47・深淵

 茶会は前年同様、王妃リカチェの一声から幕を開けた。前回と違っているのは、王太子が出席している事、令嬢の数が七名に減っている事、そしてアレックスの隊服の色が変わってカイルラーンの側についている事だ。

 王族故、主催であるリカチェの隣の席に座る主の背後に立っていると、前からチラチラと伺うように向けてくる第二王子の不躾な視線が煩わしい。

 本来なら今のアレックスの位置には第一近侍であるベリタスが立つものだが、王宮内で催された茶会に警護が取り囲んでの参加などあるわけがなく、必然的にアレックス一人が側につく事になった。

 ベリタスとセーラムは今日の警備に駆り出された他の近衛同様、こちらの姿が見える位置に控えている。

「やはりあなたは普通の令嬢ではなかったわね、アレクサンドル」

 庭園に設置された天幕の中を、生ぬるい春風と共に王妃の底冷えのする声が流れて行く。

 毎回思うが、王族達には警護役として控えている己の隊服が見えないらしい。王を筆頭に、自分の近侍以外の騎士に声を掛けるのは本来ならばありえない事だ。王族はもちろん慣例を無視したとしても咎められはしないが、それでいらぬ妬みを買うのはこちらだという事を少しは自覚して欲しいものだ。

 だが、それを口にできるはずもなく、名指しされたアレックスは表情を消し去ったまま口を開く。

「私は普通の騎士でございますゆえ」

 女性王族の目を一介の騎士が直視する事は許されない。アレックスはリカチェに顔を向ける事もせずにそう返した。

「普通の騎士が一年で近侍になど上がるものですか。ここに集った者たちの関心は、あなたが今後カイルラーンの妃にまで収まってしまうのではないか、という事だと思うけれど?」

 視界の端で、この場を支配した女帝が獲物を嫐るようにニヤリと笑った気がした。

 そこに、クスリ、と若い女の笑みが重なる。

「それに関してはわたくしも気になりますわ。ぜひ王太子殿下のご意見を伺いたく存じます……お立場上近侍様はご自分からは明言できないでしょうから」

 それは、側妃エリーゼの隣に座ったシャルシエルだった。交流が無くなってすでに数ヶ月が経っていた。

 鋭く切り込まれたはずの王太子は、ピクリとも動かない。用意された椅子に足を組んで腰掛けたまま、今までに茶の一滴も口に含んではいなかった。

「星渡り祭が終わるまでは、後宮に席を残しておく。神事の射手は女でなければならぬゆえ……産後のキリルに何かあれば、代役を勤められるのはアレクサンドルしかおらぬ。それが俺の答えだ」

「そうですか……。お聞きになられましたわね、皆様。殿下はわたくし達の中からお選びになられるそうです」

 扇で口元を隠しながら、ようございましたわね、とシャルシエルは続けた。

 その言葉に合わせるように、保守派の令嬢たちから追随するような若い娘独特の高い声の返答と笑い声が漏れた。中立派の令嬢―――シャルシエルの部屋に集まっていた娘たち三人は複雑な表情を浮かべている。

 保守派に属する家の者としてシャルシエルはここで王太子から直接言質を取ったのだ。

 これで自身の性の曖昧さを盾にする事は出来なくなった。六月の星渡り祭が終わるまでに、自分の性を決めなくてはならない。

 与えられた猶予期間としては長く保ったというべきなのだろう。そして、先送りにしていた事にも決着をつけなくてはならない。できる限り待つ、と言った王太子への返事を。

 会話が途切れたのを機に、再びリカチェが口を開く。

「今日は良い風が吹いているのだから、カイルラーンは皆様と庭園の散策にでも行ってはどうかしら? あなたの事だから、せっかく入宮されたご令嬢方を気遣う事もおろそかにしているのではなくて?」

「それは否定できませんね……なかなか政務が落ち着かなくて、というのは言い訳に過ぎぬのでしょうが」

 そう言って、何の前触れもなくカイルラーンは立ち上がった。それを認め、アレックスは斜め後ろに身を引く。

「それでは皆様参りましょうか」

 筆頭公爵家の令嬢として後宮を掌握している様子のシャルシエルが口を開いた。それを受けて、保守派の令嬢達が一斉に立ち上がる。遅れて、残りの令嬢も立ち上がった。

 表舞台の派閥は後宮にも波及して、完全に線引きが出来てしまっている。どの令嬢たちも家の期待を背負ってここにいる。貴族女性の婚姻は自分の自由にはならない。当主の意向が優先され、その待遇も婚家によって大きな差がある。だからこそ、王家に嫁す事は女性にとって一番の優先事項だった。地位も名誉も資産も、王家以上の家はないのだから。

