリィツアの子よな……一筋縄ではいかん」
執務室の机の上に置いた一通の書状を眺めながら、現王ディーンは口を開いた。
「そこはジルの子だから、って言うんですよ陛下」
王太子時代からの側近で、一度きりのシノン兄妹との会談にも同席していたルード・ランロッドはそう返す。
ディーンはあの夜を思い出しながら側近の顔を眺めて、この男も老けたな、と胸の内で呟く。
「貴族らしいやり方と言うか何というか、現状誰の目にも見える状態で開かれている駒で一番強い物を指してきましたね」
「だから、そういう指し筋がマリィツアだろうが……ジルはもっと単純だったろうが」
ふむ、とルードは自分の顎ひげをつまみながら撫でる。
書状の送り主はグスタフ・サー・ローゼンタール―――今回正妃候補に上れと半ば強制的にねじ込んだ変則駒、アレクサンドル・ローゼンタールの祖父である。
「どうされるのです? この要求飲みますか」
「飲まざるをえんだろう」
王国騎士団の重職を退いてなお、グスタフは強い影響力を持っている。この先の情勢を考えると、あの老獪な騎士を敵に回すのは得策ではない。
書状に書かれた内容はこうだ。
後宮では女装を強制しないこと。他家の令嬢との交流を強制しないこと。そして―――
「騎士団に孫の席を用意する事……か。またやっかいですねぇ」
正妃候補と言っているのに、よりにもよって男として後宮に乗り込む、と言っているのだ。
「厄介だが仕方があるまいよ。このさい妃でなくともよい、最悪カイルの側近に上げられさえすれば」
「そこまでする価値があるんですかね」
シノン家に対するディーンの執着は相当なものだ。会談で引き込めなかったヘラルドを、禁じ手とも言えるやり口で絡め取った時も同じことを思ったものだ。
「シノン家の紋を知っているか?」
「閉じられた本に月桂樹の冠の印が入っているアレですか?」
「ああ。本は知識を、月桂樹の冠は勝利を意味している。あの家はな、代々軍略家の家系なのだ」
ああ、どおりで盤上遊戯が上手いわけだ、とルードは納得する。
「だがあの家系と来たら、身内に影響が及ばぬ限りその知略を使おうとせぬ」
ジレッドを失った戦争で、一旦は周辺国の鎮圧には成功した。だが、それがいつまで続くのかという懸念があった。
当時のシノン家の当主フリッツは、国政に携わっておきながらその戦争には一切関わろうとしなかった―――先王の盤上から、上手く逃げてしまったのだ。ジレッドの戦死だけは想定外だったようだが。
己の治世の間に、シノン家を手の内に入れておきたかった。だから、国の英雄の寡婦であるマリィツアを子供ごと後宮に入れる、とシノン家を脅したのだ。
それがならぬなら、下賜した領地モアレを取り上げる、と。
普通ならたとえ王家といえどもそこまで強引なやり方で権を振るわない。だが、やろうと思えばやれるだけの権力を持っている。
救済措置として、ヘラルドが国の中枢に入って働くならその話をなかったことにする、と提示した。結局、シノン家は折れた。
ヘラルドは現在、貴族の納税監査院で要職に就いている。金勘定より軍略の方がうまいはずだが、ここ十五年は情勢に目立った動きはなかった。カイルラーンが名代として出て行った戦争も単純な部族鎮圧だったからヘラルドの出る幕はなく、若干持ち腐れの感はあるが、彼のおかげで多くの不正者が捉えられた。本領を発揮せずとも、それだけの能力があるということだ。
「アレックスはな、シノンとローゼンタールが手塩にかけて育てた隠し駒よ。身内でも才能のない者には手ほどきをせぬというグスタフ翁が、隠居後手ずから剣を教えたというのだから、相当な入れ込みようだ」
「それはまたすごいですね」
「シノンはシノンで、他家に嫁いだマリィツアの子であるアレックスを本邸で教育していたらしいからな」
本来教育は嫁ぎ先のみで行うのが一般的である。ましてローゼンタールは公爵家だ。本来なら下位であるシノン家は口を出さぬものだ。
「後の世の平穏とカイルの治世の盤石を願うなら、取りこぼしてはならぬ駒だ」
