31・嚆矢

 王の側近であるルード・ランロッドが持ってきた一通の書状を見ながらベリタスは口を開いた。

「保守層が動き始めましたね」

 書状は先にカイルラーンが一読してからベリタスの手に渡されていた。

 その内容は、アレックスの昇進についての意見書だった。

 保守派の筆頭である侯爵家からのその書状には、カイルラーンが正妃候補であるアレックスに入れ込むあまり不当に二階級昇進させたのではないか、その上ハイリンガム家の令嬢を早々に後宮から追い出してしまったのはいかがなものかといった事が回りくどく書かれていた。

 全く的外れな意見書だが、保守層というのはなかなか厄介な連中だ。

「今はまだ抑えておけるが、思ったよりも動きが早いな……」

 いずれはこうなるという事は想定の範囲だが、アレックスの昇進が速かったおかげか外圧の動きもまた想定よりも早まっていた。

「もういっそ近侍に引いてはいかがですか」

「師団入りしてまだ一年も経っていないからな……せめて佐官にまでは上がらんとそれもまた足を引かれる原因になりかねん」

 近衛に上がる規定として、最低佐官以上の能力保持者というものがある。セーラムも近衛に上がる際は中尉だったが、二週間を掛けて昇進試験を受け少佐に上がった経緯がある。

 アレックスは経験年数が浅いため、セーラムと同じ試験は受ける事ができなかった。

 無理を通して近侍にする事は可能だが、それをやれば後でそこが致命的な傷になりかねなかった。

「年明けに評価試験があるだろう……最低そこまでは黙らせておかんとな」

 そう言って、カイルラーンは考え込む。

 軍部からの反発なら、グスタフを通じて何らかの手は打てる。ほかならぬ孫の為だ、手を打てと言えば二つ返事でどうにかするだろう。

 だが、今回は内政に関わる者からの書状だった。誰がどういう絵を描いているのかは何となくわかる。だが、その蜘蛛の糸のように張り巡らされた関係を辿って行くにはまだ情報が足りない。

 中枢に近い情報が欲しいな、とカイルラーンは思った。

「スゥオン師団長に会いに行く」

「軍部からでは抑えられませんよ?」

「剣の師に会いに行くだけだ。何も問題はなかろう?」

 カイルラーンはそう言って、不敵な笑みを浮かべた。



 セーラムは先触れとしてスゥオン師団長カシウス・メイロードをつかまえ、再び執務室に戻ってきた。今はスゥオン師団への道中、王太子に付き従って外宮を歩いている。

 基本的には王太子とベリタスの話には口を挟まぬスタンスで仕事をしているが、先ほどの会話は個人的に聞きもらせぬ内容だった。

 ここ数ヶ月近侍として働いてきた感触だけで言えば、カイルラーンがアレックスを自分の側近へと囲いこもうとして動いているのは分かっていた。

 正妃として選ぶなら近侍にする必要などないはずで、セーラムには目の前を行く男の意図が読めないでいる。

 おそらくベリタスには見えているその絵が、自分にはまだ見えて来ない。これが経験値の差と言うものなのだろうが、歯痒さを感じずにはいられなかった。

 スゥオン師団に着いて師団長室に通されると、先ほど会話した男―――カシウスが執務机を立って応接セットの前までやってきた。

 王太子に先に着席を促して、彼もまた椅子に腰を下ろす。

 カイルラーンの背後にはベリタスが、セーラムは唯一の出入り口である扉の前に立った。

「久しくお会いできておりませんでしたがご健勝で何よりです、殿下。先の合同演習は見事でした」

 そう言って穏やかに笑んだ男の髪は、元は黒かったのであろう。大部分が白髪混じりの灰色になっている。鋭利な目元が冷淡な印象を抱かせる。

「あなたも健勝そうで何よりだ。あやうく、という局面を何とか乗り切ったにすぎぬが」

 王太子はそう言って、皮肉な笑みを浮かべた。

「それで、こちらに出向いてこられたのは、私の相弟子の事ですかな?」

「さすが察しが早い……身中の虫が動き出した気配を感じてな。ソルマーレの元に移籍の打診がかなり来ている。近衛や他師団だけでなく、官憲までもが手を上げているのは異常だ」

