2・円舞

 有蓋馬車キャリッジで揺られること二時間余り。モアレ山の麓から王都の端にあるリンデル伯爵主催の夜会場についたのは、車窓に見える景色が闇に溶け込んだ頃だった。

 シノン家の紋の入った馬車は大きく開かれた門を流れるように通過して、敷地の中をゆっくりと進む。

 進むうちに馬の歩みはさらに落ちた。車溜まりに先着者が停滞しているのだろう。招待客の数が多い夜会ではよくあることだ。

「疲れたかい? マリィ」

 フリッツが娘を気遣って尋ねる。

 揺られているだけとはいえ、長時間座ったまま馬車からの振動を受けるのは案外疲れるものだ。

「いいえ、お父様。楽しみでちっとも苦になりませんわ」

 ペリドットの瞳をキラキラと輝かせて楽しそうに笑う娘に、父もまた相好を崩す。

「きつくなったら早めに言うんだぞ」

 隣に座ったヘラルドが、マリィツアの頭をポンポンと叩いた。

「はぁいお兄様」

 髪が乱れるじゃない、と、不満げに口元を膨らませる。

 そんな兄妹の様子を、母カーラは黙って見守っている。

 やがて馬の蹄鉄音が止み、ため息のように馬車が軋んだ。御者台に続く小窓から「旦那様、到着いたしました」と声がかかる。

「ああ、ありがとう」

 程なくして外側から扉が開かれる。父が先に降りてカーラの手を引く。その後にヘラルドが続いて、マリィツアに手を差し出した。

 その手を取って車を降りると、存外暖かな空気が肌に触れた。モアレ山の麓とはこんなにも違うのか、と感じて、その空気を胸いっぱいに吸い込む。

 招待客が吸い込まれてゆく入り口から漏れる明かりに、少女の胸は高鳴った。



「フリッツ・フォン・シノン伯爵並びにカーラ・フォン・シノン夫人、御子息ヘラルド様並びに御息女マリィツア様ご到着!」

 入口では招待客の名の読み上げがある。

 マリィツアの名の読み上げが終わると、ホール近くに居た人々の視線が少女に集まった。

 嘘か実か虚弱ゆえ領地辺境に閉じ込もっているというその娘は、掌中の玉と溺愛してやまぬシノン伯が人目に晒したくないがゆえについた方便だとも噂されている。

 社交界でまことしやかに流れるその噂を確認せんとばかりに集まる不躾な視線を浴びている当人はといえば、白うさぎのショールをフットマンに預けている最中だった。

 デビュタントらしい白いドレスをまとったその立ち姿に、そこかしこで驚愕と羨望が混じりあったため息や苦笑がもれた。

 その噂が真実であっても驚かない、と人々は納得する。

 揃って会場内に進むと、値踏みするような視線はさらに数を増す。

「あれがシノン伯の掌中の玉……」

「まぁ……白エナガのように愛らしいこと」

 隠して育てたくなるお気持ちがわかる気がしますわね、などと、噂が勝手に事実認定されようとしている。

 女性の高い声は聞きたくなくとも耳に届くものだ。その声にマリィツアは瞼をパチパチと動かして、きょとんとした表情を浮かべる。

 社交界の洗礼を受け、有象無象の波を泳いできた歴戦の猛者である三人は、涼しい顔をしてそれをやり過ごした。

 悪意のこもった声でも聞こえようものならきっちりやり返してやる気持ちでいるヘラルドだが、とりあえずは穏やかな滑り出しと言えた。

 過保護だと言われても、マリィツアには楽しいままで今日を終えてほしいのが兄心だ。

 そしておらく目の前の両親も。

 

 ―――まぁ、私が動くより父上の方が早いかな。


 穏やかな笑みを浮かべて母と並ぶ父を見て、ヘラルドは苦笑する。

 鷹揚な人好きのする雰囲気を持つ父だが、本気で盤上遊戯をやらせたらえげつない攻め方をする。

 望めば伯以上の爵位タイトルも狙える能力がありながら、中立派を貫いて適当な位置にぶら下がっているのはモアレ山にこだわるからだ。

 昔から領地運営が難しいとされている場所である。特出した産物もなく、年間を通して涼しいだけで何もない土地。山の北から吹く冷たい風が大気を洗って行くから、夏は涼しく空気が綺麗だ。

