43・来訪
港町の朝は早い。主従一行は船乗りや漁師相手に商いをしている露店で、朝食と持ち運びに耐える汁気のない昼食を買い求め、昨日と違う復路を通って城へと帰還した。
セーラムとアレックスは近衛の厩舎で残りの二人と別れる。ベリタスは執務室に用があるらしく、城まで無事帰還できれば警護は一人で充分だという。通常の勤務時間からすれば仕事を終えるには早い時間だが、出張明けという事でアレックスは自室へと戻った。
後宮の自室に辿りつくと、部屋は施錠されていた。
就寝時やアレックスが昼間仕事で不在にしている時に施錠してあるのはいつもの事だ。
サラとキミーは自分の割り当ての仕事に行っているのだろう。二人も部屋の鍵を持っているから、いつもならアレックスの帰室時間に合わせて部屋を整えてくれている。今日は何時に帰って来られるかわからなかったから、出掛けにそのように伝えてあった。
アレックスはズボンのポケットから鍵を取り出して部屋を開け、自室に入った。物の出し入れで紛失する事がないよう、鍵はあえて小物入れには仕舞っていなかった。
侍女二人のおかげでいつも部屋の中は心地良い温度に保たれているが、今日は暖炉に火がないせいか少し寒い。
留守中に暖炉の中の灰は掻きだされ、丁寧に掃除がされて、いまはすぐに火が入れられるように薪が組み置かれている。その中心に火種になる揉んだ麻の繊維と古紙を細かく千切ったものが置かれていた。
シノンの別邸でも、掃除したての火入れ前の暖炉はこうだったな、と思い出して懐かしくなる。
マントルピースに置かれた
外套も剣帯も外したかったが、同行の疲れからか億劫で、座ったままぼんやりしてしまう。
馬を駆っての長距離移動など今に始まった事ではないし、王太子の護衛として多少の気は張っていたとは言え、どうも小旅行感の否めない仕事だった。それにも関わらず疲れているなどとは不思議な事もあるものだ。
近頃は事務仕事ばかりしていたから、鈍ってきているのかも知れない。
これは騎士としてまずいな、と何気なく思った時だった。
遠くの方で扉を叩く音が聞こえる。考え事をしていて返事をするタイミングを逃し、早く声を返さなければ、と思考するのと同時に扉の鍵穴が動く音がする。
開いているのに、と怪訝に思ったら、案の定鍵を開けたはずの扉が開かないのを不審に思ったのか向こう側で軽く扉を揺する音がして、再び錠がカシャリと回った。
おかしい、と頭の片隅に浮かぶ。とっさに腰に佩いたままだった剣の柄に手を掛け、開かれて行く扉をじっと凝視する。
鍵を開けて入って来たのは、見知らぬ侍女だった。
アレックスは瞬間的に立ち上がり、そのまま距離を詰めて驚愕したような表情を浮かべる侍女の手首をつかむ。
「あなたは誰だ。なぜ私の部屋の鍵を持っているのか教えてもらおう」
「あ……あの、それは……」
言い淀む侍女―――否、侍女なのかすら怪しい―――に最悪の事態を思い浮かべる。
侍女がお仕着せの上につけていたエプロンを力任せに剥ぎ取り、乱暴に口の中に押し込む。
恐怖と苦悶の表情を浮かべる侍女の瞳に涙がせりあがってくるのが分かったが、手加減してやる事は出来ない。舌を噛んで自決されてはならないのだ。
馬乗りの状態で口からはみ出た余分なエプロンを剣で切り裂き、吐き出す事が出来ないよう切り口を口腔に詰め込む。息が出来ているかを確認して、頭上に回り込んで両脇の下から腕を差し込んで上半身を起こさせる。
なんの訓練もされていない普通の女だった。抵抗する力は弱く、騎士であるアレックスにかかればひとたまりもなかった。
腰に両手を回させて、切り離したエプロンの腰紐を使って女の両手首を縛る。
引きずるように応接セットに連れて行き、ソファに押し込むようにして座らせた。
手にした剣の切っ先を、女の首元にあてがう。茶色い瞳を間近に見据えて、口を開く。
「妙な真似をしたら切るからね?」
女はとめどなくあふれる涙を拭うすべを持たず、顔をぐちゃぐちゃにしながらコクコクと頷いた。
一人で立ち上がって動く事が出来ないよう、女の膝下を挟むようにピッチリと机を寄せ、寝台に駆け寄って傍に垂れ下がった紐を引いた。