 警務部に属する官憲は、主に市中の治安維持を担当する組織である。軍部に属する騎士団とは綿密な関係にあり、警邏には一般兵が、その責任者には軍の士官が出向する事もある。これが騎士団と分けられているのは、その責任者の半数以上が文官で構成されているという点だ。騎士団は対外的な抑止力として組織されているが、国内の治安維持は武官だけで問題は解決出来ない。犯罪の理由は罪人の数だけ存在するからだ。

「後宮から排除できないのならば軍から先に、といった所かな……あのお方も往生際が悪いですね全く」

 そう言ってカシウスは苦笑する。

「今中枢がどうつながっているのかを把握しておきたい。今はまだ評価の正当性を主張してやり過ごせるが、手をこまねいていたのでは早々に保守派に押し切られる」

「あなたにしては珍しい執着ですね、殿下」

 カシウスの言葉に、金色の瞳が不穏に細められる。ビリ、と視線に稲妻がまとわりつくような剣呑さだった。

「そんな可愛げのあるものではない……多分に政治的な事だ」

 殺気を含んだただならぬ空気にも関わらず、男はそれを気にした風もなく相変わらず穏やかに笑んだままだった。

 さすがは王太子の剣の師と言うべきか。

「宰相、司法部、財務部は中立派ですね。納税監査院もシノン伯の手の内ですから如何様にもなるでしょう。あとは軍部で言うと秘密裏に六割までは押さえ込めます。問題は警務部と農務部ですかね……切り崩しにかかるならこの辺りからはじめるのが妥当かと」

「官警から打診が来た時点でそんな予感はしていたが、やはり警務は抑えられているか」

「シノン伯にお会いになられてはいかがですか。あの方ならしばらくの間上手く統制してくれるでしょう……ほかならぬ身内の為ですから」

 一瞬考え込むような様子で目を伏せた王太子は、次の瞬間にはカシウスの瞳を見据えて口を開いた。

「そうしよう」



 カシウスとの会談を設けた三日後、カイルラーンの姿は王都にあるシノン家の本邸にあった。会談要請の手紙はカシウス経由でローゼンタールに届けられ、そこからさらにシノンへと運ばれて、秘密裏に席が設けられることとなった。

 自分達の動きを保守派に気づかれる事は避けたかった為、カイルラーンと二人の側近は私服に着替え、夜陰に紛れて馬を駆った。

 通された談話室の扉はぴっちりと閉じられ、目の前には豪奢な金髪を持つ男が座っている。アレックスの伯父であるシノン家の当主ヘラルド・フォン・シノンは確かにあの正妃候補との血の繋がりを納得させる容姿だった。壮年に差し掛かっているはずだというのに、年齢を感じさせない美形だった。

 どことなく、この男の容姿にアレックスの面影が重なる。

「アレックスの事ですか」

 声までもが、その姿に似合う艶を含んだバリトンだった。

 彼の緑の瞳が、ひるむことなく王太子の瞳を見据えている。

「ああ。叔父のアルフレッドが、アレックスを排除しようと動き出している。既に警務と農務は叔父の手に落ちている。このまま行けば、アレックスは軍と後宮から排除される」

 カイルラーンの言葉に、ヘラルドは驚いた様子もなくにこやかな笑みを浮かべた。

「状況については私も把握していますが、殿下はアレックスをどうなさりたいのです……私が動くのはお答え次第だと申し上げたい」

 しばらく考え込むように口を閉ざしたあと、唐突に王太子は話し始めた。どこか遠くに意識を向けているように、ヘラルドの手元を見つめている。言葉を紡ぎながらも、内容を整理しながら話しているかのようだった。

