48・疼痛
王妃主催の茶会が終わり、季節は春から夏の準備を始め、庭園はますます鮮やかさを増している。
シャルシエルが王太子からアレックスの処遇についての言質を取った事が影響したのか、それまで上がっていた雑音は潮が引くように収まって行った。
雑音が止んだからといって、生活そのものに大きな変化があるわけではない。王太子執務室の面々は変わらず政務に追われている。
アレックスは書類を片付け、関係各所に届けるついでに受け取って来た書類をベリタスの机の上の未決書類の箱に入れている最中だった。
「アレックス、そろそろアンダレイ伯爵令嬢の誕生祝いの贈り物を手配しておけ」
書類から顔を上げる事もなく、さも当然、と言わんばかりに発した主の言葉に、アレックスの眉がピクリと動く。
「殿下、まさかご令嬢方への贈り物、今まで人任せにされていたのですか」
そう言った自分自身が驚くほどに、口調は冷たいものになってしまった。
内心で戸惑いながら、それでも王太子の指示の不快さに顔つきも厳しくなる。
アレックスから返って来た反応が予想外だったのだろう。驚いたように王太子は顔を上げる。
「何か問題があるのか? キティ・アンダレイの事はこの中で一番お前が詳しいだろう。令嬢も自分の好みに合った物を贈られる方が良いし、何より合理的だ」
何かおかしいことでもあるのか、と主が浮かべた表情が語っている。
合理的と言えば確かにそうだろう。好みを知った者が選ぶ方が時間も手間も少なくて済む。だが、それには心が伴っていない、とアレックスは思う。
「ご令嬢方は殿下を想って贈り物をされるのですよ? ご自分でお選びになるべきだと私は思いますが」
アレックスの不満顔を見上げながら、王太子は垂れた前髪に爪を立てて後ろに流す。
「俺の心が贈る相手に向かっていないのだから仕方があるまい。お前が嫌ならセーラムに手配させるまでだ」
それも仕事のうちだと言うのなら、断る事はできないのだろう。割り切れない気持ちを抱えながら、アレックスは眉根を寄せた。
「私が手配しておきます」
睨み合うように一瞬視線を交わし、すぐに王太子はスッと書類に目を戻してしまう。
咀嚼できない苛立ちで奥歯を噛み締め、アレックスは席に戻った。
どんな心情だろうと仕事は滞りなく進めなくてはならない。苛立ちを押し殺すように、アレックスは処理すべき仕事に埋没して行った。
夜半、いつものように窓のせり出しに腰をかけ、月を見上げながら昼の出来事を反芻する。
何故そんなにも不快だったのか、自分でもよくわからない。たかだか令嬢への贈り物一つの事だったのに。
コトン、と窓にこめかみを預け、手にしたゴブレッドを下唇に押し当てる。中には、王太子から贈れられた最後のアイスワインが入っていた。
立ち上る甘い芳香に、何故だか胸が痛む。
―――俺の心が贈る相手に向かっていないのだから仕方があるまい。
返されたその言葉が、アレックスには痛かった。そもそも、心がこもっていない贈り物をしたのは自分も同じではなかったか。カイルラーンを誹る権利が自分にあるわけがない。
放心状態で無意識に再び含んだ口の中の味が、無性に苦くてたまらなかった。
五月に入ると、星渡り祭の予行練習が始まった。産後の肥立ちが順調なキリルが神事の相手役として復帰できる事になって、アレックスの役目はキリルの代役に留まったままだった。
生後四ヶ月のキリルの子はまだ乳が必要だし、母への愛着が強く、誰かに預けるなどして長時間離れている事ができない。神事の練習の時だけやむなく母子同伴で城に来る事になったが、弓を射るあいだは誰かが面倒を見ていなくてはならなかった。
内宮に入る事のできる人間は限られていて、夜間は内宮付きの侍女は退勤して宿舎へと返ってしまう。