夜中でも何かあれば人が来る事ができるよう、女官長室につながっている呼び鈴が鳴るようになっていた。
すぐに応接セットへと取って返し、再び女に剣を向けたまま人を待った。
しばらくすると、再び外側から誰かが扉を叩く音がする。
「ナタリーでございます。アレクサンドル様、意識はおありですか」
部屋専属の侍女がいるにも関わらず、女官長室の呼び鈴を鳴らす事など急な病を疑って当然だった。
「意識はあるよ。侍女は不在だ。手が離せないから入って来てくれる?」
「かしこまりました。失礼いたします」
ナタリーは部屋に足を踏み入れた瞬間、視線の先にあり得ない光景を見つけて息を飲んだ。
センターテーブルの上に片膝をついた状態で、剣を侍女に向けるアレックスがそこにいた。
「ナタリー夫人、この女は私の部屋の鍵を持っている。不在を狙って許可なく私の部屋に侵入してきたのを、この部屋の主である私の権限で捕えた。目的が分からなかったので少々手荒な真似をしたが、傷は付けていない」
アレックスが視線も剣も外す事無く淡々と状況説明をする間に、ナタリーはセンターテーブルの前まで近づいて来て立ち止まった。
女の顔に冷たい視線を向け、口を開く。
「かしこまりました。ミア、自決したら家族の首が飛ぶと思いなさい」
再び、ミアと呼ばれた女はコクコクと頷いた。
「アレクサンドル様、この件、わたくしにお任せ下さいますか?」
「後宮の責任者はあなただ。それで構わないよ」
ナタリーの言葉にアレックスが了承すると、彼女はミアを連れて部屋を出て行った。
せっかく土産を買って帰って来る事が出来たのに、旅の終わりにこんな出来事が待っているなどと、興が削がれて台無しの気分だった。
ミアを歩かせるために開かれたテーブルの上に腰を下ろし、アレックスは大きなため息をついた。
カイルラーンとベリタスはシルバルド師団の厩舎にアルファルドを返しに行き、世話をトマスに任せてから師団事務所を訪れていた。
多忙を極める王太子が師団事務所に顔を出すのはまれで、事務所内で仕事をしていた士官に緊張した空気が走った。
王太子はそれを気にも留めず、師団長室へとまっすぐ足を向けて扉を叩いた。
内側から、ソルマーレの返事が聞こえる。
「俺だ、入るぞ」
返答を待たず、部屋の扉を開ける。
執務机に向かって書き物をするソルマーレと、その傍らに副官のルカ・ユーゲントが立っているのが見えた。
扉が閉まったのと同時に、ソルマーレは口を開く。
「殿下、珍しいですね。何かありましたか」
「ちょっと聞きたい事があってな……ロル・マーレイを呼べるか」
王太子の言葉に、ソルマーレは傍らのルカを見上げて目配せをした。それに頷いて、呼んでまいります、と言い残して彼は部屋を出て行った。
しばらくしてルカがロルを連れて戻ると、カイルラーンはロルを応接セットの椅子に座らせ、自分もその前に腰を下ろす。
いつものように、王太子の背後にベリタスが付き、ソルマーレは閉まった扉の執務室側に立った。ルカは部屋を出て、ソルマーレと扉を挟む形で立つ―――これが王族の警護の基本の形だ。外側から、うっかりでも扉を開けられるような事があってはならないのだ。
本来ロルの階級では、師団長であるとはいえカイルラーンと直接話をする機会はない。
緊張で、真新しい隊服を纏った腿の上に置いた手のひらが汗ばむ。
「そう緊張するな。賞罰などではない」
「はあ……」
年度初めに配属された上等兵の訓練で演習場に出ていたロルは、いきなりユーゲント中佐に師団長室に来いと言われて、自分が何かやってしまったのではと身構えていた。
王太子の口ぶりから何かを咎められる事はないと分かったが、それでも不信感は拭えない。緊張した面持ちで目の前の王太子を見ると、思いがけず鋭い視線とかち合って気まずい。王太子の表情は穏やかだが、蛇に睨まれた蛙のように身じろぎすら出来ないでいた。
「アレクサンドル・ローゼンタール……あれをお前はどう思う」
「ローゼンタール少佐……ですか」
唐突に問われたその内容に、ロルの思考は混乱を極める。
ロルにとってアレックスは上官になる。それでも、同期であり、目指すべき目標であり、そして勝手に友だと思っている。アレックスにも自分を友だと思ってもらえていたら嬉しいが、あまりにも身分に差がありすぎるからその望みは薄いだろう。