 少しでも確率を上げるために毒を盛ろうと思うのも致し方ないのかもしれない。もちろん、理解こそすれ納得する事は出来ないが。

 アレックスは気配を殺して主の背後に付き従いながら、華やかに彩られた令嬢たちの揺れるレースやモスリンを視界の端に映して行く。小鳥のように愛らしく甘さを含んで囀る声が、どこか遠くの事のように響いている。

 王太子を取り巻くように移動しているのはシャルシエルの混じった一団で、距離を開けてビビアン達が歩いている。おそらく追いつく気はないのだろう。徐々に距離が開いていく。

 他愛もない世間話の中に交じる王太子の低い声。必要最低限で、返答にまるで気が入っていないのがわかってしまう。以前ならそれを令嬢たちに対して失礼だと感じていたのに、今日はいつもと変わらないその声を心地よく感じてしまうのは何故なのだろう。

 ドレスが揺れる度甘い芳香が放たれ、それぞれが自身を主張するように咲き誇る。一つとして馴染まないその匂いが、幾重にも重なって不快だった。

 どんなに良い匂いでも、混ざりあえば胸焼けを催すものなのだと、アレックスは初めてそれを認識した。それが政界の現状を表しているように感じられて、ますます不快感は深くなる。

 参加しなくても良いと言われたくせに来ると言ったのは自分だ。まして職務でもあるのだから辛抱するしかないのだが、早く終わって欲しいと願わずにいられない。

 これを何年も続けているベリタスに頭が下がる思いだった。

 しばらく死んだように付き従って行くと、気のない素振りの主に気不味くなったのか、そろそろあちらの方々と交替いたしましょうか、と誰かの声が聞こえた。

 そうですわね、と口々に頷いて、ようやく示し合わせたように令嬢達が離れて行く。

 充分に距離が開いたのを見計らって、ごく密やかに押し殺したような主の笑い声が聞こえた。

「執務室の方がまだマシと思うだろう? ……俺もだ。だが、耐えろ」

 どうやら王太子も同じ気持ちだったようだ。

 アレックスは無表情のまま、ごく小さく声を返す。

「承知しております……しかし、匂いに辟易いたしますね」

「全くだ」

 

 保守派の令嬢達と入れ替わったビビアン達と共に池の中央に位置するガゼボへと移動する。最奥に主カイルラーンが、その左右を囲むようにして三人の令嬢が座っている。

 アレックスはカイルラーンの側に立つ事はできないため、ガゼボの入口を塞ぐ形で立っていた。

「カイルラーン殿下、お気を悪くされないのであれば、アレックス様とお話をさせていただきたいのですが……」

 遠慮がちに、ビビアンがそう尋ねる。

「そなた達はアレックスと交流があるのであったな。構わぬ、好きに話すがいい」

 ありがとうございます、とそれぞれが口にする。そして、三人で顔を見合わせたあと、キティは頷いた。緊張しているのか、胸に手を当てて瞳を閉じ、決意するように口を開く。

「アレックス様、近衛昇進おめでとうございます」

 言い切ったキティは、ふぅ、と息を吐きだした。

 それを年長者二人が妹を見るように優しく笑んで、おめでとうございます、と続けた。

「みなさま、ありがとうございます」

 通路に背を向けているのを良い事に、アレックスは令嬢たちに笑顔を向けた。今はまだ、一つの席正妃の座を奪い合う関係なのかもしれない。けれど、三人の笑顔には、そんな打算は一切含まれていない気がした。

 今まで、彼女達との茶会は気が重かった。だから、多少馴染んだとは思っていても、いつも茶会が終われば疲れていた。それでも、今日王太子の警護として参加してみて思った。気心の知れた相手との集まりほど気楽なものはなかったのだ、と。こうして祝ってもらえる仲を持てた事が、どんなにか幸運であったのか、という事をアレックスは思い知った気がした。

