50・出征
後宮からの退去日まであと一週間を残し、アレックスの姿は変わらず内宮の王太子執務室にあった。
元々持ち込んだ私物はほとんどが衣類で、入宮してから軍と自室を行き来する毎日で荷物はあまり増えていなかったから、退去準備はキミーとサラに任せていても問題はなかった。
厩付きの手頃な家と下女が見つかるまでは、ローゼンタールの本邸に厄介になる事になっている。入宮する際に連れて来たキミーも、一度シノンの別邸に帰す事で話はついている。結局のところアレックスにできることはさほどなく、日中は仕事に勤しんでいた。
処理していた書類を終わらせ、次の書類を、と一番上にあったスルソーニャ山脈に常駐しているギルウェスト師団の予算申請書類を手にとって内容を確認する。
一見して何の変哲もない書類で、申請額も特に問題があるほど非常識な合計額ではない。
だが、なぜだかその項目ごとの申請額に違和感を覚えた。
アレックスは違和感の正体を突き止めたくて、財務部に行くことにする。
王族の政務を補佐する近侍は独立した権限を持っている。故に財務部の書類保管庫に入る事も主への申告や財務長官の許可がなくとも可能だった。
調べ物をするために執務室を出入りする事はいつもの事なので、誰にも言わず部屋を出る。違和感が取り越し苦労ならば多忙な主に知らせる必要はない。
毎朝書類を持って行き来している通い慣れた道を急ぎ足で踏破し、書類保管庫の鍵のある管理人室を目指す。
各部署の書類が保管されている地下の保管庫の鍵を管理している男は、急に現れたアレックスに驚きながらも、夏物のシャツの襟元に着けられた徽章を見てすんなりと保管庫の鍵を開けてくれた。
終わったら声を掛けてください、と言い残して管理人は部屋へ戻っていく。
それに頷いて内側に入ると、年代別に閉じられた書類が天井まである棚に隙間なく並んでいる。この部屋には過去五年分の財務関連の書類が収められている。
古紙が放つ独特のツンとした臭気が鼻をついた。埃っぽいような、黴臭いような、懐かしいような匂いだ。この匂いを嗅いでいると、外祖父の部屋を思い出す。
綺麗に並んだ資料の背を目で追っていくと、入口に近い方に向かってその日付は若くなっているようだ。しばらくそれを目印に軍の予算関連の束を探すと、ギルウェスト師団の書類の束は見つかった。
確認したいのは前回の予算申請書類のみ。日付が新しくなるほど上に閉じられていくから、書類の束を挟み込んだ台紙を一枚めくるとその下がすぐ目当ての書類だ。
書面の上から順に下部の合計金額の欄までの数字を目で拾う。
「ああ、やっぱり……」
嫌な予感が的中してしまった事にため息を吐き出し、すぐに開いていた書類を閉じる。
アレックスは書類の束を保管庫から持ち出す事を管理人に伝え、急ぎ執務室に戻って来た。
机の上に置いたままだった未処理の申請書を引き上げ、保管庫の書類に重ねて王太子の前に立つ。主は相変わらず視線は下に向いたままだったが、こちらの気配を感じて口を開く。
「どうした」
「ギルウェスト師団の予算申請書類が妙です」
「妙とは、具体的にどうおかしいのだ」
そう言ってやっと視線を上げた王太子の手元に、同形式の書類を並べて差し出す。
「スルソーニャがいくら山岳地帯と言っても、この真夏に冬場と同額の予算申請書が届くのはおかしいです。主に飼葉と備蓄食料、それから薪に油……夏場ならもっと変動があるものです。冬に来た申請書の予算をそっくり丸写ししてあります。それに、明らかに前回までの申請者と筆跡が異なります。おそらく師団上層は別の事への対応で手が取られているから尉官が処理せざるをえない状況になっているはずです……攻めてきますよ、グリギルが」
アレックスの言葉に、王太子は一瞬目を眇める。
