28・燦然

 それは、夜明け過ぎに始まった。

 日付が変わった頃、警戒のために半数は起きるように命じられていたから、応戦するのも早かった。

 どうにか襲撃に対応し、少尉が最後の敵に一撃を入れたところでようやく肩から力が抜けた。まだ、心臓が早鐘を打つように鳴っている。

 肩で息をしていると、顎が自然に上を向く。汗が、額から頬を伝って行った。

「早めに動いたほうがいいな。おそらくここはアタリを付けられている。グズグズしていたら次々来るぞ」

 昨日合流した別の小隊長が、少尉に向かって言っている。

「そうですね。この人数だと目立ちますから、ここで別れましょう」

「ああ、わかった」

 別れを惜しむ暇もなく、夜の間だけ共に過ごした者たちはさっさと林の奥へと消えて行った。

「さて、私たちも行こうか」

 そう言って、少尉は昨日どこからか奪ってきたのであろう馬の首に武器で印を入れ、そこにある木に手綱を括りつけた。

「捨てるんですか?」

 士官候補生が訊ねている。

「これ以上は役にたたないからな。私以外に乗れる者もいないから早めに捨てていく」

 乗って移動する方が余程楽だしいざという時の機動力もあがるだろうに、それを役にたたないと言い切っている所を見ると、どうやら少尉には自分とは違う絵が見えているらしい。

 まだ寝ぼけまなこで頭が覚醒しきっていない様子の新兵を追い立てて、移動を開始する。昨日踏破してきた道を引き返すようにして、動いていく。

 小休止を取りながら数時間そのまま歩き続けるが、その間一度も敵の襲撃はない。流石に終戦時刻も近くなってきたので敵の数が減っているのだろう、と呑気に構えていると、少尉の口から意外な言葉が溢れてドキリとする。

「マズイな……このままだと負ける」

「え、マズイですか? 敵の数が減っているのでは」

 士官候補生は自分と同じ考えを返している。

「本陣に合流してみないとわからないが……残存兵次第だが、場合によってはうちが負けるな」

 その言葉に、胸がドクリと脈打つ。

 模擬演習だから負けた所で命までとられる事はない。だが、本物の戦場で命のやり取りをしたことがある者なら知っている。負ける事は死ぬ事なのだ、と。

 鉛を飲み込んだように、腹の中が重かった。この訓練が終わったら退団願いを出そうと思った時だった。

 樹林の出口付近に大人数の一団が見えて来る。晴天下、兵の手にした武器の先は赤かった。おそらく自軍の本陣だった。

 それを確認すると、少尉は馬に乗った濃紺の隊服の人物―――大将に向かって走って行った。あわててその後を追う。

「ユーゲント中佐、このままだとマズイです。おそらく、崖と樹林の外周に沿って二手に分かれて敵が来ます。早晩上下で挟まれる」

「確証はあるのか?」

「東の樹林帯から南下してきましたが、途中で敵襲がやみました。おそらく敵は分散させていた戦力を固めて中佐を討ちに来ます。一方向からだと騎馬で固めて逃げる事ができますから、少なくとも二手以上で抑えに来るでしょう。今日は見通しが良いから中央の草原から真っ直ぐ来る事は考えにくいです。今うちの残存兵はどれくらいですか」

「今朝の時点で指揮官天幕前に敗走してきたのが約四割、それから時間も経っているし、よく見積もって五割、妥当な線だと四割というところだろう」

 中佐の言葉に渋い表情を浮かべた少尉は、訓練着から懐中時計を取り出した。

 パクンと軽い音がして、文字盤の上の蓋が開く。

「もうすぐ十時か…終戦まであと二時間…。やはり今討たないと中佐が落ちなくてもおそらくうちが負けますね。想定より消耗している」

 少尉は再び時計をポケットにしまってから先を続ける。

「中佐、尉官二人を私に預けてもらえませんか……敵将の首を取りに行ってきます」

「敗戦が濃厚ならお前に尉官をつけてやるのは構わんが、足がないだろう……どうするつもりだアレックス」

「足ならあります。おそらく西の崖方向からは歩兵主体の別働隊が来ます……足場が悪いと騎馬の機動力が落ちるので。敵の本陣が来るとすれば東の樹林帯からです。ガラ空きの中央を騎馬で突っ切って北東方向から敵将の背後に回り込みます。中佐は西から来る歩兵を排除してから南東方向を上がってきてください。運がよければリュドリー隊が合流できます」