 ふいに、イデアが何かを言いかけて止まる。

 それと同時に、背後から人が近付いてくる気配があった。

 アレックスが振り返ると、池に掛けられたガゼボまでの橋の入口にシャルシエルが立っている。

「殿下、お迎えしても?」

「ああ、構わん」

 アレックスは頷いてガゼボの入口を開け、どうぞと無言で手を流してシャルシエルを誘った。

 それを受け、彼女は皆の元までやって来る。

「皆様の心中をお察しすればこの場はご遠慮すべきだというのは充分理解しているのですけれど、今日を逃せば皆様と直接お話する事はできないと思います。どうぞお許しくださいませ」

 硬い表情でそう言ったシャルシエルに、令嬢達は皆黙って頷いた。

「まずは座れ」

 カイルラーンの言葉に、シャルシエルは失礼いたします、とイデアのとなりの席に着く。

 その間に、王太子はガゼボの欄干から手を出して、仰ぐように一度手を振った―――人払いせよ、という近衛への合図だ。

「入宮当初は中立派の方々の様子を探るためだと言って欺いていたのですけど、最近は監視が厳しくて……信じていただけないかもしれませんけれど、わたくしは陛下の政策に賛同しております」

 つまりは、父であるアルフレッドとは考え方が違うという事だ。けれども、娘であるシャルシエルにはそれを表明する権利がない。

「それならば何故先程はあのような……アレックス様を追い詰めるような事をおっしゃったのです」

 イデアがそう問いかける。彼女のヘーゼルグリーンの瞳が悲しげに歪んだ。

「むしろ逆だな……わざと猶予期間を引き伸ばしたのだろう、シャルシエル」

「ええ……内政各部の予算申請時期も終わって、粛清された者たちが納めるものを納めて戻りつつあります。アレックス様が殿下の近侍になった事で、後宮から追い出せという声が近々出ることでしょう。……父がそれを逃すはずはありませんから。立場的にわたくしは表立ってアレックス様を助けることはできない。けれど、殿下の言質を取った事にすれば、少なくとも夏までは猶予期間を引き伸ばすことができます。おそらくリカチェ様もそれを狙ってあの発言をなさったのだと思います」

 その場にいた王太子とシャルシエル以外の者は、それぞれが驚愕の表情を浮かべている。

 貴族社会の笑顔の下にはその表情とは真逆の意思が隠れている。その悪意に慣れすぎて、逆の場合も存在する事を失念していた。

「わたくしは、アレックス様に毒を盛ろうとしたのは父であることを確信しています。けれど、その証拠をわたくし付きの侍女から掴む事はできませんでした。間違いなく父はわたくしを信用してはいないでしょう。侍女の監視が厳しくなった今、これ以上うまく立ち回る事は無理です。ですから皆様、これからはわたくしの分までアレックス様を助けて差し上げて下さい」

「あなたはどうしてそこまで私に……」

 怪訝な表情を浮かべ、アレックスはシャルシエルに問いかけた。

 ふわり、と彼女は儚げに笑う。

「あなたはわたくしの希望なのです。女という性を持ちながら、自らの力で道を切り開いて行く事のできる方……わたくしではどうあっても成し得ない事ができる方だから。勝手な期待を押し付けて、あなたには迷惑でしょうけれど」

 シャルシエルのその言葉が、アレックスには痛かった。

 人生の選択はいつだって苦しい。どちらを選んでも悔いが残る選択肢しかなくとも、それでも人はどちらかを選ぶ。もしもそのどちらかを選ぶことができず選択を棚上げしたとしても、それもまた選択の一つにすぎない。だが、自ら選ぶ事ができるのは、実は恵まれた事なのだ。

 選ぶこともできず否応なく押し付けられるものもある事を、自分は生まれながらに知っている。

「シャルシエル様のお心は分かりました。……僭越ですが、殿下のお心積もりもわたくしたちは分かっているつもりです。ですから、お任せ下さいませ。わたくし達はわたくしたちにできる事を致しますから」