主は厳しい表情のまま、手元に置かれた予算関連書類の束を数項捲った。
ここ数年出されていた書類と見比べると、確かに今回出された書類だけが明らかに違う筆跡だった。
「ベル、モルバイン領の麦の報告は上がってきているか? それと他領の農作物の状況は」
「はい。モルバイン領の麦の予測収穫量は作付面積に対して五割。他領も含めますと、総じて今年は冷夏で実りが芳しくなく七割から八割と言ったところでしょうか。農産品で言えば麦より深刻なのは
「兵站の調整もギリギリだな……短期で方をつけなければならんな。ベル、陛下の元に連絡を。セーラム、
かしこまりました、と指示を受けた二人は急いで執務室を出て行った。
部屋の中に王太子と二人で取り残されたアレックスは、とりあえずは今自分にできる事をやろう、と提示した書類を引き上げるのに手を差し出す。
そこに、王太子の視線がぶつかる。
「アレックス、お前は今回置いて行く」
主のその言葉に、怒りで思わず顔が歪んだ。
カッとなって叫ぶように吐き出す。
「何故です! 私に納得の行くご説明を」
「この戦いは地方の乱を収めに行くような簡単なものではない。負傷すれば、衛生兵も軍医も男だ。まだ性別は曖昧なままだろう……男ばかりの戦場で、お前は肌を晒せるのか?」
睨みつけるように見上げて来るその瞳が腹立たしかった。
「殿下まで私を差別するのですか……男として生きるなら、この先も肌を晒す事は避けて通れない。そんな事は承知の上です。ご心配なら、今ここで服を脱いでご覧に入れます」
アレックスの言葉に、王太子は苦しげに眉根を寄せる。
「後宮に閉じ込めておけたらと思わずにおれん」
「公私混同はせぬとおっしゃったのではなかったのですか。私がそうやってあなたの帰りを待てばご満足ですか? ただ待つだけであなたの寵に縋って生きろと? 後宮で囲われて、役目も果たせず貴方の無事を祈るだけで? ……私は今度こそ、その絶望に自分自身を呪ってしまう。殿下、お願いですから、私から騎士の道まで奪わないで下さい」
執務机の上に置かれたカイルラーンの固く握られた拳が、小刻みに震えていた。
一瞬呻くような表情を浮かべ、奥歯を噛み締めるようにして閉じられていた口が開く。
「わかった。好きにするが良い」
左手で顔を覆って俯いた主に、アレックスは無言で深く頭を下げた。
スルソーニャ山脈に封じられた辺境伯イヴァーノ・シュペから早馬で伝令が来たのは、アレックスが予算申請書の差異を訴えてから五日後の事だった。
――― 折衝は決裂。グリギル帝国、我が国に宣戦布告。
開戦の予兆を感じ取ってから、王太子に振り分けられていた執務は全て現王ディーンへと戻される事になった。
半端に処理していたやりかけの仕事だけを急ぎで終わらせ、残りをディーンの近侍へと引き継いだまでは良かったが、そこからが目粉るしいほど忙しかった。
一般兵の徴集、兵站の確保、冬までの軍事行動への調整。辺境であるスルソーニャに常駐しているギルウェスト師団を除き、城内に師団を置いている六師団で王城の警備などを分担している。それが半数に減るのだから、軍上層での調整も必要だった。
どんなに忙しくても腹は減る。王太子付きの老侍従バファに命じて執務室に簡単な昼食を運ばせ、主従揃って食事を摂りながら打ち合わせをするのがここ数日の流れだった。
ヤンセン領に出向いた時同様、バファ手製のライ麦パンのサンドイッチにかぶりつきながら、セーラムが思い出したように口を開いた。
「騎兵が強いクレスティナを置いて行くのはわかりますが、王弟殿下の影響力の強いスウォンとハヴェンを連れて行って大丈夫なのですか? 停戦と同時に背後からやられませんかね」