 爵位を継いだ時から権力には興味がない父である。十数年前の税制改革のときに珍しく功績を上げて領地移転でモアレを賜ったのは、マリィツアのためだ。

 そしてその旨みのない土地を健全に運営している父の能力を知っているのは、はたしてこの中に何人いるのか。

 それはともかく、と、さっとホール内を目でさらって、一番近くの給仕を探す。

 ソフトドリンクを載せた者を捕まえて、トレイから発泡ワインと白ぶどうのジュースを受け取る。

 ジュースの入ったグラスをマリィツアに手渡す。

「ありがとうお兄様」

 アルコールもジュースも種類は選べたのに、白ぶどうジュースを選んで手渡すあたり手馴れているな、とマリィツアは思う。

 万が一こぼしても目立たないように色の薄いものを選んでいるのだ。

 父母はといえば、同じように近くの給仕から兄と同じフロートグラスを受け取っていた。

 夜会のスタートは、定刻になると主催者の挨拶から始まる。その際、出席者全員で乾杯するのだ。

 出席者同士の本格的な社交はそのあとになる。見知った顔を見つけては軽く会釈したり、手を上げたりと言った挨拶はそこかしこで見られるが、まずは宴の開始を待ってそれぞれが好みのグラスを手にリンデル伯爵の挨拶を待った。



 乾杯のすぐ後、主賓のダンスが始まった。弦楽器の生演奏が始まると、三組ほどが進み出て踊り始める。

 社交から縁遠いマリィツアには、夜会開始の挨拶時に紹介のあったリンデル伯の嫡男とその婚約者以外は分からない。その二人は、ついさっき婚約の発表があったばかりだ。

 おそらく内のひと組はリンデル伯爵夫人と主賓の誰か。若いペアは先ほどの伯爵の嫡男ユスタフと婚約者のレーニエ・ノルテス侯爵令嬢。残るひと組が誰かはわからないが、それを気にしている余裕はマリィツアにはない。

 なにせこの後、自分も踊らなくてはならないのだから。

 貴族のたしなみとして、ガヴァネス女性家庭教師を招いて淑女教育を受けて来た。体調と相談しながらではあるが、もちろんダンスも覚えたし、ダンス専門のチューター男性家庭教師には合格ももらってはいるが、実戦経験はゼロの上に、苦手意識もある。

 ヘラルドがいるからひどいことにはならないだろうが、それでも恥をかかせたらという心配は尽きない。

 その兄はといえば、緊張して口数の減った妹を微笑ましく見下ろしている。彼の肩口までしかない身長の妹のつむじが見える。

「私の足なら何回踏んでも大丈夫だからね。つまずきそうになったら抱っこして踊ってあげるから」

 クスリ、と兄の笑いが続く。

 まるっきり子供扱いしているな、と兄を見上げて睨む。

「そうならないようにリードしてくださるのが男性のつとめではなくて? ノーチェス先生は上手にリードしてくれてよ、お兄様」

 それ専門で生活の糧を得ている者と比較されてもな、と思わなくもないが、マリィツアのダンスの相手などチューター以外には執事長のオータスか家族以外にいないのだから、それも仕方がないか、とそこには触れないことにする。

「大丈夫、私のダンスの腕を信じていいよ。それに初心者用の曲だ、そんなに難易度の高いものは流れないよ」

 自信たっぷりのヘラルドに言い返すのはやめにした。

 兄のダンスの腕前はマリィツアも知っている。かなり踊れる方だということも。

 我が兄ながら、無駄にスペックが高いのだ。加えてその綺麗な外見をひと皮向けば詐欺的な黒さだ。身内で良かったとは思うが、結婚相手には微妙だわ、とマリィツアが思っているのは兄には内緒だ。シェイラはヘラルドのどこがそんなに良かったのだろう。