そのためだけに侍女を呼び出す事の非効率さを嫌って、短時間だからと赤子を抱いた経験のあるベリタスが面倒を見ていたが、どうやっても大泣きする事を止められず、警備で庭園に詰めていた近衛内で慌てふためきながら赤子を回し抱くハメになった。順番にたらい回した結果、アレックスの所にやってきた赤子は嘘のように泣き止んでしまった。
それ以来、赤子の面倒を見るのはアレックスの仕事という事になってしまっている。
母親であるキリルが言うには、まだ男性相手には人見知りが出る時期らしい。
容姿だけでいうなら女性に見えなくもないのが分かるから、それならば致し方ないか、とアレックスは腕の中で寝息を立てる赤子の健やかな顔を眺めて薄く笑う。
女性近衛の隊服を着込んだキリルは、清々しい印象を与える美人だった。弓を射る横顔は冴え冴えとして女の匂いを感じさせないのに、我が子を抱けばとたんにまろやかな表情になる。出産を経て体型が変わったとかで、隊服の上着と腰周りが窮屈そうだ。
それでも、産前であっても自分とは違って女性にしか見えなかっただろうとアレックスは思う。
どんなに見た目が女性に寄っていても、キリルのように子を産む事はできないのだと、腕の中に抱いた赤子が実感となって迫ってくる。
それが、アレックスにとっての覆す事のできない現実だった。
長年神事の相手役を勤めて来たキリルとの練習期間は順調に運び、それと並行して政務に忙殺される間に気が付けばもう当日を迎えていた。
もちろん今宵もアレックスはキリルの子の守り役として、主ではなくキリルの側に控えている。
今は日の落ちた庭園で赤子を抱き、射場が見える場所に移動して神事が滞りなく終わるのを待っている。子は先ほどまでキリルの側でご機嫌だったが、空に闇が降りる間に眠ってしまった。
乾季である六月は滅多に雨に見舞われる事はない。今夜も大気には湿り気ひとつなく、空は晴れ渡って冷たい色の月の側にひときわ強い光を放つ女神星が輝いている。
不意に、神事の開始を伝えるドラムの音が鳴り響く。結構な音量が響いたが、赤子はピクリとも動かず眠っている。それを確認してホッと胸をなでおろした。
しばらくして神事の衣装を纏ったキリルが歩いてくる。射場を照らした外灯の明かりのなか、弓を手にして立つキリルの神々しいまでの美しさを目にすると、何故か無性に腹立たしくなった。
女性らしい体つきに、着飾って化粧をした姿にわけも分からず心が乱される。
穴が開くようにそれを凝視していると、つがえた火矢が弓を震わせて夜空に打ち上がって行った。
それは外す事なく対岸から挙げられた矢と巡り合い、燐粉を解き放って夜空を仄白く切り抜いた。
ギリ、と噛み締めた奥歯が音を立てた瞬間だった。
「ホアァァァ」
赤子の泣き声に、ハッと我に返る。
泣き止ませなければ、と思った瞬間、すでにキリルが目の前に立っていた。
「ローゼンタール少佐、ありがとうございました。私の役目は終わりましたから、息子の面倒はここで」
「あ、ああ……」
鼓動が速く、視線は泳ぐ。
キリルが我が子に手を伸ばしながら耳打ちしてきた言葉に、思わず目を見開いた。
――― 殺気が隠しきれておりませんよ。
「嫌だ、衣装を汚してしまったわ……当て布をしていたのに」
何気ない様子で呟いたキリルの言葉にあらぬ方をむいていた視線を前に戻せば、離れていくその衣装の胸元が濡れていた。
子をあやしながら去って行くキリルの後ろ姿を見送って俯く。
狭量で未熟な自分が情けなくてたまらなかった。
何事もないふりをして王太子の警護役として闇に紛れたまま神事を終えた。今日は執務室でする仕事はもう終わっている。王太子の自室までの警護はベリタスとセーラムに任せ、アレックスは一足先に自室へと戻って来ていた。
後ろ手に自室の扉を閉めてそこに背を預けた瞬間、瞳に涙がせり上がって止まらなくなった。
視界は滲んで表情が歪む。その場でズルズルと崩れ落ちながら、咄嗟に手で口元を覆った。
