42・慰労
デリュートス・フォン・ヤンセンとの会談を終え、客間から出てきた王太子の後ろについて城を出る。
本来なら城の主であるデリュートスが玄関口まで見送るのがマナーだが、あの禿げ頭が追ってくる気配は全くなかった。
それが礼を失している事をわかっている家令が慌てて玄関口まで出てきて、年甲斐もなく泣きそうな表情で首振り人形のように頭を下げながら主人の非礼を詫びている。
会談で何かあったのだろうという事はわかるが、前を行く主従三人は冷たい表情を浮かべたままだ。
主人の失態を補うのは使用人の役目とはいえ、それにこの男を巻き込むのはあまりにも非情と言えよう。
アレックスは自分に許される範囲で最大限の気遣いをする事にした。
状況を鑑みて笑いかける事は出来ないのだろうから、いつものように表情を無くして声をかける。
「急に罷り越した非礼に、丁重な対応をしていただき感謝いたします。家人の方々に非はありませんので、お気に召されませぬよう。それでは私たちはこれにて」
家令は言葉を掛けたアレックスの顔を見つめ、感極まったように頭を下げた。
「過分なお心遣いを賜り、主人になりかわりましてお礼申し上げます」
王太子直属の近侍といえども、三人の中での序列はやはりある。序列が上がるほど言葉の重みは増すから、第三近侍のアレックスの言葉に王太子の心遣いは乗らない。
その程度の気遣いでしかなかった訳だが、こんなにも重く受け取られてしまうと、この城の使用人の扱いが見えるような気がして内心で溜息を吐く。
主の品格は使用人にも現われる。訪問時の対応でもわかるように、あの城主にもかかわらずこの使用人であるのなら、先代の伯爵がよほど出来た人物だったのだろう。
人格と手腕は血統では引き継がれない、という見本を見たような気がした。
繋ぎもせず放置していった一行の愛馬達は、欠けることなくそこに並んでいた。
見送る家令に背を向けて、レグルスの
よく聞き知ったその音に、全身の毛孔から汗が噴き出るような気がして振り返ると、美しく掃き清められた石畳の上に、愛馬の出来たての粗相が鎮座していた。
何食わぬように、二度ほどその上に追加され、アレックスは反射的に愛馬の顔に視線を向ける。だが、前を向いているレグルスの表情は、胴側からはうかがい知る事は出来なかった。
さすがにこれは詫びておかなくては、とアレックスは家令を振り返った。
「私の馬が大変失礼いたしました。躾ができていないばかりに申し訳ありません」
「いえ、動物のすることですからあなた様のせいではございません。お気になさらずご出立下さい」
そう言った家令の顔に含みのなさそうな笑顔が浮かんでいてホッとする。
「お手数をお掛けします。それでは」
レグルスの粗相に対する謝意で頭を下げ、アレックスは今度こそ鐙に足を掛けてその背に飛び乗った。
先に騎乗していた三人がそれを確認して、それぞれが馬の腹を蹴る。
領主の館は敷地を出るまで距離があるのが一般的だ。しばらくそれぞれが押し黙ったように馬を走らせていたが、門扉を抜けて市街地へ抜ける道に入った所で王太子が馬の歩を緩めた。心なしかその肩が震えている。
「ぶっ……ははは、あれは良かったな。傑作だ」
こらえる事ができないとばかりに吹き出した王太子の言葉に釣られるように、ベリタスとセーラムも腹を抱えて笑っている。
「さすがはお前の馬だアレックス。主同様
主の言葉に、アレックスは顔を赤らめる。粗相をするのが
「私は恥ずかしくて平常心を保つのに必死でしたよ……」
はぁ、と溜息を吐き出して、相棒の黒いたてがみを軽く引っ張る。
「お前ね、仔馬じゃないんだからあれは無いよ。次やったらおやつ抜きだからね」
馬のおやつは嗜好品だから与えなくても差しさわりのないものだ。だが、アレックスは甘いものが好きなレグルスにキャロやポム、砂糖などをたまに与えている。
アレックスの言葉にレグルスは顔を後ろに向け、不満そうにブルルと鼻を鳴らした。
そんな飼い主と黒馬の様子を、他の三人は穏やかな笑みを浮かべて眺めていた。
男は貴人一行を見送って深々と下げていた頭を上げた。
目の前には、驚くほど美形の従者が乗って来た駒の粗相が残されている。
金色の髪の小柄な青年は、馬の主として粗相を詫びて去って行った。本来なら詫びる必要などない身分であるにも関わらずだ。