「良いだろう。ジャン、イーライ、アレックスの援護をしてやれ。三小隊の副官以下は私の指揮下に入れ」

「はっ」と、指示を受けた者たちの応答が上がる。

 中佐にアレックスと呼ばれた少尉は、その場で指笛を吹いた。

 ヒュッと短く響いたその音は、今まで耳にした指笛の音とは異なっていた。残響音はすぐに消えたのに、鼓膜の中がいつまでも振動しているような錯覚を抱かせる。

 慣れない感覚に顔をしかめていると、どこからともなく馬の足音が近付いて来る。

 敵か、と視線をやれば、青毛の裸馬が近付いてくるところだった。

 その特徴のある毛色の見事な馬を忘れる事などない。それは、昨日樹林に消えていった少尉の愛馬に違いなかった。

 陣の中央から、少尉は馬に向かって走る。裸馬にどうやって乗るのかと眺めていると、少尉は手にした棍の先で地を掻いて、その反動で飛び上がった。

 小柄な体は弧を描くように宙を移動して、ボスンとその背に器用に尻から着地した。同時に、棍の先の赤が放物線状の残像を描く。

 鞍がある時よりも馬の首の付け根に近いところに少尉の腿がある。ぐっとそこを挟み込んで、やや前傾姿勢を取ると同時に青毛の馬は走り出した。みるみるうちに速度を上げて遠ざかって行く。それに追走する形で、尉官が操る騎馬二頭が続く。

 それは、あっという間の出来事だった。

「鞍なしで乗れるのかよ……」

 誰が言ったのかはわからなかったが、それは男の抱いた気持ちと寸分も違わなかった。

 通りで敵から奪った馬を放棄していくわけだ、とその時初めて得心する。自分の馬が呼べるなら、確かに訓練用の馬など役たたずに違いない。

 軍で管理されている訓練馬は、誰であっても背に乗せるよう、調教の過程で野生の本能を叩き折られて行く。その代償で、闘争心や警戒心を犠牲にしてしまう。だから、敵方に乗り手が変わってもなんの疑問も持たず御されるのを嫌がらない。戦場に連れていくには従順になりすぎてしまう。敵の本陣など殺気の渦の中に飛び込むようなものだ。訓練馬では、そこに至るまでに怖気づいて脚を止めてしまうだろう。

 おそらく士官として傑物であろう少尉の駒もまた、軍馬として傑物に違いなかった。

 視線の先にはすでに小隊長の姿はない。それでも、その残像を追うように遠くを見つめたまま動く事ができない。男の目には、眩しいばかりの映像が焼き付いた。



 鞍なしで安定して騎乗し続けるのには限界がある。捉えられても敵に御されるような相棒ではないが、封じられるのだけは避けたかったからあえて鞍と手綱を外して野に放った。

 部下には放ったように見えたとしても、おそらくレグルスは付かず離れずの距離を取って忍んだまま、ずっと近くに居たはずだ。

 山岳地帯の少数遊牧民に伝わる指笛の音が、いくら人には感知しにくい音域だと言っても、物理的な距離が離れすぎていてはレグルスには伝わらない。

 地道な訓練で身につけたグスタフ仕込みのその技は、いざという時の切り札だった。

 乗り慣れた相棒だとしても、裸馬に乗り続けるのは体に掛かる負荷が強い。

 ここまで既に長距離を稼いできて、腿と背筋にその影響が出始めている。背骨がミシミシと軋む。

 中央平原を全速力で疾走して、大まかに予測していた地点から北東の樹林の中に入って行く。

 移動している敵の正確な位置がわかるわけではなく、あくまで当てずっぽうでしかない。うまく敵の背後に出られると良いのだが。

 流石に樹林の中に入ってしまっては、速度は制限される。木々の間を縫うように進みながら、速度が落ちたのを機に敵の痕跡を探す。川の近くの道に、多数の人馬で踏み荒らした跡を見つけてニヤリと笑んだ―――ツイている。

 アレックスはその場で一度脚を止めて、尉官二人が追いついて来るのを待った。

 後から遅れて来た二人に脚元を示すように痕跡を指して、そのまま顎をしゃくる。ここからは、出来るだけ悟られないよう南下していかなければ。

 援護に付いて来た尉官二人―――ジャンとイーライはそれに気分を害した風もなく頷いた。

 二人にきちんと意図が伝わったのを確認して、アレックスは再びレグルスを走らせる。

 痕跡を辿って行くと、騎馬と歩兵の一団が見えてくる。

 歩兵を連れていると、どうしても馬は遅れがちになる。最後尾に大将の濃紺の隊服が見えてアレックスはほくそ笑んだ。

 手にした棍を持ち直し、再び前傾姿勢を取ってそこに突っ込んで行く。

 後ろから近づく蹄鉄音を疑問に思ったのか、佐官が振り返ったのが視認できた。だが気がついた時点でもう遅い。すでにこちらは有効攻撃範囲に入っている。

 レグルスに腿で速度を上げるよう促して、その勢いのまま大将の首から背を棍で払う。敵の人馬の群れが散り散りになって混乱を極める最中、赤く一筋の線が引かれたのを目で追って、レグルスの背から後方に飛んだ。股の間を黒い尾がすり抜けたのを確認して、手にした棍を投げ捨てる。着地と同時に剣帯から木剣を引き抜いて、間髪を入れずに地を蹴った。

 歩兵の棍の隙間をかいくぐり、懐に入り込んで的確に首を払って行く。

 相手が歩兵である限り敵か味方かを見分ける必要がないから楽だった。無心になって敵を排除していく。

 足も腿も背中も腕も、肉体はもはや限界に近付いて悲鳴を上げている。それでも条件反射のように身体は動く。眠らず動き通しで疲労は蓄積されているにも関わらず、眼は見開かれて視界はいつもよりクリアな気がする。