自覚してしまえば、今までの苛立ちの理由が全て腑に落ちて行く。
贈り物への猜疑心。自分以外の女性が相手役をする事への嫉妬。どうあっても子を成す事が出来ぬ自分自身への失望。そして―――恋をした相手へ告げなければならない選択への絶望。
「アレックス様!」
――― 女神よ、やはりあなたは残酷です
サラは声を押し殺して泣くアレックスをどうにかソファまで連れて行き、膝の上で頭を抱いて震える背中をあやすように撫でる。
長い付き合いのキミーは心配でたまらないだろうに、任せるわね、と無言で合図をして部屋を出て行った。信頼して任せてくれたのだと思うと嬉しい。
部屋付きになって随分経つが、こんなアレックスを見るのは初めての事だった。むしろ、どんな時でも感情を荒げる事のなかった今までがおかしかったのかもしれない。
不謹慎なのはわかっているが、サラはやっと本当のアレックスに触れた気がして安堵していた。何があっても頑張れるなんてことがあるわけがない。苦しみも悲しみも、泣きたい時も、時には折れてしまう事だってあるのが人というものだろう。
どれくらいの時間が経ったのかわからないくらい長い間背を撫でていると、落ち着いたのかやっと泣き止んだ様な気がした。それでも、手は止まることなく背を撫で続ける。
サラは懐かしいな、と心の中で思う。故郷に残してきた弟妹達もよく喧嘩をして、泣いた子を一番上のサラが今日と同じようにあやしてやったものだ。
尤もアレックスと違って弟妹の方がずっと手がかかって大変だったが。
ポツリ、とアレックスが吐き出す。
「愛って、何かな……」
覗き込めば、涙で張り付いた髪の隙間にぼんやりと開いた瞼から赤くなった瞳が見える。
「愛、でございますか……難しい質問でございますね」
「サラは、誰かに恋をしたことはある?」
その質問に、サラは薄く微笑む。アレックスのその言葉で分かってしまった。
きっと、主は恋をしているのだ。そして、こんな風に泣き崩れてしまう相手など一人しかいない。
哀しいほど真っ白なこの主が、我を忘れて泣きじゃくる相手など王太子でしかありえない。おそらく泣くのはその恋が困難だからで、王太子自身が他の令嬢を選んでいるか、もしくは出産が足枷になっているのだろう。他の者なら既婚者に想いを寄せている可能性もあるのだろうが、この主の気性を考えれば、それはありえないと言って良い。
「ええ、恋をした事はございますよ……身分が違いすぎて、叶う事はございませんが。それでも、叶う事はなくともその方の幸せを願っております」
「そうか……サラは優しいな」
アレックスの言葉に、サラは内心で自嘲気味に笑う。
優しくなどない。未練がましくこうして不純な動機を隠したまま側にいるのだから。
自分の想いは叶わなくていい。叶う事はないと納得している。
今まで背負った星に翻弄されて生きてきた主だ。だからせめてアレックスの想いだけは叶うようにと、サラは願わずにはいられなかった。
「だいぶ腫れてますねぇ……今日はお仕事をお休みなさっては……」
鏡の中を覗き込むと、そこにはひどい有様の自分の顔が映っている。
昨夜は散々泣いたから、両目が熱をもって腫れていた。
それでも泣いたお陰で心の中はスッキリして、自分の気持ちに折り合いをつける事ができた。
この状態で仕事に行くのは正直な所恥ずかしいし、近衛事務所に顔を出したくはないが、体調が悪い訳でもないのに休む気にはなれなかった。
「いや、行くよ。腫れてはいるけど、元気だしね」
「そうですか? 本当に無理なさらなくても……」
「大丈夫だよ、ありがとう」
星渡り祭も無事終わり、与えられた猶予期間は終わったのだ。
だから尚更今日は休むべきではない。自分できちんと決着をつけなくては。