 ビビアンはそう言って、シャルシエルに微笑んだ。

「よろしくお願いいたします」

 そう言って、空色の瞳を瞼が覆った。人払いがされてはいるとは言え、遠目からでも悟られるような事があってはならないから頭を下げる事はできないのだろう。

 伏せられた視線がその代わりなのは、この場に同席した者にはわかっていた。

 一息つくように吸い込んでからシャルシエルは伏せた瞼を上げ、再び口を開く。

「ご迷惑ついでに、殿下にお伝えしたいことがございます。二人にしていただくわけには参りませんか?」

 もちろん、王太子から警護役である近侍を遠ざける事はできない。この場合、実態はアレックスが側についた上で三人で会話をする、という事だ。

「かしこまりました、わたくしたちはもう戻っておりますね」

 ビビアンがそう言って、三人は席を立った。庭園に戻って行く令嬢達を見送ると、橋の入口にベリタスが立っているのが見えた。

 完全に三人の姿が見えなくなってから、再び王太子は口を開いた。

「それで、伝えたい事とは何だ」

「アレックス様の部屋に侵入した者が持っていた鍵の事です。どこから手に入ったのか、もう分かりましたか?」

「いや、調査中だ」

「アレックス様のお部屋は、旧後宮時代はエリーゼ様のお部屋だったらしいのです。あの当時は戦争と同時に暗殺が重なりましたから、鍵の複製は簡単だったのではないでしょうか」

「では、そなたは側妃と叔父上が組んでいると言うのだな」

「確証はございませんけれど」

 シャルシエルの言うように旧後宮時代に複製された鍵が今も存在しているのなら、犯人探しをしても見つかるはずがない。

「正妃候補を入宮させるにあたって全部屋鍵の交換を命じるべきであった……。俺の手落ちだな……」

 そう言って、王太子は怒りを咬み殺すようにため息をついた。

「しかし、エリーゼ様にどんなメリットがあるというのです? 仮にサルーン殿下のために王位の簒奪を考えているのだとして、私ごときを毒殺しても王太子殿下の王位には何の傷も付かない」

 理解できない、と渋い表情を浮かべるアレックスを、空色の瞳がじっと見つめる。

「それは、サルーン殿下がアレックス様に執着しておられるからですわ」

「執着、ですか……」

「アレトニア王家の血は、近親婚を繰り返して来たお陰で壊れているのです。殿下は幼少期虚弱でいらしたし、サルーン殿下は今も身体は健康ではいらっしゃらない。でも、それよりももっと深刻なのは、心を病んで生まれてくる者がいる、という事ですわ。お感じになられた事はございませんか? サルーン殿下に、奇妙な会話の齟齬を感じられた事を」

 シャルシエルの言うように、会話しているのに意思の疎通ができていないような違和感を覚えた事は幾度もあった。

「たしかに、そう感じた事は何度かございましたが……」

「サルーン殿下は、言葉の裏側を読む事ができないのです。迂遠な物言いは通じない……言葉通りの意味しか理解してくださらないのです。いくら殿下が幼くていらっしゃっても、それには限度がございます。それと同時に、自分の興味への執着が異常なのです。興味を持った事への追求心は驚くべきものです。けれど、それ以外の事は全く。誇張ではなく、文字通り全くです。そして、サルーン殿下の今の興味の対象はアレックス様、あなたです。おそらくエリーゼ様はあなたが邪魔なはずです。あなたが我が子に何かを要求すれば、きっとその望みを叶えてしまう……たとえそれが母である自分を殺せ、という要求であっても」

「待ってください、私はエリーゼ様の殺害など要求しない。まして執着とは……つまり、それは私に心を寄せていらっしゃる、という事ですか?」

「いいえ、恋などというそんな生易しいものではありません。あなたへの崇拝、尊敬、心酔……そのようなものに近いのではないかとわたくしは感じています。ですから、仮令あなたにその気がなくても、思うままに我が子が操られる可能性があるのなら、あなたはエリーゼ様にとっては敵でしょう。同じように、わたくしの父もおそらく病んでいます……父は、自分が一番上でないと気が済まない。保守派だとか中立派だとか、政治的理念などは何もなく、ただ玉座に座ってみたいだけ……なぜなら、この国ではそれが最高位だからです」