 ああ、ハイになっているな、とアレックスは頭の片隅で思っていた。



 ロブロフォスの麓で開催された大規模模擬演習は、見事シルバルド師団の勝利で幕を閉じた。終戦間際に尉官三名でスゥオン師団の本陣を討った結果の逆転劇だった。

 演習場での事後処理を終え、解散場所である城内騎馬修練場にたどりついたのは、夕方の事だった。

 アレックスはレグルスの背に揺られて帰路についたが、その間の記憶がほとんどなかった。できる相棒のおかげで無事に帰って来ることができたが、さすがに苦笑を禁じえない。

 目を開けて寝ていたなどと、部下には口が裂けても言えない。

 演習責任者であるソルマーレ大佐からの連絡事項を聞いたあと、ようやく訓練は解散となった。

 それと同時に、アレックスは共に行動していた隊員を探して走る。

 早く家路に着こうと出口へ向かって流れて行く人ごみの中をかき分けて、やっと目的の相手を見つける。

 後ろから、その男の手を引いた。

 驚いたように振り返った男が口を開いた。

「少尉……何か忘れ物でも?」

「ああ、ちょっとな。ここで話すのも何だから、まずは離れよう」

 アレックスは男の手を離して、演習場の柵の傍にある木陰へと移動する。

 男が遅れてやってくるのと同時に、訓練用の馬を引いたロルもやってきた。おそらく遠目から確認できたのだろう。

「それで、忘れ物とは」

「ん? 何かあったんですか」

「敵に応戦している時の動きを見ていたのだけどね……おそらくあなたは左右の目の見え方が違う」

 何を言われているのか分からないといった様子で、男はぽかんとした表情を浮かべる。

「私も昔目の病で一時片目を封じて訓練したことがあったのだけど、その時の動きとあなたの動きが似ていた気がする。遠近感がズレるんだ。だから、思った場所に武器が打てない」

「そんな……事が…?」

「視力を矯正すればおそらくあなたは強くなる」

 アレックスは演習終了後に再び取り替えた緑の隊服の内側から、父の懐中時計を取り出した。

 男の手を取って、その手のひらに鈍い金の光を弾くそれを握らせる。

「少尉……これは」

「王都のガラス屋で眼鏡を買うといい。店にこれを渡せば、時計は私の所に戻ってくる。代金も私に請求されるから心配はいらない」

 精密機械である時計は高級品だった。それと同時に、精密なガラス細工である眼鏡もまた一般市民には高級品だった。一般兵でしかない彼の給金ではおいそれと手を出すことができるようなものではない。

 蓋の内側に父の名が刻まれた時計は、充分に担保として支払いに使うことができる。それと同時に、他人がそれを持ち込んだ時点で、確認の連絡がローゼンタールの本邸に入るはずだった。

「こんな高価な物は受け取れません。昨日あったばかりの俺になぜここまでの事を……」

「何故……か。もったいない、と思ったからだよ。あなたは努力しているし、思慮深くて軍人として必要なものを持っている。目の差異をなくせばもっと上に行けるはずだから。もしもそれを申し訳ないと思うなら、出世して返しに来てくれたら良いよ」

 アレックスは言葉を忘れたように呆然とこちらを見つめる男に、はにかんだように笑う。

「今更だけど、あなたの名は?」

「あ……マグノム……肉屋のバロルの息子のマグノムです」

「私はアレックス。またどこかで会おう、マグノム」

 アレックスはロルとマグノムを置いて、振り返らずにその場を去った。置き去りにしてきたレグルスがへそを曲げないうちに戻らなくては。

 ロルは二人の様子を黙って見守っていたが、顔は緩んでにやけている。

「良かったな、おっさん」

「はい……」

 ロルもまた、急いで訓練用の馬を返却しに行かなくてはならない。

 男の広い肩をポンと叩いて彼もその場を去った。

 一人木陰に取り残されたマグノムは、まだそれが夢のような気分で手の中の時計を見つめる。

 恐る恐る裏返すと、文字盤の裏側に走った一筋の傷。よく見ると、使い込まれてあちこち傷だらけで、金色の光沢は鈍くなっている。少尉の持ち物としては、古臭い気がした。

 また、表に返す。蓋の上に細工された精緻な意匠は、剣と盾と禿鷹の組み合わされた家紋だった。おそらく貴族階級出身の少尉の生家の紋なのだろう。どこかで見たような気もするが、それがどこなのかは分からない。

 好奇心に抗えず、時計の蓋を開けて目を見開く。蓋の内側に刻まれたそれが、あまりにも有名な名前だったからだ。


 ―――Gilled・Rosentarl


 英雄の名前だった。

 剣と盾は武門の家柄の紋によく使われる意匠だ。ローゼンタールあるところには死肉も残らないハゲタカと言わしめるほど、優秀な軍人を排出する名家である。

 マグノムはそっと蓋を閉じて鎖ごとそれを握り締める。

 少尉の消えた方角に深く頭を下げた。悲しくもないのに涙がこぼれて仕方がなかった。

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