「政治的な面から考えても、叔父の娘であるシャルシエル・アレトニアと、そなたの妹の子であるアレックスは、婚姻相手として理想的な相手と言える。ただし、シャルシエルとは血が近すぎ、アレックスとも福音という障壁に阻まれている。現段階で、正妃とするには二人とも決め手に欠ける状態だ。アレックスとの婚姻を進めるためには、女として心を定めてもらわねばならん。だが、現状を見ていると女として心を定める気はないように思う。客観的に見て、アレックスの能力は高い。正妃として望めなくとも、側には置いておきたい、と思う程に。正妃選出の期限までは後宮に留めおきたい、と言うのが俺の偽らざる本音だ」

 セーラムの目には、今夜の王太子は終始穏やかだった。スゥオン師団での会談とは違い、牽制にも似た殺気を向けたあの日の事を思えば、彼が言うようにその言葉が本音だというのは間違いなかった。

 そして、それはセーラムの中にある疑問への答えでもあった。

「お気持ちは分かりました。求められれば嫌とは言えぬ立場です……ですが、それはアレックスが本当に望む事でしょうか」

 ヘラルドは表情から笑みを消し去り、カイルラーンの瞳をじっと見つめた。

「俺もしがらみを抱えた身だ。全てにおいて気持ちを優先させてやるとは言えぬ。だが、できる限りアレックスの気持ちを無下にせぬと約束しよう……今はこれ以上の言葉は持たぬ」

「分かりました。警務と農務は私が抑えましょう。ただし、それも半年が限度です」

「充分だ。それまでにはこちらで何とかする」

 満足な答えが得られたのだろう、納得したようにカイルラーンは頷いた。



 王太子を見送った後の談話室で、ヘラルドは一人思考にふける。

 使える伝手を駆使して今までアレックスの状況を把握してきてはいた。

 カイルラーンが言うように、王弟アルフレッドが動き始めたのは、星渡り祭の後からだった。

 成り行きとは言え女装して神事の射手を務めたのだと知って、父が言うように女性への転換もありえるのかもしれないと思い始めた矢先の事だった。

 アルフレッドが娘を王太子に嫁がせる算段をしていたのは、誰の目からみても明らかだった。だからこそ、女装したアレックスを見て排除の方向へと舵を切ったのもわかる。

 伯父の欲目を抜きにしても、きちんと着飾ったアレックスが美しかっただろうというのは想像できるからだ。

 十五年前の後宮の惨劇に、何らかの形でアルフレッドが関与していたのだろうという事は分かっている。ただ、決定的な証拠はなかった。だからこそ、王位継承権を放棄させるという中途半端な処分で幕が引かれたのだ。

 あの時本気で潰しておけば、今頃になってこんな厄介な事にはならなかっただろうに。

 権力に異様な執着を見せるあの王弟は、未だに虎視眈々と玉座を狙っている。それに立ち向かって行かねばならないあの王太子は、後継指定されていても落ち着かないだろう。政情の動き方によっては、大きく足元が揺らぎかねない。

 その王太子の心象はと言えば、物の道理は分かった男だと思う。

 彼の言葉を全て信じる事は出来ないが、現状で許される範囲で手の内と本音を晒したのだろう。

 

 ―――アレックスとの婚姻を進めるためには、女として心を定めてもらわねばならん。

 

 ジレッドの面影を追うように騎士への道にこだわったアレックスが女への転換を望めば、確かに父の言ったように大きな物が動くだろう。それはすなわち、あの王太子の正妃になるという事なのだから。

 だが、果たしてそれが本当にアレックスの幸福につながるのかは疑問だった。

 入宮前、女としての自分を受け入れろとアレックスに言ったのは自分だったはずなのに。

 ともかく、請け負った以上保守派を抑えるために動かなくてはならない。

 税務監査で抑えていた不透明な金の流れを利用して、警務と農務の駒を排除しておかなくては。

 しばらく忙しくなりそうだ、とヘラルドは思った。

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