49・告解

「え……今月一杯で後宮をお出になる?」

「ああ、長い間世話になったサラ」

 泣き腫らした顔のまま部屋を出て行ったのは今朝の事だ。今は腫れが引いた顔に、踏ん切がついたようなスッキリとした笑顔を浮かべている。

 正妃候補から外れた令嬢が今まで幾人も後宮から去って行った。

 それを目の当たりにしていながら、何故かアレックスだけはここから出て行く事はないように思い込んでいた。

 たとえ最終候補者の中に残ったとしても、入宮当初から二年間という制限付きの暮らしであったというのに。

「むしろお世話になったのはわたしの方です、アレックス様。……それよりも、よろしいのですか?」

「何の事?」

「……お気持ちを、寄せていらっしゃるのでしょう?」

 あえて、誰にとは言わなかった。それでも伝わったのだろう。サラの言葉に、主は寂し気に眉根を寄せて微笑んだ。

「私は福音の奇跡を信じきる事ができなかった……あの方の足枷にだけはなりたくないんだ。それでも、お側にはいられる……それだけで充分だよ」

 今にも涙が溢れそうな表情をしていながら、それでも主は泣かなかった。

 美しく儚げな微笑ではあったが、すっかり決断しているのが見て取れて、その意思はもう覆らないのだと分かる。

 近侍として重用されてから、王太子とアレックスの間に何があったのかは分からない。

 時間的な制限で言えばあと半年は残っているはずなのに、このタイミングで結論を出すという事は、それが許される状況ではなくなったという事なのだろう。

 正妃候補から退き、王太子の近侍として働く事を選んだという事は、この先は男性として生きるという事だ。

 だが、王太子に心を残したまま男として生きるのなら、アレックスはこれから先の生涯を誰とも添わずに生きていく事になりはしないだろうか。

 想いを寄せる人のそばに居られさえすれば良いという気持ちは痛いほど分かる。自分自身がそうだからだ。

 けれど、王太子は近い将来正妃を選ぶ。側近であるアレックスはそれを一番近い場所で見なくてはならない。その心情を思うと、サラは胸が痛かった。

 ただ、主の幸福を願っていた。福音に翻弄されてきたこの主に、せめてこの先はあらん限りの祝福が訪れるようにと。けれど、女神はいとも簡単にその願いを踏みにじっていく。

 アレックスが福音の奇跡を信じる事ができなかったのも致し方の無いことだろう。

 無慈悲な女神には失望しかない。

 尊い方アレシュテナが高みから愛し児人間を弄ぶというのなら、愚かな自分がその天の玉座に嘆きを叩きつけてやる、とサラは思った。


 ――― 獅子の瞳に蜂のひと突きを。



 いつものように関係部署を巡っている間にすっかり遅くなり、執務室への帰り道を歩いている間に正午を知らせる鐘が鳴ってしまった。

 今日は差し戻した書類が多かったから、各所で審査が厳しいだの現場の状況が分かっていないだのと文句をつけられ、それに時間を取られてこのざまだ。

 書類箱を抱えて装備部の近くを通りがかり、そういえば忙しさにかまけて武器と馬鎧の注文を忘れていたな、と思い出す。

 昼休憩の時間に申し訳ない気もするが、仕事が終わってから訪れても業務時間外で閉まっている。また何か差し入れでもして許してもらおう、とアレックスは扉を開いた。

 箱を小脇に抱えて内側に入ると、ディランが受付の内側で黒パンにかぶりついていた。

 アレックスの姿を認めて驚いたように手を止める。

 口に入ってしまったものは咀嚼してしまうしかない。慌てて噛み砕いている様子が見て取れて、アレックスは申し訳なくて苦笑した。

「気にしないでゆっくり食べてくれ。休憩時間にすまない」

 ディランは無言で頷きながら口の中の物を飲み込んで、机の上のマグカップに手を伸ばした。残滓を洗い流すようにそれを含んで再び飲み込んだあと、受付の外側に出てくる。

「お待たせしました」

「いや、休憩時間に来た私が悪いから……ハルバードと馬鎧を注文したくてね」

「え? もう出来上がってますよ? クレスティナ師団アレイスト長がジレッド卿のハルバードとグスタフ卿の馬鎧を先月置いて行かれました。家を出る事を考えてそこそこの物で妥協しそうだから、それならお下がりを直す方がマシだろうって」