「それではカイルラーン殿下に頑張っていただかなくてはいけませんね」
「これでカイルが取りこぼすようなら、あれもそれだけの男ということよ」
そう言って、ディーンは目を細めた。
もうひとりの王子サルーンよりも見込みはある、と踏んでいるがどう転ぶのかわからないのが人間だ。
盤上遊戯の行方をじっくり観戦させてもらおう、とディーンは皮肉な笑みを浮かべた。
「惚れられるなら惚れてみろ、と言わんばかりだな。いっそ潔ささえ感じるな」
父の側近のルードが、ローゼンタール家の書状を持って来たのはつい先ほどのこと。
確認し終えたそれをベリタスに手渡す。
その書状に書かれた要求を、父は飲む、と言ったらしい。王である父がそれを是としたならば、自分に否やはない。
「公爵家の影響力で後宮に特例をねじ込んで、他の令嬢の反発を招きませんかね」
「反発を招いた所で本人は毛先ほども気にせんということだろう。端から俺に嫁す気がないんだろうな。それでも父上は手の内に入れたいから要求を飲んだのだろうから、しばらくは候補から外せんな」
厄介だな、とカイルラーンは呟く。
「逆に、あちらも最初から側近候補狙いという事はありませんかね」
「実物を見てみんことには判断できんな」
「アルフレッド殿下主催の夜会に正妃候補は全員参加の命が出ておりますし、そこで人物像は確認できるかと」
王位継承権を放棄した王弟のアルフレッドが主催する夜会に参加することが、正妃候補として後宮に入る条件となる。
なぜなら、未婚者は夜会デビューを経て初めて一人前とみなされるからである。
今回後宮入りを打診されたのは、下は十四歳から上は十八歳の者たち。年齢が低いほどデビューしていない場合が多いため、この期に参加して後宮入りの準備をせよということなのだ。
夜会か、とカイルラーンはげんなりした表情を浮かべる。
もちろん今回は自分の正妃候補が参加する夜会なのだから、欠席することは許されない。
ダンスも一曲は誰かと踊らなくてはならない。正妃候補の中から家格の高い者に申し込むのが妥当な選択肢なのだろうが、気乗りしなかった。
女のご機嫌取りなどごめん被りたい、と大きなため息がこぼれた。
「グスタフ・サー・ローゼンタール公爵並びに御令孫アレクサンドル様ご到着!」
王弟アルフレッド主催の夜会場の入口で高らかに読み上げられた名前に、その日一番のどよめきが波のように押し寄せた。
驚愕と、はばかることのない囁き声と無遠慮な視線。陰口、噂話、嘲笑、それら全てがそこに現れた招待客一人に集中している。
その人物はとにかく異質だった。
黄色味の薄い伸ばした金髪を首元で束ね、長い睫毛に縁どられた夜明けの空を思わせる金藍の瞳が猫のようだ。通った鼻梁に薄い唇。透き通るような肌。化粧もしていないのに女性が嫉妬するような美貌は、現シノン伯爵家当主ヘラルドとどこか共通している。
一般的な女性と比べて身長はやや高く、女性らしい丸みを削ぎ落とした薄い体は雄になりきるまえの青年のようだ。隣にいる祖父グスタフとの視覚対比のおかげか華奢に映る。
ここまでを見ればそれほど奇妙な事はないが、異質なのはその身にまとった衣装だった。
真っ白いテイルコートのテイル部分から、引きずるほどのオーガンジーが続いている。やや細めに絞った
テイルコートとドレスを掛け合わせたようなその有様は、人々の耳目を奪うのに充分すぎるほどだ。
普通ならありえない姿なのに、それはその人物に文句のつけようがないほどに似合っていた。
「アレックスよ、注目の的じゃぞ。さすがわしの孫」
グスタフの言葉に目線だけを投げかけて、控えめに微笑む。
その表情もまた中性的で、見るものに軽い混乱を与える。女性らしいまろやかさや艶やかさはないにも関わらず、繊細で、優美だ。
グスタフとアレックスは、人々のざわめきを置き去りにして、ホールの中へと進んで行った。
人垣は割れ、進めば進むほどざわめきの波は大きくなる。
「あれが噂の奇跡の子か……」
「福音の通り男性のような女性のような……人というよりまるで妖精のようですわね」
「だけど、あれで後宮にあがられるとか」