従者からして違うな、と男は心の中で思う。
一月の中頃、一通の書状が届いた。国の農務部から、領地の租税に関する公文書の体裁で届いたその封筒の中に、王弟アルフレッドからの手紙が入っていた。
主がそれを確認すると、指定された日の夜、人目を忍んで城に来ると記されていた。
今日のようにその会談に立ち会う事は許されなかったが、主と王弟が何か良からぬ算段をしていたのは主の様子からわかっていた。
先代の時から従僕として仕えて三十年以上になる。
病床にあった先代から「あれは思慮の浅い所があるゆえ心配だ、よく支えてやってくれ」と直々に託り、それを励みに今まで主を支えてきた。先代には、孤児だった自分を拾って育ててもらった恩があったからだ。
宵の口を過ぎ、市街地に抜ける道に行き交う者も居なくなった頃、アルフレッドは馬車に乗ってやってきた。
王侯貴族ならば当たり前の事だが、序列に厳しく、男の前ではついぞ従者しか口を開く事はなかった。
その従者も御者も物言いは丁寧だが、使用人を見下したような嫌な視線を向け、いかにも支配階級といった雰囲気を崩さなかった。公爵家の使用人だからそれなりの家の出なのかもしれないが、所詮は同じ
もちろん今日のように家人への気遣いなどはなく、まして馬の粗相などさも当然といった様子で気にも留めていなかった。
生き物である以上馬が排泄するのは当たり前の事で、人ではないから割とどこででも粗相をするのが馬という生き物だ。
例にもれず公爵家の馬も主を待つ間に粗相をして、それを片づけたのはもちろんヤンセン家の馬丁だった。仕事だから馬丁は嫌な顔一つせずに片づけたが、それに対して御者から礼の一言もなかったと使用人室で漏らしていたのを聞いている。
貴族社会において序列は絶対で、だからこそピクリとも崩れない貴人の無表情は王弟とはまた別の怖さがあった。
未来の王として一歩も媚びる事のない姿ではあったが、過日の王弟との悪巧みが露見したのだろうと泡を食った自分の対応を咎めるでもなく、終始静かな物言いのまま一行は去って行った。
王太子には君臨する者としての風格があり、その従者はそれぞれに分別があり所作が洗練されていて隙がなかった。主が何を指示せずとも、意図をくみ取り黙って動く。
王太子直属の側近なのだからもちろん精鋭中の精鋭で、おまけに容姿も整っている上に品格も持ち合わせている。主である王太子が冷淡な対応をしているのだから、侍従ならば同様の対応をするのは当たり前の事だが、それでもその対応に王弟との格の違いを見たような気がしている。
おそらく主の悪巧みは露見したのだろうな、と、男は確信に近い予感がしていた。
虚無感に襲われながら、家令は馬丁を呼ばなくては、と呟いた。
ひとしきり笑い合ったあと、再び市街地へ続く下り坂をゆっくりと進んでいく。
「さて、ついでの要件も片付いた事であるし、この旅の目的でもある視察に行くとしよう」
おもむろにそう言いだした主の言葉に、近侍三人は怪訝な表情を浮かべた。視察と称してヤンセン伯爵に会いに来たのが目的ではなかったのか、と。
「視察って、私たちは何もうかがっておりませんが……」
迷惑そうな表情をして王太子にそう返すベリタスを後背から見つめながら、アレックスも内心で頷く。
ベリタスという先輩は面白い男で、他に人が居ない場所ではこうして本心を隠さない。
第一近侍ゆえ幼年期の王太子の教育係として重用されているはずだから付き合いも長く、年の離れた弟のような感覚なのかもしれないが、それにしても遠慮がない。
執務室でのやり取りをみていると、ベリタスの立場が心配になるほどだ。王太子への対応については、人の心配をする前に自分を心配しなければならないのかもしれないが。
「セイレーンの入江に行こうと思ってな」
「ああ、そういう事ですか。なるほど」
自分以外の者は納得したような表情をしているが、アレックスには何の事なのか思いつかない。
それでも、自分よりも経験値の高い年長者が頷いているのだから、視察目的に適った場所なのだろう。
黙ってついて行こう、と思った瞬間、ベリタスの声が掛った。
「入江は慣れない者には足場の悪い場所です。アレックスは前に出なさい……私が後ろに行きます」
