41・生贄
アレックスがカイルラーンの近侍として王太子執務室に出勤するようになって一週間が過ぎた。初日こそセーラムとも顔を合わせたが、簡単な挨拶を交わしたきりゆっくりと会話するには至っていない。というのも、何やら別の仕事があるらしく、顔を合わせた日以降彼の姿を見ていなかった。
セーラムと横並びの事務机を与えられたアレックスは、そこで仕事を覚えながらベリタスの補助的な業務に勤しんでいる。
近侍として仕えてみてわかったが、王太子はかなりの量の仕事を抱えている。武人としてのイメージが強いが、ほぼ執務室にこもったまま膨大な量の書類に追われている状態だった。
昨年の収穫量から算定した各領の租税割合の報告書や、治水関連の行程表と概算請求、国内外の流通状況や軍の年間訓練の概要、その他多岐に渡る書類の確認だけでも相当な時間を費やす。その上後宮の維持に加えて自身の鍛錬まで行っていれば時間はいくらあっても足りないだろう。有能な部下に仕事を押し付けて気ままに遊び暮らす貴族も多いというのに、カイルラーンが国を統べる者としての自覚と責任を持っているのが分かって、彼を見直すに至った。思っていた以上にカイルラーンは出来る主だった、というのがアレックスのここ一週間の感想である。
新米のアレックスにも処理できる書類にペンを入れ、それを筒状に丸めて封をする。
書類の重要性に違いはあれど、シルバルド師団で佐官から預かっていた仕事とやる事はほとんど変わらない。慣れた手つきでアレックスは朝から処理した書類の山に、出来たばかりのそれを積んだ。
午前中に関係部署に届ける必要のあるものばかりを優先していたから、正午までにそれを届けておかなくてはならない。
執務机に置いた懐中時計の針はちょうど十一時を指していた。
アレックスは処理済みの書類の入った箱を手に立ち上がった。
「私は各部署に行って参ります。ベルさん、一緒に持って行くものがあったら下さい」
第一近侍であるベリタスとは年齢も階級も離れている。呼び捨てにする訳にもいかず、アルラッセ大佐と呼称して断られ、話し合いの末略称に敬称を重ねる事でようやく許可がもらえた。
「ああ、これ税務部に差し戻し。長官にモルバイン領の不作措置が甘いんじゃないかって伝えて」
そう言ってベリタスは封の切られた未決書類をアレックスの抱えた箱の中に放り込んだ。
「わかりました。行ってきます」
「頼むね。行ってらっしゃい」
新しく出来た後輩の後ろ姿を見送って、ベリタスはもうこんな時間か、と首を左右にほぐしながら息をついた。
実力で佐官階級まで上がって来たのだから当たり前だが、アレックスは仕事の覚えも早く、思っていた以上に使える後輩だった。
知力と武力のバランスで言えば若干武力よりのセーラムと比べて、アレックスの能力は見事なほど均等に割り振られていた。
意図的にそう育てられたのか、もともとの能力がそうであるのかはわからないが、セーラムと比べて事務仕事に向いているのは確かなようだ。何より、ペン先で書類を破く事もないし、整った字を書くのも気に入った。
結果的に適材適所になったのかもしれない、と頭の片隅で考えながら書類を片づけていると、執務室の扉を独特のリズムで叩く音がする。
王太子の側近だけが知る叩き方である。わざわざ返事をしなくても良い者が来たという事だ。
アレックスは出て行ったばかりだが、何か忘れ物があったのか、あるいは塩の調査を命じられていたセーラムが何か掴んできたのだろうか、と思考を巡らせていると、姿を現したのは後者だった。
「お帰り、何かわかった?」
出先から直接出仕して来たのだろう。脱いだ外套の下は私服だった。腰に吊った剣だけが唯一彼の身分を証明するものだった。
「私の人脈だとヤンセン領までしか追えませんでした。その先は一切の痕跡が消えてしまっています」
問題のあった塩の原産国バイラントとの貿易港を持つ、国の西に位置する領がヤンセンである。
セーラムが帰ってきても視線を向ける事すらしなかった王太子が、報告を聞いてようやく書類から顔を上げた。
「匂わせる程度にすら残さず一切の痕跡を消し去るなど、ヤンセンが関与していると言わんばかりではないか……三流が。まぁいい、どうせその先を追った所で黒幕までは辿りつけん」