「そんな……」

 アレックスはシャルシエルの言葉に、呆然と立ち尽くした。

「今生きている王家の血を引く者でまともなのは、おそらく陛下とカイルラーン殿下だけです」

「シャルシエル様……あなたは……あなたは病んでいらっしゃらないではないですか」

「そう言っていただけるのは有難いのですけれど、わたくしは自分が病んでいるのは自覚しておりますわ。わたくしは壊したくなるのです……本気で何かを愛おしく思えば、そう思うほど壊したくなってしまう。それが物でも、動物でも……人でも。それなのに、それを心から楽しめない……望んで壊すのは自分なのに、心はそれを拒否するのです。矛盾しているのですわ。だからわたくしは誰も愛さないと決めています。好ましいと思うものはたくさんあるから、わたくしはそれで満足なのです。カイルラーン殿下も、アレックス様も、わたくしには好ましい人物です」

 彼女はそう言って、寂しげに笑う。

「殿下の前でこのような事を言うべきでないのはわかっています。それでも今しか言えないのであえて言わせていただきますわ。もしもアレックス様が出産できない事を理由に殿下の想いを遠ざけていらっしゃるのなら、あなたの代わりにわたくしが出産して差し上げます」

 耳を疑うような言葉に、アレックスは再び大きく目を見開いた。

「あなたは一体な……にを……」

「父は、わたくしと共に後宮入りさせた侍女にあらゆる事を探らせています。あなたの侍女が洗うあなたの衣類に、月の汚れがない事まで探られているのですよ。わたくしは申しましたとおり、嫁ぐ相手に愛情は求めません。後継が必要なら出産することも厭いません。わたくしが子を愛する事はその子を壊してしまう事と同義ですから、わたくしの手元から離して育てる必要はございますが……。どんな形であれわたくしが殿下に嫁す事ができれば、父があなたに手を出す事もなくなるでしょう……理想はわたくしが正妃、アレックス様が側妃という形が良いのでしょうが」

「シャルシエル、それを俺が了承するとでも?」

 黙ってシャルシエルの言葉を聞いていた王太子が、こらえきれない、と言わんばかりに殺気を放った。そのまま、怒りからシャルシエルを噛み殺してしまいそうな表情をして睨みつける。

「狂っている、とお思いですか? それでも、これも解決方法の一つではございませんか? 保守派と中立派、両方の妃を迎え、殿下のお心は愛しい方へ。わたくしはどこの馬の骨とも分からぬ男に嫁がされずに済む。そうこうしているうちに女神の奇跡が起こって、ご出産されることも可能になるかもしれませんね?」

 確かにシャルシエルの言葉を聞いていれば、恐ろしく合理的な帰結としか言い様がない。貴族社会の政略結婚の淀みを凝縮させたものがその解決方法とやらなのだろう。

 それでも、アレックスは吐き気を催さずにはいられなかった。

 頭では理解できても、心がそれを拒否する。そんな解決方法など、受け入れられる訳が無い。それではそんなもののために生まれてくる子の未来はどうなるというのか。

 どんなに良案だと囁かれても、それだけは絶対に受け入れてはならないのだ。

「決めるのはお二人ですわ、わたくしにそれを強制させる力はないのですから……それでも、相手の事を思うがゆえに気持ちを抑える事ができるのなら、それはその程度の想いなのかもしれませんわね」

 夏までによくお考えになってくださいませ、と言い残し、シャルシエルは去って行った。

 浴びせかけられた言葉の衝撃で、動悸が一向に収まらない。今、座り込まず立っている事が出来ているのかすら怪しかった。

「もう考えるな、忘れろ。俺はシャルシエルの解決方法とやらを受け入れる気はない」

 真っ暗な深淵の前に立っている気がした。

 覗き込んではならないものを覗き込んでしまった様な後味の悪さがいつまでも消えない。

 それがシャルシエルの本心なのか、それとも別の意図を持って投げかけられた言葉なのか、アレックスには判断する事ができなかった。

 春の暖かな日差しの中で、冷たく暗い穴に足を引かれる恐怖を感じていた。






※ 筆者が想定して描いている疾患は現代では研究が進み、精神疾患ではないと定義されています。作中の時代背景を考慮し、あえて精神疾患と記載しています。また、該当疾患について、その特性を持つ方々を差別する意図はございません。もしも物語をお読み下さった読者様の中に、気分を害された方がおられましたら申し訳ありません。

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