「まぁ、では女性ですの?」
ざわめきが大きい分、人々の遠慮のない噂話は囁きではなくなっている。そこかしこで聞こえてくるそれは、どれも内容に大差はなかった。とかく貴族社会というものは、くだらぬ話が好きなものだ。
それをいちいち気にしていたのではこの世界では身が保たない。夜会に参加すると決めた時点で想定していたことだから、そんな事で傷ついたりしない。
アレックスは表情を消し去って、祖父の後についていく。
その道すがら、自分に向けられるものとは色合いの違う音を耳にひろう。
聞くつもりもなく拾ったその言葉に、思わず眉根を寄せて足を止めた。
「どうしてあなたみたいな家の者が正妃候補にあがったのかしら、成金男爵のくせに」
壁際の方にいるのだろう。アレックスのそばにある人垣のせいで姿は見えない。だが、若い女が誰かをなじっているのはすぐに分かった。
「どうせお金の力で正妃候補の座も買ったのでしょう?」
先ほどとは別の声だ。
「あなたのような者が殿下のお側に侍る事は許されなくてよ」
これもまた、先の二人とは別の声だ。集団で攻撃するその醜悪さに吐き気がする。
「どうせお相手もいないのでしょう? 壁の花になっていたら、どこかの奇特な方が手を差し伸べてくれるかもしれなくてよ」
きゃはは、と甲高い声が重なった。
「ここはあなたのような者が来るところではないの、正妃候補も辞退なさい」
行きましょう、と一番最初の声が言う。ええ、と二つの声がそれに続いた。
溜飲を下げたのだろう、取り巻きを連れて去って行く気配がした。
少しだけ途切れた人垣の間に視線をやると、そこには白いドレスを着た少女が、青ざめた顔をして項垂れている。今日デビューの少女にはあまりにも酷な洗礼だ。
馬鹿なのか、と心の中でアレックスは吐き捨てる。
正妃候補に送られた書状には王家の
貴族社会は純然たる縦社会だが、それを傘に着て下位の者を貶める行為ほど醜いものはない。
「どうしたアレックス」
アレックスが立ち止まった為にそれと知らず先に行っていたグスタフが引き返してきた。
「いえ、少し進みにくかっただけです。申し訳ありませんおじいさま」
人ごみの中でドレス姿の婦人が進みにくいのはよくあることだ。アレックスの場合トラウザーズで後ろ側だけフリルを引きずっているだけだから、見た目ほど動きにくい訳ではないが、祖父には先ほど耳にしたことを口にしたくなかったからそう言ってごまかした。
「それは気づいてやらずにすまん。ゆっくり行こう」
「はい」
返してその場から歩き始める。
進みながら先ほどの事を反芻する。
相手がいない、と嘲笑われていた。本来夜会デビューする際には、婚約者がエスコートをするのが基本である。婚約者がいない場合には、歳の近い親族に頼んだり、家格の釣り合った相手を探したりしてデビューのダンスまでを終える。一曲踊れて初めて社交界に認められるのだ。
だが、代々貴族の家柄ではなく、家業の実績で成り上がった下位貴族の場合、往々にしてパートナーが見つけられない場合があった。成り上がり貴族は多くないし、その少ない枠の中で相手が見つけられなければ、家名はあるが台所事情の良くない貧窮貴族に謝礼を渡したりして相手を見繕う。だが、家が古ければ古いほど無駄に矜持が高く、成り上がりと差別して請われてもそれを受けないといったことがある。
結局あの少女の親は、つてを使っても相手を見つけることができなかったのだろう。
それを揶揄して嘲笑うその性根で王太子妃になろうとするのならとんだお笑い種だ。
人は誰しも清廉なだけではないが、貴族としての矜持も持たないものが正妃に選ばれるとは到底思えない。もし万が一にもそんな事が起こったら、見る目のない王太子など仕えるに値しない。
自身は正妃に選ばれる気などないし、おそらく王太子もそうだろう。騎士団での立身が叶ったら国の為に働くこともやぶさかではないが、仕えるに値しない主なら、モアレに帰って別の道を探そう、とアレックスは思った。