「想定済みだとは言えどうなさるおつもりです? 放っておきますか」
「いや、釘は刺しておかねばな。丁度いい、お前たち明日から視察に行くぞ」
何が丁度良いのかわからないが、また何か企んでいるような表情をして笑う主を一瞥してベリタスはげんなりと溜息をついた。
視察と称してヤンセン領に行くのはわかったが、敵に動向を悟らせないために忍んで行くのだろうし、だからこそ明日からと急な日程なのも理解しているが、それを調整するのは第一近侍である自分の役目なのだった。
とりあえず今日中に処理すべき書類を片づけ、不在時の仕事の調整に王の近侍であるルードに話しを通しておかなくては、と死んだ表情を浮かべながらベリタスは思った。
明けて早朝、王太子とその近侍三人は簡素な私服を纏ってそれぞれに馬を駆っていた。
カイルラーンとベリタスが前、その後方を守る形でセーラムとアレックスが追従して行く。
貴人の移動は馬車を想像しがちだが、王太子に至っては少数で護衛しながら忍んで移動する方が安全なのだった。なぜなら、護衛される側の王太子が一行の中で一番強いからだ。
わざわざ馬車の内側に閉じ込められるより、自身の愛馬に乗って身軽に動ける方が生存率は高い。それに、馬車など手配していては場内に潜んだ敵の手先に動向を知られる上にお忍びにならない。故にこうして近侍だけを供に、ヤンセン領を目指してひた走っていた。
移動途中、水辺で馬に水分補給をさせ、その傍らで王太子が持参してきた簡単な食事を摂る。
道中で街に入れば、どうしても移動の痕跡が残ってしまう。ヤンセンに着くまでは警戒するに越したことはない。だが、アレックスには視察という名目のこの旅の本当の目的は知らされていなかった。
朝食に供される予定だった物を侍従に指示して簡素な弁当にしたとかで、ライ麦パンに燻製肉と生玉葱の薄切り、チーズが挟まったものが油紙に包まれていた。それと、
王族の食事としては簡素だが、騎士団の訓練で野戦食の味を知っている近侍達にとっては、充分に美味い昼食だった。
アレックスは川縁に穴を掘ってのその中で食べ終わった後の全員分の油紙を燃やし、ポムの芯も一緒に埋める。
朝から走り通して来たのでもうしばらく休憩だと言って、王太子はその場で寝ている。砂利の上ということもあって背が痛そうではあるが、軍人ならどこでも寝る事が出来るのは自分の経験上分かっている。仕事中毒気味の主だ、疲れが溜まっているのかもしれない。
アレックスは手持無沙汰にレグルスの鼻先を撫で、しばらくその首元に顔を埋めて愛馬の匂いを嗅ぐ。それは、昔から心が落ち着く行為だった。
相棒の匂いをひとしきり堪能した後、近くに佇む赤毛の馬を眺める。それは、ベリタスの馬だった。
「ああ、この子は
馬と少し距離を置いてその前に座っていたベリタスが振り返って頷いた。
「うん。成人前からの付き合いだからね、子供の私には御せなかったんだ。でも、さすがにもう年寄りだしね、そろそろ引退かな。アレックスはよくその荒いのを御せたね」
戦場に連れていく軍馬の気性は激しい方が良いというのが一般的だが、その反面激しすぎると制御しきれない事もあって、飼い主の判断で去勢を施す事もあった。去勢された馬は穏やかな気性になりやすい反面、戦場に連れるには穏やかになりすぎることもあってその効果は一長一短だった。だからと言って牝馬を連れて行く事は出来ない。興奮した牡馬が盛りついてしまうからだ。ゆえに軍馬は例外なく雄で、戦場は文字通り男だけの世界なのだった。
だが、アレックスから見れば穏やかなこの馬は、ベリタスによく合っているように思う。
「はは……鞍を置けるようになるまで一年かかりました。私の乗り方が気に食わないと走りもしなかったですしね」
アレックスが苦笑して言うのに、当人以外の男三人は心の中で同じ事を思った。
―――飼い主そっくりだ。
早めの昼休憩を終え、再び走り続けること数時間。一行がヤンセン領シハナ港に辿りついたのはアフタヌーンティが供され始める頃合いだった。
事前通達もせず港湾都市の高台に位置する領主の城に押し掛けると、家令だという壮年の男が出てきてシルバルドの星の入った剣を確認して青ざめたあと、慌てふためいて城の奥に消えて行った。