 ディランの言葉に、ああ、とため息を吐き出す。読まれているな、とアレックスは心の中で呟く。

 母から資産の書き換えもされ、近衛の所属になったのだから、後宮を出るなら独り立ちせねばならないと思っていた。

 春の茶会でアレックスの処遇は星渡り祭までと明言されていたのだから、もちろん軍の上層に席を置く伯父の耳に入らぬはずがない。

 それなりに給金が出るとは言え、生活に掛かる費用の全てをこれからは自分でまかなわなくてはならないのだから、贅沢は言わず恥ずかしくない程度でそれなりの物をあつらえようと思っていたのだが、さすがは長い付き合いだけあってお見通しというわけだ。

 しかし、父のハルバードなどよく残っていたものだと思う。クレスティナの紋の入った剣と着用していた甲冑、それに時計しか返って来なかったと母は言っていたはずだ。

 騎士爵を叙された父は甲冑姿のまま埋葬され、剣は墓碑に埋められている。

「アレイスト様が言うには、馬鎧はグスタフ卿が乗っていた一蹄前の馬のもので、今の駒と体格が合わないから眠らせていたのだとか。少佐の駒と体格が近いから傷んだ所を直せば使えるだろう、と。ハルバードに関しては、戦後紛失して行方知れずになっていたのが、偶然出入りの武器商に最近持ち込まれたらしくて。さすがはジレッド卿のハルバードというべきなのですかね……柄の部分に仕掛けがありまして、そこにおもりと頭髪が入っていたと」

「錘と頭髪?」

「おそらく夫人と、少佐……あなたの産毛だとおっしゃっていました。戦場に盗賊が沸くのは避けられませんからね、卿のハルバードは名工品ですが、軸に仕込まれた錘のせいか重すぎて並の武人では扱えなかったようで。どこかの蒐集家が手放したものを持ち込まれた武器商が、どうやらジレッド卿が仕掛けを依頼するのに通した店だったようです。構造が巧妙すぎて今まで誰にも開けられた形跡はなかったと……手がけた者と卿しか分からない仕掛けだったのですね。甥が近衛に上がった今になって返って来るとは因縁めいたものを感じる、とおっしゃっておいででした」

 まぁ、僕はベン爺の横で聞いてただけなんですけど、とディランは笑った。

 促されるまま作業場へと足を踏み入れると、職人は休憩に出ているのか人気はなくがらんとしている。いつもは忙しなく動き回る職人達が居ないせいか作業場が広く感じる。

 しばらくそこで待っていると、仕上がったハルバードを倉庫からディランが出してきてくれた。

 渡されたハルバードを両手で握ると、それはすんなりとアレックスの手に馴染んだ。

「少佐の身長に併せてスパイクと柄を短くして、ヘッドの取り回しで遠心力で外側に振られすぎないよう、ある程度柄頭部分の重量を調整してあります。スパイクはブレードタイプに交換、アックスはサイズを若干小さくしました。仕掛けは見事でしたが少佐の手のサイズに合わせる事は出来ませんでしたので、柄に関してはエボニーこくたんに総交換とさせて頂きました。その他使える部品、意匠はそのまま残してあります。もちろんブレード類は全て研ぎ直してあります」

「ああ……これは素晴らしい仕上がりですね」

 全ての部品は一度取り外され、洗浄と研磨を経て再び組み直されている。そのため見た目には新品と言ってもおかしくはない仕上がりだった。

 エボニーの芯材の使われた柄は美しく磨かれて、まるでそれ自体が黒い金属のようだ。

 だが、金属ではなく木材だから、手にすれば肌に馴染んで吸い付くような感触がする。

 重さも取り回すのに丁度良かった。

「ハルバードはビクトール様から、馬鎧は言わずもがなですがグスタフ卿から。直しのお代だけご自分で負担するように、とご伝言を受けたまわっております。ローゼンタール家本邸からの運搬費用・・・・はアレイスト様の奢り・・、との事です」