しばらく進むとダンスホールが見えてきて、その近くの空いた空間でグスタフは止まった。ややうつむき加減の視線を上げると、そこに見知った顔を見つける。
「アレックス、やっと来たな」
そこには、伯父のヘラルドとその妻のシェイラが立っていた。
「はい、伯父上。伯母上はご無沙汰しております」
そう言って頭を下げると、シェイラが笑みを浮かべて言う。
「アレックス、考えたわね。その衣装素敵よ、あなたらしくて素晴らしいわ」
「ありがとうございます。伯母上も相変わらずお美しい」
上手なんだから、とまんざらではない様子で返してくる。
年齢を経てしっとりとした淑女らしい美しさを手に入れた伯母は、昔から綺麗な人だった。アレックスはこの伯母から淑女教育を受けたのだ。普段は優しい伯母だが、先生になると少々怖い。
「今日のお相手はグスタフ様ね、アレックス」
男か女か分からないような自分と踊りたい者など見つかる気がしなかった。親族で歳の近い者に頼んでも良かったが、どうせなら祖父の威光を利用してやろうと思ってグスタフにダンスの相手を頼んだのだ。
不確定要素の多い貴族社会の荒波に漕ぎ出すのだ、使えるものは何でも使ってやると腹をくくった末の選択である。公爵家の先代当主で騎士の称号を持つ祖父を敵に回したい者などそうはいない。この際
今更、それも少々卑屈な気がしている。どうせなら、自分にしかできない事をやってやろう、と心に決めた。
「そう、思っていたのですけどね……おじいさま、せっかくお願いしたのですが、違う方と踊ってもよろしいですか?」
「それは構わんが、そんな相手がおるのか? 知り合いでもおったか?」
「いえ……受けてもらえるかは分かりませんが」
はっきりしないアレックスの言葉に首をかしげながら、それでもグスタフは分かった、と了承してくれた。
もうすぐ主賓のダンスが終わろうとしている。
少女はそれを、半ば諦めたように眺めていた。
父母とともにこの夜会にやってきて、すぐに話しかけられた。どこかの上位貴族の令嬢たちは、親しげに近づいてきてお友達になりましょう、と自分を誘った。
馬鹿だった。それをうっかり信じてしまうなんて。
正妃候補招聘の書状が届いたと父母が舞い上がって告げてきたその時から、ずっと心細かったから、後宮に入る前に友達ができると淡い期待を抱いてしまったのだ。
一緒にお話しましょう、と父母の下から引き離され、ついて行ってこのざまだ。
信じて裏切られるのは辛い。だがもっと辛いのは、あんなにきらびやかに見えたこの世界がこんなにも冷たく醜いものだった事だ。
成金なのはわかっている。自分が王太子妃にふさわしくないことも。
だけど女の子はみんな夢見ている。王子様と恋に落ちることを。それが叶わぬ夢だとしても、夢見る権利は自分だけのものだ。
だが現実は、それを粉々に打ち砕いて行った。浅はかだったのだ。
一人で壁の花になって、次のダンスが終われば父母に帰ろうと言おう。正妃候補辞退の連絡もしてもらおう、と心に決めた時だった。
目の前の人垣が、左右に分かれていくのが見える。
その分かたれた間から、白いテイルコートをまとった貴公子がやってくるのが見えた―――否、男と言えるのだろうか。
少女はその人物の姿を、奇妙な気持ちで眺める。
遠目にはテイルコートだが、近づくほどに引きずるフリルがはっきりと目に飛びこんでくる。
男装とも女装とも言い難く、それを身にまとったその人もまた、男性とも女性とも判別しにくい。驚く程に美しいが中性的で、目の錯覚かと思わずにはいられなかった。
真っ直ぐに自分を目指して歩いてくるその人に見覚えはない。
何かの手違いがあったのか、それともまた罵倒されるのか、と身構えた時だった。
ふわり、とオーガンジーが綺麗に揺れた。ひどく緩慢に流れて行くその光景を呆然と立ち尽くして見つめる。
その人は美しい所作で跪いて口を開いた。
「私と踊っていただけませんか? レディ」
そっと差し出されたその白いてのひらは、美しい外見にそぐわないほどに荒れていた。
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