あまりにもあわてていたのか、一行は談話室に通されもせず玄関ホールに取り残される事となった。
地方領主など王族と対面する事は一生のうちに数度あれば良いくらいで、その使用人ともなればその反応は致し方ないのかもしれない。
家令の消えた玄関ホールを見渡してみると、どうにも居心地の悪い空間だった。とにかく、新興貴族でもないのに金に飽かせたように絢爛で悪趣味極まりなかった。
品性のかけらもない空間で全員が押し黙って待つ事しばらく、領主が家令に怒鳴り散らす声が奥の方で聞こえた。
さすがに人前でそれをする事への分別を持ち合わせていたと見えて、一行の前に姿を現した男は恐縮した様子を浮かべながらも口は閉じていた。
「事前にご連絡をいただけましたら充分におもてなしもできましたのに……。ようこそお越し下さいました。領主のデリュートス・フォン・ヤンセンでございます」
そう言って、デリュートスは頭髪の薄くなった頭を深々と下げた。
「仰々しいのは好まぬのでな。本日は視察がてらシハナを訪れた。我が名はシルバルド・アレシュテナだ」
王太子の正式名はもちろん違うが、一領主でしかないデリュートスに本名を名乗る義理はない。まして今回の訪問は充分に含みのある理由だから、遠まわしにお前と名の交換はせぬとの意思表示に他ならなかった。
それでもアレシュテナの息子のシルバルドだと言えば、それは現王太子カイルラーンでしかありえなかった。
それを聞いたデリュートスは困惑した表情を浮かべたが、ただ黙って頷いた。
「今日はどうしてこちらに……」
「貴殿の領で扱われた貿易品の事で礼を言いたくてな。訊ねたい事もあるゆえ席を設ける事は出来ぬかと思ってな……今すぐに」
本来なら願い出る意味合いの言葉を口にするところだが、王太子はさも当然とばかりに有無を言わさぬ口調で命じた。
「はい、もちろんでございます。こちらへどうぞ」
デリュートスについて行くと、談話室の隣にある客間に通される。
カイルラーンは示された応接セットのソファに腰を下ろし、その背後にはベリタスが立った。部屋の内側の扉の前にはセーラムが配される。
扉はピッチリと閉じられ、外側から封じるようにアレックスが立った。
途中、初老の執事が茶器を携えて現われたが、アレックスはそれを口にする事は出来ない事を丁重に伝えて追い払う。どんな話をするのかはわからないが、先ほどの会話の様子から、主の仕事の邪魔をさせてはならないのだと理解していた。
執事は終始驚いたようにアレックスの顔をまじまじと覗きこんでいたが、やがて納得したように帰って行った。
あれを、との王太子の言葉に、ベリタスは懐から黒い塩の瓶を取り出して応接テーブルの上に置いて定位置に戻った。
「シハナ港の税関を通って我が手元に来た塩だ。とても
カイルラーンは目の前に置かれた瓶の蓋を手ずから開け、ずい、とデリュートスの目の前に押し出す。
「はい……」
男はためらうように一瞬その塩を見つめてから、ゆっくりとそれを一つまみして口に入れた。
―――この程度で尾は出さぬか。
「……独特の風味があるようですな。恥ずかしながら私程度ではそれくらいしか普通の塩との違いがわかりません」
「ふむ。貴殿でもわからぬか……。どうやらこの塩、オピウムが混入されているようでな」
カイルラーンは強張った表情のデリュートスを金色の瞳で射るように見つめた。
「貴方様も人が悪くていらっしゃる。そのような怪しいものを私にお勧めになるとは」
「貴殿なら毒物の混入について何か知っているのではないかと思ったのでな、試してみたまでだ。それに、事の経緯がどうであれ、検閲を通って俺の手元に来た時点で貴殿の管理不足と言わざるを得まい」
「お怒りはごもっともですが、取引貿易品目だけでも月に数百を下りません。そのすべてに目を光らせてはおりますが、漏れがあったのでございましょう」
言い訳をするように言葉を紡いだ男に、王太子は冷淡な表情のまま殺気を向けた。
部屋の空気が変わったのが分かったのか、デリュートスは「ヒュ」と喉から息を漏らす。
「領主として随分な言い草ではないか。此度は俺個人が手配した少量に過ぎぬが、これが国内に大量に出回ってみろ、民に及ぼす影響がわからぬのか貴殿は」