だが、アレックスは同時にこの目の前の王太子の正妃候補でもある。自分がアレックスに気があるのか問われているのだろうかと思ったが、なんだかそれも釈然としない。
結局、包み隠さず言うしかないのだろうな、と思って口を開いた。
「性別を越えて、人間としての魅力に溢れた人、でしょうか。……自分より年下ですが、純粋に尊敬しています。この人について行きたい、肩を並べたい、一緒にいればもっと面白い世界を見せてもらえるのではないか、と思わせてくれる人ですね」
「ほう……では、お前はアレックスの敵に回る事はない、という事だな」
「そうですね、あの人の信頼を損なうような真似はしたくないですから」
なるほど、と王太子は呟いて少しの間沈黙した。
時間にすればわずかだが、その沈黙がロルには怖い。いたたまれず、王太子の顔を直視することができない。
「違う質問をしよう。……身内のお前から見て、マーレイ造船をどう思う」
「自分の家ですか……」
予想外の質問に、ロルは王太子の真意を測りたくて再び飲まれそうになる金色の瞳を直視した。だが、瞳の奥は混沌として、質問の意図を窺い知る事は出来なかった。
「正直な所、商いは上手ではありませんね……おそらくやり方を変えればもっと大きな商いも出来るのだと思います。けれど、うちはずっと初代からの教えを守っていますから、利益よりも技術の活用と継承が優先で、実直な仕事をしていると思います。親父なんか特に造船技師らしいと言うか……まぁ、職人気質で偏屈です。だからうちは丁寧な仕事だけが取り柄ですかね」
実家の事を王太子に説明するのは酷く気恥かしかった。
叙爵されて国との取引が直接出来るようになった今、もっと良い所を強調すべきだったのかもしれないが、不思議とそれをする気にはなれなかった。なぜなら、親父の口癖が「良い仕事をすれば何を言わずともそれがうちの評判に繋がる」だからだ。
思考を巡らせるように耳を傾けていた王太子は、ロルの言葉が終ると同時に頷いた。
「……わかった。秘密裏にマーレイ男爵と連絡を取りたい。明日以降にソルマーレ経由でお前に俺からの書状を渡すから、実家に手紙を送る体裁でそれを同封するか、もしくは手渡しでもいい……確実に届けよ」
「お急ぎでしょうか」
「そうだな……出来る限りで構わぬが早い方が良い」
「明後日が休みです。たまには実家に顔を出してきます」
士官候補生に上がって師団の寮に住むようになってから、帰省するのが面倒になっていた。自分の馬も買った事だし、出世した姿を見てもらうのも悪くないだろう、とロルは思った。
女官長がミアを連れて部屋を出て行ってすぐ、サラが部屋に戻って来た。
おそらくナタリーが伝えてくれたのだろう。
「お帰りなさいませ、アレックス様。大変でございましたね」
「ただいまサラ。ちょっと驚いたね」
そう言って、アレックスは苦笑した。
「火を入れて下さったんですね……まだお寒うございますか? 寒くなければ外套をお預かりします」
アレックスはうん、と頷いて、外套を脱いでサラに手渡す。同時に剣帯を外すと、同じベルトに通していた小物入れが重みで垂れ下がった。
中に入った土産の事を思い出し、小物入れを取り外してから剣をサラに手渡した。
外套を衣装部屋に、剣はいつものように寝台の傍のローテーブルにサラが持っていく。その間に、キミーもトレイを手に部屋に戻って来た。トレイには、大小の包みが載っている。
「お帰りなさいませ、アレックス様。贈り物が届いておりますよ」
「ただいま、キミー。ありがとう、後で確認するよ。それよりも、サラとキミーに土産を渡したいんだ」
そう言うと、二人の侍女は顔を見合わせて笑い合った。
「まぁ、それはありがとうございます」
「ありがとうございます、嬉しいです」
アレックスは小物入れから土産の小瓶を取り出して、それぞれの手に一つずつ渡した。
「まぁ、かわいらしい」
「わたし星型の砂なんて初めて見ました……大事にします!」
「気に入ってもらえたみたいで良かった」
二人の喜ぶ姿を見て、アレックスは満足気に笑った。