「承知しました」
アレックスは頷いて、レグルスを前に行かせる。王太子と並走する形に並ぶと、同時に立ち止まって行き過ぎるのを待っていたベリタスが後ろに追い付いて来た。
徐行から駆け足程度に速度を上げ、人混みを避けるために市街地の手前から枝道に入る。湾内に沿うようにぐるりと周り込み、しばらく走って小さな入り江に辿りついた。
そこには、岩礁が海に向かって伸びており、同時に白い砂浜が地平線へ向かって続いていた。
透き通るように大気の青を溶かしこみ、海と空は混じり合う。そこに白い一筋の砂浜が伸びて行く。海鳥が悠然と羽ばたき、陽光が水面を弾いて煌めいている。
至極美しい光景に、アレックスは仕事を忘れて立ちつくした。
「行くぞ」
傍らで歩を止めていた王太子に声を掛けられ、アレックスは我に返って脚を進めた。
ベリタスは穏やかな笑顔で王太子とアレックスを眺める。本来ならぴったりとつき従って行くが、男はしばらくそこを動かなかった。
隣で同じように二人の後ろ姿を眺めるセーラムに、前を向いたまま声をかける。
「あなたには辛いでしょうが、我慢して下さい」
ベリタスの言葉に、セーラムは普段は崩す事のない顔に驚いたような表情を浮かべた。
知っていたのですか、と漏らしそうになったそれを、とっさに飲み込む。
王太子の教育係として十年は仕えている男だ。あの主に己の気持ちを悟られていたのだから、ベリタスには筒抜けだろう。
くすり、と小さく笑う息使いが聞こえた。
「応援してやれない代わりに、愚痴ならきいてあげます。ついでにエールの一杯でもおごってあげましょう」
行きますよ、と呟いた先輩の言葉に従って、馬の腹を軽く蹴る。
海と空の狭間に吸い込まれるように駆けて行く二人の後ろ姿は、芸術に疎いセーラムの目に、酷く美しく映った。
王都と比べて温暖なのか、午後の海風はぬるくてさほど寒さを感じない。潮風独特の匂いを吸い込みながら、アレックスは思考する。
港湾関連の治水事業に関する視察だろうか、それともこの入江を観光産業の目玉にするのだろうか、あるいは……、などと取り留めもない。
白くて細い砂浜は、馬二頭を並走させる程度の幅しかない。うっかり海に入り込んでしまわないように気を遣いながら徐行する。
ふ、と主独特の笑い声が聞こえた気がした。
「ここは干潮時にしか来られない場所でな……気に入ったか?」
傍らで愛馬を並走させているカイルラーンが、穏やかな笑みを浮かべて問いかけてくる。
「え……?」
「明日はお前の誕生日だろう」
そう言って、王太子は馬の歩みを止める。
怪訝に思って同じように立ち止まると、視線の先の砂浜は途切れて海の中に消えていた。
「あ……はい、そうです」
「一枚の絵をやろう……この一瞬をそなたに」
気がつけば、入江に夕日が落ちようとしている。
アクアマリンの海、ターコイズの空、ハウライトの砂浜、そして―――
「職権乱用、ですね」
「部下の慰労を兼ねた視察だから問題はないな」
ふてぶてしくそう言ってのける王太子に、アレックスは吹き出した。
「ぷっ……はは。でも、ありがとうございます」
「執務室に籠ってばかりでは気が滅入る。たまには悪くなかろうよ」
何も欲しくない、と王太子には伝えた。それなのに、こんな贈り物をもらえるとは思ってもみなかった。
様々な事を無視して、今は純粋にこの贈り物が嬉しい。
「はい、とても綺麗です」
そう言って、アレックスは笑った。
カイルラーンはアレックスのその笑顔に虚を衝かれる。なんの飾りも気負いもなく笑うアレックスの表情に、胸の内が絞られるような気がした。
―――ああ、やはりそなたが愛おしい。
一行は市街地で厩のある宿に入った。宿にも格というものがあるが、下手に高級すぎる宿に入ってしまっては服装が宿にそぐわない。
簡素な装いとは言え、服の素材と馬をみれば平民でないのは丸わかりのため、格でいえばそれなりの宿に泊まる事になった。主に下級貴族や役人が旅の途中で逗留するような宿だ。
本来なら部屋を二つとって、アレックスだけで一部屋を使うべきなのかもしれないが、今は近侍として職務中である。夜は三人交代で不寝番をするのだし、頭数が多い方が、休息時間が増えて楽というものだ。