禿げあがった男の額から、つ、と汗が一筋流れて行く。
「もちろん理解しております。ドルディ商会にはより一層の検品を徹底するように指示いたします」
「生ぬるいな……その程度で逃れられると思っていたのか?」
ごくり、と領主は唾を飲んだ。
「どの段階で毒物が混入したのか優秀な俺の部下が調査してな、面白い事が分かった。ドルディ商会より以前の事は追う事ができなかった。シハナの輸入記録には記載があるのに、バイラント側には該当する記載が何処にもなかった。という事は、ドルディ商会がバイラント産と偽って作った塩に毒物を混入させた事になってしまう訳だが……おかしいなぁ? まるでトカゲの尾を切るようではないか」
かろうじて声にするのをこらえたのだろうが、デリュートスの唇は「まさか」と動いた。
「ところで、最近の納税記録を追うとドルディ商会は収益が落ち込んでいるようだな」
「はぁ、そうなのですか……。商いには浮き沈みは付き物ですから……」
「貴殿はたしか中立派を標榜していたと俺は記憶していたが、保守派の間違いであったようだ」
「いえ、そのような事は……思い違いをなさっておいでです」
中立派で押し通すという事は、現王ディーンの政策を推すという事だ。つまりは、国の発展に寄与する国内流通を司る商会の後押しをし、その事業を支えて行くという事と同義であった。
「ふむ、では此度の事は貴殿の監督責任を認めるのだな?」
「もちろんでございます」
「バイラントは我が母の故郷でな、此度の一件については母も大層立腹であった。黒塩は食品ゆえ、この一件が他国にまで広まればバイラント国内の輸出産業に影響を及ぼしかねない。母がドルディ商会には任せられないと言うのでな、優先貿易企業をベルモント商会に移行する事にした。ドルディ商会はしばらく苦境に立たされる事になるが、貴殿が支えてやれ。なに、この城を見ていれば潤沢な資金があるのは風雅に疎い俺にでもわかる」
ニヤリ、と王太子は凍りつくような黒い笑みを浮かべた。
デリュートスはと言えば、大きく目を見開いたまま返答が出来ないでいる。心なしか、表情も青ざめていた。
「主義主張は臣とてあるだろうが、誰につくのか、誰を推すのかで未来は大きく変わる……これ以上無冠の獅子に従うのなら、その首はないと思え」
力尽きるように、がくり、とデリュートスは肩を落とした。
「こちらの用は済んだ。貴殿の健勝を願っている」
ではな、と言い残し、恐ろしい程の血の色をした恒星は去って行った。
本来なら玄関口まで見送るべきだが、デリュートスは腰が抜けて立ち上がる事が出来なかった。
弛緩するようにだらしなく手足を投げ出し、背もたれに体を預けて過日のやり取りを反芻する。
無冠の獅子―――王弟アルフレッドは言った。娘の輿入れの障害になる正妃候補を後宮から追い落とすのに協力すれば、ベルモント商会の持つ商圏を将来的に委譲してやる、と。子飼いであるドルディ商会の商いは年々落ち込んでおり、このままではあの商会から流れてくる金が少なくなるのは目に見えていた。
ドルディ商会の商いのために中立派を標榜していたが、それは別段政治的な理念があって推していたのではなかった。だからアルフレッドの甘い囁きにまんまと乗ってしまったのだ。
濃度の薄いオピウムなら、独特の色と風味を持つバイラントの塩に混ざれば見分けはつかない。まして少量が検閲官の口に入っても気付かれる事はないし、検閲官の身体にも影響はないと。
だが、あの王太子はどうしてだか気がついた。あの口ぶりではドルディ商会までつながるすべての証拠は握られていると言っていい。首の皮一枚でつながっているだけの自分には、手も足も出なかった。
王位を継ぐ修行をしているだけの若造と侮っていたのに。
直接相対してみてわかった。王弟なぞよりずっとあの黒い獅子の方が恐ろしい。まして若い分だけ血に飢えているような錯覚さえ抱かせる。
「玉座の威光か……」
―――これ以上無冠の獅子に従うのなら、その首はないと思え。
ぞわり、と体中が総毛立った。男には、逆らう気力さえ残されてはいなかった。
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