 そう言って、ディランはクスクスと笑った。

 過保護だと思われているのだろうな、とアレックスは思いながら苦笑する。

 だが、父の遺品が持てるのは純粋に嬉しいし、祖父の馬鎧もありがたい。あの祖父の使っていた物なら品質は確かだろうから。

 いつまでも独り立ちできないな、と思わなくもないが、可愛がられているのはわかっているからありがたく受け取っておくことにする。

 アレックスは鎧の時と同様に支払いの書類にサインをして、武器と馬鎧は後日受け取りに来る事を告げて装備部を後にした。


 ディランは書類箱を抱えて出て行くアレックスを見送って、サインが記入された支払いの書類に視線を落とす。それに、事務処理上必要な項目を書き足して行く。

 慣れた手つきでペンを走らせながら、ベンサムとの会話を思い出していた。

 以前は、金の使い方が貴族だとあの老職人が言った意味が分からなかったが、何となく今日それが分かった気がした。

 馬鎧とハルバードの直し費用を見ると、確かに同格の新品をあつらえるよりは安いのだろうと思う。だからと言って、決して安価ではないのだ。

 馬鎧はともかく、ハルバードに至ってはエボニーの芯材自体が元々高価な上、分解と洗浄、再研磨の上組み直したおかげで値段も新品を購入するのとそう変わらない。

 それは持ち込んで来たアレイストにも伝えたが、それでも良いと言っていた。しかも、値段も聞かずに。

 価値のあるものは金がかかっても手入れをしながら長く使い、支払いについては職人を信頼して綺麗に納める、という事なのだろう。

 貴族家出身とはいえほぼ予備子次男以下で構成されている騎士団で、昨今支払いを一括でして行く者は少ない。高位貴族家出身の富裕層に限って金払いは渋かったりするものだ。

 国の直営である装備部は、市政の武器商よりも融通が利きやすい。給与天引きの割賦払いの審査は緩いし、利息もあるようでないようなものだ。それを良い事に、身の丈に合わない装備を購入して延々と支払いを続けている者もいる。

 現役中に支払いきれるのか疑問だが、ディランは書類を右から左に流すだけだからその先の事はどうなるのかは知らない。

 支払えるのに支払わない者が多い中、綺麗に支払って行くのだからそれだけでディランには好印象だった。

 あの人なら、職人が丹精込めて作った装備も大切に使ってくれるだろう、とディランは思った。


 

 

 女官長ナタリーは事務机に置かれた一通の手紙を見つめて思案を巡らせる。

 封筒には何も書かれて居ない。内側には王太子への手紙と、どうしても渡さなくてはならないものが入っているのだという。

 中身は何かと問えば、それはどうしても明かすことはできないとサラは頑として言い張った。

 決して王太子を害するようなものではないが、主アレクサンドル・ローゼンタール経由で渡す事は避けたいと懇願された。

 しっかりと糊付けされた封筒は軽く、内側に刃物などが仕込まれているような形跡はない。

 アレクサンドルが今月一杯で後宮を辞する事は王太子から直接連絡を受けている。

 何かを告発する意図があって王太子に内密の手紙を送る必要があるのなら、確かにアレクサンドルに知られるのはまずいだろう。

 だが、サラ当人からそういう雰囲気は感じられない。感じられないどころか、主であるアレクサンドルへの信頼が透けてすら見える。

 だからこそ、それを内密に王太子に渡して欲しいなどと言うのが腑に落ちなかった。

 だが、サラの気性と働き振りを鑑みれば、ミアのように誰かに利用されたり、まして王太子を害する事をしでかしたりするようには思えなかった。

 結局、何か問題が起きれば責任を負うことになるのを分かっていながら、それでも王太子に渡す事を決断してしまうあたりが、自分は部下に甘いと自嘲する。

 後宮を円滑に回し、自由を制限されて生活する令嬢達が少しでも穏やかに暮らせるように支えるのが自分の役目だ。

 たとえ今月末で出て行くのだとしても、部屋が後宮にある限りまだアレクサンドルは正妃候補に違いない。そのアレクサンドル付きの侍女たっての要望ならば、それに心を砕くのは女官長として当たり前の事だろう。