山岳地帯の戦闘では騎兵はその能力を充分に発揮できない。ゆえに今回の戦争で帯同しないのは理解できる。
問題は弓射部隊を持ち歩兵練度の高いスゥオン師団と、大型兵器の扱いに慣れたハヴェン師団だ。王位継承権を放棄する前のアルフレッドの正式名は、アルフレッド・ハヴェン・ドゥ・アレトニア―――彼が王子時代に率いていたハヴェン師団は当人と結びつきが強い。同様に、スゥオン師団は本来第二王子サルーンを護るためにある師団だから、カイルラーンのように自ら軍を率いて戦う事がなくともその二師団は保守派の影響力が強いのだ。シャルシエルの情報が正しければ、側妃エリーゼもアルフレッドに取り込まれている、という事になるのだから。師団長がカシウスといえども、現状でそれをあてにする事はできなかった。政治の流れは刻一刻と変化する。カシウスが王太子の剣の師であったとしても、彼が今保守派に傾いていないとは言えない。
「俺がスルソーニャに出ている間どこかで乱が起きれば軍を割かねばならん。ゆえに全軍は連れて行けん、国内を裸にはできんからな。最悪革命が起こった場合を想定すれば、陛下の為にもクレスティナは連れて行けん。ウィルディゴは
「ではイヴァーノが保守派につけば……」
セーラムの言葉に、カイルラーンは楽しげに金色の瞳を歪ませた。
「俺の首が落ちるだろうな」
伝令到着から二日後が出征日と決まった。事前に準備を始めていたおかげで、驚く程速やかに軍は整えられて行った。
夜、アレックスはサラと二人で向かい合う。
キミーには昨日母への手紙を託し、伯父ヘラルドに頼んでシノンの本邸へと戻らせていた。退去日と定めた日が出征日になってしまったために、結局アレックスの荷物は帰還するまでそのまま後宮に残される事となった。
王城に直接雇用されているサラだけが、後宮に留まる事になっている。
「サラ、本当に世話になった。いつまでも、あなたの幸せを願っている」
「やめて下さいアレックス様……もうお会い出来なくなるような言い方は嫌です」
「サラ……必ずここに戻って来るよ。戻ってきたら、引越しを手伝ってくれる?」
微笑んで、サラはアレックスの両手を包み込んだ。
「もちろんでございますとも」
――― いつまでも、お帰りをお待ちしております。
グリギル帝国からの宣戦布告を受け、アレトニア国は速やかに軍を整えて戦地スルソーニャに向けて派兵を開始した。
王城から出立した軍を率いて行くのは戦上手と知られた王太子カイルラーンだ。
軍の先頭に立ち、その左右と後ろを側近が固めている。その側近の中に、ひときわ目を引く者の姿があった。
王都を抜けて行く軍の一団を見送る市民は、興味深げにその騎士を見つめる。
体格の良い黒い軍馬の上にあるその姿は、甲冑を着込んでいる事を考慮しても明らかに他の騎士よりも小さい。
街道に出るまでは見送りの者達が見分けられるよう、重鎧を着込んだ騎士といえども顔がわかるようバイザーは上げておくのが習いである。
その小柄な騎士も、他の者たち同様素顔を確認できる状態にあった。王太子を筆頭に、軍の上層に席を置く士官は人間性が顔に表れるのか、その相貌は比較的整った者が多い。上層に上がるまでに知性と品格が磨かれて、それに似合うように容姿も変化して行くからだ。
だが、その騎士は勇猛果敢で雄々しい一団の中にあって異質だった。
軍馬の背にありながら、驚く程繊細で優美な横顔をしている。士官というには信じられないほどに若く、そして血なまぐさい荒事などできるのか心配になるほどの容姿をしていた。
「あれが、福音の御子様なのだそうよ」
詰めかけた人ごみのなか、そう、誰かが囁いた。
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