「目立たないようにリードして下さいませね、お兄様」

 しぶしぶといった様子でダンスホールに視線を向ける妹に苦笑しながら、わかったよ、と頷いてみせる。

 マリィツアの踏み間違い程度のミスはフォローしてやる自信はあるが、別の意味で目立つのは避けられないだろうなぁ、とヘラルドは思った。

 どっちにしたって目立つんだけどな、とは言わないでおく。

 プンプン怒る妹は可愛いが、こんな所で怒らせたって楽しいのは自分だけだ。

 演奏曲が終盤に差し掛かっている。緩慢なスローフォックスが終わろうとしていた。

 弦楽器の音が最後の一音を鳴らせば、会場のそこかしこから拍手が湧いた。

 兄妹も揃って手を打つ。手にしていたグラスは既に給仕係に返してある。

「それでは参りましょうか、レディ?」

 実の兄だと言うのに雰囲気たっぷりにお手を、と誘われて、その手のひらに渋々自分のそれを重ねる。

 それを見ていた衆目から、悲鳴に似た甲高い嬌声が漏れた。

 げんなりして、これはシェイラにきちんと手紙を書かなくては、と思った。

「頑張って」

 近くに居たフリッツから声がかかる。

 両親に笑顔を返して、兄妹はダンスホールへと進んで行った。

 今日デビューした者はマリィツアを含めて五人。

 シーズン終盤ということもあって、数は少なかった。広いダンスホールにたった五組。真っ白なドレスが、咲き始めた花のように配されていく。

 人が多いよりは踊りやすいのかもしれないが、その分あらがよく目立つ。

 これは真剣に踊らなくては、とマリィツアは気を引き締めた。



 演奏曲はワルツ。これなら大丈夫かな、と踊りだした子供達を見てフリッツは安堵の笑みをこぼす。

 最近は元気になってきた娘だが、速い曲だと心配だ。ヘラルドがついているが万一ということもある。一曲踊りきれなくとも良い、とはヘラルドだけに言ってある。

 ステップの踏み間違い程度ならまだいい。しかし体調の変化には家族でなくては対処しきれまい。本来ならつてを使って歳と家格の近い相手を探してやりたかったが、初見相手に娘のフォローまでは望めない。結婚を控えているヘラルドの事も考えたが、娘可愛さに息子に負担を強いた。

 まぁいいか、と父は聞こえるか聞こえないかの声でひとりごつ。

 なんだかんだ妹が可愛いヘラルドだ。さっきのやりとりを見ている限り、本人も楽しんでいるのだろう。

「華のあるご兄妹ですな、シノン伯」

 腹に響く低音が背後から掛かった。聞き馴染みのある声に振り向けば、現騎士団長グスタフ・サー・ローゼンタールが近づいて来ていた。

 ローゼンタールは代々有能な騎士を排出する武門の家柄で、騎士の勲位であるサーの称号を持っているグスタフだが、それとは別に公爵家の当主でもある。貴族を表すフォンの称号も併せ持っているが、本人の力量で叙されたサーの称号を優先させるのが習わしである。

 現役最強との呼び声高いグスタフだが、騎士服を脱いでこうしてテイルコート姿をしていると、血腥さを感じさせない。がっしりとした鍛え上げられた肉体は引き締まっていて、実年齢よりも若々しい。眼光鋭く、胆力のある声。まだまだ現役、といったところか。

 だが、こんな所で出くわすとは珍しい事もあるものだ。

「おめずらしい、ローゼンタール卿」

「はは、今日は半分仕事みたいなものだ」

「半分仕事……どなたかお忍びで?」

「ディーン様がいらっしゃる」

 衆目を気にしながら、グスタフは声を落としてそう言った。

 ディーン・クレスティナ・ラ・アレトニア―――現アレトニア王太子である。

 なるほど、とフリッツは頷いた。

 神出鬼没の王太子は、こんな王都郊外の夜会にまで情報収集に出張るらしい。妃探しかはたまたそれ以外の理由か―――うちのマリィには関係ないか、と早々に結論付ける。

「ディーン様にはご子息が側付きでいらっしゃるのでしたか」

 王族の身辺警護専門の近衛に、グスタフの三番目の息子がいるのだったか。この息子も武人としては優秀と耳にする。たしか王太子の側近の内の一人だったはずだ。

「ああ、ジレッドがな」

 馬車の護衛には近衛騎馬が数名つくし、会場内にも帯剣を許された側近が帯同されるから危険はないだろうが、それでもどこでなにがあるのか分からない立場なのが王太子だ。

 護衛騎士をぞろぞろ引き連れての会場入りは目立つ上にお忍びにならないので、最低限の側近を連れた入場となる。建物内ではどうしても警備が手薄になる。だから、こうして私服で参加しているということなのだろう。近衛でもないのに頭が下がる。