 ナタリーは新しい封筒と便箋を用意して、それにペンを走らせた。


 ベリタスは関係各所から回ってきた書類の中に、一通の封書を見つける。

 後宮からの報告書と共に送られて来たその封書は、通常の手紙よりも一回り大きい。

 怪訝に思って差出人を見れば、カイルラーン宛で、差出人欄には女官長ナタリーの名前がフルネームで記されていた。

 王太子宛の手紙は必ずベリタスの手元で封が切られ、中身が確認される事になっている。

 それを知っているナタリーにしては珍しい事もあるものだ。

 ペーパーナイフを使って封を開けると、内側に収められた便箋と、入れ子のように一回り小さい封筒が姿を現して困惑する。

 とりあえず便箋を確認すると、そこにはこう記されている。


『さる令嬢の部屋付き令嬢より、どうしてもアレクサンドル・ローゼンタール様には内密にお渡ししたい、と預かりました。王太子殿下を害する物ではないと判断し、何か問題が起これば責任を負う事を承知して送らせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。   ナタリー・バレッサ』


 部屋付き令嬢という事は、サラ・ベルモントでしかありえない。何故なら、対外的にはサラもまた正妃候補の一人とされているからだ。

 同封された封筒はきっちりと糊付けされている。そもそも中身が知られて良いものなら、ナタリーの手元で開封されているはずだ。それを開けもせずに送って来るという事は、近侍であっても見られたくないもの、ということなのだろう。

 責任を負う事も辞さず送ると記されているのだから、このまま渡した方が良いのはわかっているが、万が一という事もある。

 だが、それを王太子に確認する事はできない。なぜなら、会話すればアレックスに分かってしまうからだ。

 結局のところ、女官長ナタリーを信頼するしかないのだろう。

 ベリタスは再び便箋と未開封の封筒を収め直し、主の机の未決箱の中にナタリーからの封書を紛れ込ませた。

 


 カイルラーンは自室の書物机からペーパーナイフ持ってきて、差出人のない手紙の封を切る。

 中から便箋を引き出して開くと、そこに白い便箋を血で染め抜いたような紅が飛び込んでくる。

 精緻な刺繍の施された、紅いリボンだった。それになぜだか既視感を覚える。

 リボンは後回しにし、とにかく便箋に目を通す。


『尊き王家のシルバルドの御星

 主より処分せよとの命を受けながら、その命に背いて独断でお送りする無礼をお許しください。祝福を光と信ずる事の出来ぬ主の悲痛な胸の内を思えばこそ、天の玉座に唾を吐くこの行為は、わたくし一人の過ちでございます。お叱りは幾重にも頂戴し、後宮侍女職を辞する覚悟でございます』


 手にした紅い色彩を凝視しながら、脱力するようにソファに沈み込む。

「まさか本当に作っていたのか……」

 瞼を閉じれば、手に取る事ができるように思い出せる。

 シルバルド師団の厩舎で、刺繍が苦手なのだろう、と煽った事があった。

 我ながら幼稚なのは分かっていたが、アレックスの手による贈り物が欲しくてからかった。

 その後贈られて来た護符には、紅いリボンが付いていた。刺繍などはされていない、ただのそっけないリボンだ。

 手の中のそれには、見事なまでの刺繍が施されている。

 明らかに手の込んだその図柄は、自分と王家を表す星だった。

 祝福を光と信ずる事の出来ぬ主―――つまり、アレックスは福音の奇跡を信じきれなかった、という事なのだろう。

 あの泣きはらした顔が、男として生きる事への決断によるものならば、アレックスもまた己を想っているという事になりはしないか。

 血を継ぐ事が正妃の役目である事を、アレックスは誰よりも理解しているだろう。だからこそ、想い合っていながら応えられないと言ったのだ。

 カイルラーンは自由にならない怒りで、手にした便箋を握りつぶした。

「いっそ、シャルシエルの言うように……」

 言いかけて、ぐっとそれを飲み込む。

 そんな事をアレックスに言った所で納得しないのは分かっている。

 天の玉座に唾を吐く、とはまさに己の心情を言い表していた。

 王家の基となった女神だが、その首を切り落としてやりたいくらい憎かった。

 夜はまだ、明けない。





※ 獅子の瞳に蜂のひと突き/窮鼠猫を噛む

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