当初より一泊の予定だったので、馬から下ろす荷はない。もちろん風呂にも入らないから、城に帰るまでは着の身着のままだ。
人間はそれでも構わないが、馬の方はそうは行かない。宿に頼んで井戸を使わせてもらい、砂浜を走った馬の脚を洗う。気休めにしか過ぎないが、潮を被ったまま放置するよりは蹄鉄のためにも良いだろう。
広めの部屋をおさえ、馬を宿に預けて一行は夕日で赤く染まった街へと繰り出した。
貿易港を持つ商業都市だけあって、街中はこんな時間でも人でにぎわっている。
「海辺に来たのだから魚が食べたいな」
前を行く王太子が呟いている。
流通は比較的盛んで拓けているとはいえ、王都は内陸に位置しているから、魚介類は鮮度の関係上ほとんど食卓には並ばない。後宮の調理場がたまに供するものも、川魚か、あるいは燻製にされたものばかりだった。
「そうですね、産直の魚は絶品ですから」
ベリタスが主の言葉にそう返す。
おそらく王太子とベリタスは二人揃って新鮮な海の魚を食べた事があるのだろう。
アレックスも魚は嫌いではないが、ほとんど川魚しか食べた事はなかった。
各地の産業や農業を勉強していても、それはあくまで本の中に記された事でしかない。海の魚の味はほとんどわからないし、セイレーンの入江の存在は全く知らなかった。知識として知っていても、経験には敵わないのだと実感する。
ベリタスが宿で味に定評のある店を聞いたとかで、その店の方に向かって歩いていると、道の途中で露店が並ぶ一角が見えてくる。
状況が許すならサラとキミーに土産の一つでも買いたいと、多少の小銭は持ってきていた。
通り過ぎてゆく露店を、ついつい目で追ってしまう。
そんな様子を見られていたようで、不意に前を行く主の声が聞こえた。
「ゆっくり見ていいぞ。どうせあとは食事をするだけだ」
視線を上げると、そこにはニヤニヤと意味ありげに笑う主の顔がある。アレックスは我に返って直立した。
王太子を警護する身でありながら、土産に気を取られていた自分が情けない。
しおしおと肩を落としたアレックスに、まぁまぁ、とベリタスの声が掛る。
「仕事中ではありますが、今日は慰労を兼ねた視察らしいので特別に良い事に致しましょう。私たちが気を張っていますから、あなたはゆっくり買い物をしなさい」
アレックスは頼もしい先輩の言葉に破顔し、それに甘えて露店で土産を選ぶ事にした。
数軒の露店を見て回り、迷った末にアレックスは小さな小瓶に入った星型の砂を二つ買い求める。中には小さな巻貝や桃色の平貝、それに鮮やかな色彩の施された魚の木彫り細工が入っていた。
提示された金額を渡し、受け取ったそれを剣帯に付けた小物入れに、財布と一緒に押し込む。
吊った剣が目立たないよう、剣とは反対側に小物入れが付いている。一年前に伯父が贈ってくれた剣帯は、この取り外し可能な小物入れが付いているのが良い。訓練状況に応じて、野戦食や地図が収納出来て重宝するのだ。
今日は父の時計と簡易火打石と財布、それに今追加された土産が入っていた。
露店から離れた場所で待ってくれていた三人の元に戻ると「もういいのか?」と王太子が聞いてくる。
「はい、お待たせしました」
土産が買えた事に満足して、アレックスは満面の笑みでそう返した。
アレックスのその様子に、何故か、男三人が肩を震わせて笑いだす。声を出すのはこらえているようだ。
首を傾げて理由を問うが、店に向かう間にも三者三様にはぐらかされる。
チップを弾んで店の奥の方の目立たない席を確保し、鱸の白ワイン煮や、手長海老の赤い炒め煮、鱈のペーストを薄切りの白パンに載せたもの、珍しい野菜の煮込みなどを注文する。貝は毒にあたるといけないとかで、ベリタスは注文しなかった。
店に不信感を抱かせないようワインも注文するが、酒は判断力が鈍るといけないので、近侍三人は飲まない。
王太子はデキャンタで注文した冷えた白ワインを飲むふりをして食事の開始を遅らせながら、他人に聞かれても差し支えのない雑談をする三人の様子に穏やかな表情を浮かべていた。
問題なく食事を終え、ベリタスが支払いをして店を出た。
結局、宿に戻っても、三人が笑った理由をアレックスは教えてもらう事が出来なかった。
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