「うちは息子ばかりでどうにもむさくるしくてな……マリィツア嬢は愛らしいな」

 ホールの中央を陣取ってワルツを踊る兄妹を眺めながら、グスタフが穏やかな笑み浮かべる。

「なんとかデビューさせてやれました」

「療養されていたのだったな、おめでとう。夫人にも心からのお祝いを」

 夫婦はそろってありがとうございます、と頭を下げる。

 こういうところがグスタフの勲位たる所以なのかもしれない。そういえばそちらの娘は体が弱かったねといわれたら事実でも良い気はしないが、療養といえば弱った者なら誰だってするものだ。騎士は負傷から逃れられない。戦場で、日々の訓練で、貴人の護衛で、大なり小なり傷を負う。寝台でただ回復を待つだけの苦痛をよく理解しているのだろう。それを支える家族の苦悩も。

 フリッツは、当主である自分だけでなく、妻にも言葉を掛けてくれたその心が嬉しかった。

 ワルツも終盤になりつつある。場の雰囲気に慣れたのか、踊り始めとは変わって表情が良くなった娘を見つめる。楽しんでいるのだろう。ほころぶような笑顔が溢れる。

 名残を惜しむように最後のポーズを決めたあと、初心者達はその場で一礼した。

 周囲から温かい拍手が上がった。

 淑女の礼をする娘の肩が、大きく上下に動いている。息が上がっているな、とフリッツは思った。もちろんヘラルドも弁えている。マリィツアの手を取り、さりげなく支えながらゆっくり戻って来る。

 その姿にまた、女性の黄色い声が上がった。我が息子ながら女性陣には人気があるらしい。自分のせいではないが、フリッツは何だかシェイラに申し訳ない気持ちになった。

 大きなミスもなく一曲を踊りきった二人を笑顔で迎える。

「おかえり、頑張ったね」

 未だ呼吸が少し乱れているが、何とか大丈夫そうだ。

「はい、お父様」

 胸に手を当てて、はぁはぁと浅い呼吸を繰り返す。その薄い胸が、小さく上下している。

 言葉にはしないが、息子の肩口を軽く叩く―――よくやった。

 ヘラルドは小首をかしげてそれを受け取った。

 グスタフがいるから口には出さないのだろうが、おそらくこう思っているのだろう―――当然でしょう。

「二度目だな、ヘラルド。マリィツア嬢は初めてお目にかかる」

「ローゼンタール卿、ご無沙汰しております。

 マリィツア、グスタフ・サー・ローゼンタール様だ」

「フリッツ・フォン・シノンの娘マリィツアでございます。以後お見知りおきくださると嬉しいです」

 ふわり、とほころんで、綺麗な形の淑女の礼をする。

 礼から立ち上がろうとしたマリィツアの肩が、一瞬揺れる。それを見ていた家族は内心ぎょっとする。もちろん三人共顔には出ない。

 マリィツアは落ち着いて、何事もなかったかのように立ち上がった。その様子に家族全員安堵して、フリッツはヘラルドに目配せをした。

「マリィ、私は喉が渇いたから、テラスに休憩しに行こう。付き合って」

 それが自身への気遣いであることは理解している。マリィツアははい、と返した。

「卿、私達は失礼いたします」

「ああ。リンデル領は昨年赤葡萄の出来が良かったから、飲むなら赤がおすすめだ」

「それは楽しみだ。赤を堪能して参ります」

 兄妹は一礼して、その場を後にした。





※シマエナガは日本固有種なので、作中表記をあえて白エナガとしています。

スローフォックス/社交ダンスの種目の一つ。

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