部屋を出るまでずっと心配していたサラをなだめて部屋を出て、近衛事務所に立ち寄った。できるだけ早い時間に出てきたので事務所に人は少なかった。それでも出会った数名の先輩は顔を見て驚いていたが、何も聞かずにいてくれた。否、聞くなという雰囲気を自分が嫌というほど発していたからかもしれないが。
出勤の確認をしてから厩舎に少しだけ顔を出し、レグルスに水と飼葉をやってから執務室に入った。
部屋の中に入ると、既にベリタスの姿があった。
「アレックス……その顔……。訳は聞きませんがその顔のまま関係各所を周るのはやめなさい。今は微妙な時期です……セーラムに変わってもらいなさい、良いですね」
「はい……承知しました」
席につきしばらくしてからセーラムが出勤してきて、そのすぐ後、いつもの定刻に王太子が執務室に入った。
二人共アレックスの顔を見て物問いたげな顔で驚いていたが、結局何も問う事はしなかった。
何を聞かれても話すつもりはなかったから、かたくなに口を引き結んで押し黙っているのが伝わったのだろう。
気不味い雰囲気にしているのは申し訳ないが、今日は我慢してもらおうとアレックスは仕事に集中することで陰鬱な気持ちを振り払う。
朝から数時間掛けていくつかの書類を片付け、昨日仕上げておいた書類の束にそれを重ねる。午前中必須処理の書類が終わった所で時間を確認すれば、関係各所を巡るのに丁度良い頃合だった。
「先輩、申し訳ありません……今日の部署周り代わってもらえませんか」
隣の席に座って外部に発送される書状に封蝋を掛けていたセーラムは、手を止めてアレックスの顔を見る。
「その顔だしな……良いぜ。その代わり、お前こっち頼むな」
「はい。よろしくお願いします」
理由は問わないくせに眼が腫れている事にはさりげなく触れてくる。だが、腫れ物に触るようにあからさまに無視されるより、その方がずっと気楽だった。
こういう所が、この先輩の気持ちの良い所かもしれない。
セーラムが書類の束を抱えて執務室を出て行ったのを見送ってから、アレックスは意を決して口を開いた。
「ベルさん、申し訳ないのですが、殿下と二人で話をさせていただけませんか? ……無理でしたら、お二人で聞いて下さい」
ベリタスとカイルラーン、二人の視線が同時にアレックスへと向かう。
一瞬アレックスを見つめた金色の瞳はベリタスへと流れ、そのまま無言で彼を見据えた。
はぁ、と諦めたようなため息を吐き出し、ベリタスは席を立った。
「私は化粧室に行って参ります」
二人だけになった執務室で、アレックスは王太子の机の前に立った。
「殿下、お返事をさせていただきます」
カイルラーンは捲っていた書類から手を放し、目の前に立ったアレックスの顔を見上げた。
「ああ……だが、お前の顔を見れば答えは聞かずともなんとなく分かる気がするな」
そう言って苦笑するその顔に、アレックスの胸は締め付けられる。
「私は殿下のお気持ちにはお応えできません。……正妃の席は別の方に」
「どうあっても無理か?」
「はい……申し訳ございません。私はこのまま殿下の騎士としてお側でお仕えしとうございます」
カイルラーンは天を仰ぐように顎を上げ、深いため息を吐きだした。
それに踏ん切りをつけるように再び短く息をついた後、またアレックスに視線を戻した。
「わかった。今月いっぱいで後宮を出ろ。退去にあたっての休暇は遠慮なく取れ」
「かしこまりました」
カイルラーンに背を向けて席へと戻る。
身が引き裂かれるような痛みを伴った恋は終わりを迎えた。それはアレックスの生涯において、初めての恋だった。
それでも自分はまだ幸せだろう。心を寄せる相手を側で守って行けるのだから。
想いが叶う事はなくとも、相手の幸せを願っている、とサラは言った。彼女のように自分も強くありたい、とアレックスは思った。
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