お風呂の準備をしてきますね、とサラが化粧室に向かったのを機に、アレックスはセンターテーブルの上に置かれた贈り物を確認する。
まずは母からの手紙を手に取る。キミーが気を利かせて持ってきてくれたペーパーナイフを使って封を切る。
内容を確認すると、騎士だった父と結婚した母らしい内容が綴られていた。
時節の挨拶と昇進と誕生祝いの言葉が並び、その後に品物がない事を詫びる一文が続く。そして、近衛に上がった事を機に、アレックスの為に蓄えていた資産を個人資産として書き換えると記されていた。騎士は持ち出しが多いから、お金はいくらあっても困らないでしょう、と。
騎士の身分は近衛に上がった時点で準男爵扱いとなる。もちろん正式な叙爵ではないから所領などを持つ事は出来ないが、貴族名鑑に主家から独立した系譜を記す事が出来るようになるのだ。もちろん貴族社会の生まれの絆は濃いから、血縁関係と疎遠になる訳ではない。
独自系譜を持つ事が出来ると言う事は、十七歳成人とは別の意味で独立した一個人としての大人とみなされ、基本的には主家の許可なく自分の意思で婚姻を決める事が出来るようになる。
「ありがとうございます、母上」
手紙に額を埋め、かの地の母に礼をするように瞳を閉じた。
とりあえずフリューテッドの支払いは割賦にしなくても良さそうだ、と思い浮かべ、それと同時に現金な自分に苦笑する。
便箋を丁寧に折りたたんで封筒に収め直し、トレイの端に置いて贈り物を手に取る。なんとなく目についた長細い箱を選ぶと、それはシノンの本家―――伯母シェイラからだった。カードには誕生日と近衛昇進の祝いの言葉に続いて、次は人に借りず自分の物を持って行きなさい、と記されていた。
何の事だろう、と首をかしげながら包みを開けると、そこには一本の扇が収められていた。
あの夜の一件は想定外の出来事で、マデリーンの扇を借りた事をからかわれているのだと分かって「ははは」と乾いた笑いが漏れる。
私も事前に分かっていたら自前で用意しましたよ伯母上、と腹の中で言い返すが、どちらにせよ扇は持っていなかったな、と改めて自覚する。
手にとって広げてみると、ごく薄い紫の単色に同色のレースの装飾の施された扇だった。比較的どの衣装にも合わせやすく、落ち着いた色見は季節を問わず身につける事が出来る。
式服を着て参加したというのに扇を持つ事になったのだから、本当に夜会は何があるか分からない。伯母の贈り物をありがたく受け取っておくことにする。
最後に残った箱は伯父ビクトールからだろう。だが、誕生日おめでとう、とだけ記された字はどう見ても伯父の字ではない。よく見知ったその字はグスタフのものだ。
珍しいな、とカードを置いて本体である包みを開ける。中には、小ぶりのナイフが入っていた。
既視感に、ドクリ、と心音が跳ね上がる。
鞘からナイフを引き抜くと、刀身には赤銅と黄金が混じり合った斑紋が浮かんでいる―――オリハルコンだ。
産出量が極めて少ないこの金属で剣を一振打てば、それなりの爵位持ちでも家が傾くと言われている程高価なものだ。
かつて公爵家の当主で騎士団長をしていた祖父でも、現役中にオリハルコンの剣を手にする事は出来なかった。
狩りをした後血抜きをした獣を捌くのにグスタフが使っていたそのナイフを、羨望の眼差しで見つめていたものだ。
美しく、堅いのにしなやかで、刃に血糊が載っても一振りすれば弾かれて落ち、切れ味が鈍らない。
まだ無邪気だった子供時代、その価値も分からず「お爺様、大きくなったら私に下さいね」などと無茶な要求をしていたものだ。
当時グスタフが使っていた物とは柄のしつらえが違うから、おそらくこれは自分の為に求められた物だろう。
あの頃の事を覚えていてくれたのだ、と懐かしさと共に嬉しさがこみ上げた。
今の自分には過ぎた価値の物だが、祖父の心意気に感謝して、その持ち主としてふさわしくあるよう努力しよう、とアレックスは思った。
「ありがとうございます、お爺様」
※オリハルコン/古代ギリシャ語の文献に出てくる銅系の合金と考えられた金属。作中ではそれをモチーフに『別物』として存在している。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます