1・憧憬
州都を抱くようにそびえるモアレ山から吹き降ろす風は冷たい。山頂には夏でも万年雪がかかるその山の麓に一軒の邸宅があった。
森林を切り開くようにして整地されたその広大な領地のなか、暗闇に沈むように佇むその邸の二階の出窓が開いている。
そのせり出しに腰掛けて、少女は空を眺めている。
早く眠らなければ、と思えば思うほどに目は冴えて、長らく寝台でうごめいていたけれど結局起き出してここにいる。
街の灯りが届かぬこの山間に降りる夜の暗さは深い。月の輪郭は鋭く、星の瞬きも近く。
静謐で美しい夜空を見上げて、少女はほぅと息を吐いた。春先でもまだ夜は冷える。白く漂った息は幾ばくもせず消えていった。
せめてもと夜着の上に羽織ったガウンを掻き合せる。その指は華奢で抜けるように白い。
シーズンも終わりかけのこの時期にデビューするのは、少女の体調面を考慮してのことだった。生まれつき病弱な彼女は残暑と冬を越えなければ体調は安定しない。ようやく草花が萌え出し、昼の空気が温かくなってきたこの時期が、一番体調が良かった。
アレトニア国シノン伯爵領モアレ州の北部、空気の綺麗なモアレ山の麓の別邸で療養する事十年余り、喘息の症状は落ち着きつつある。
十七歳で成人とされるこの国ではいささか遅めではあるが、せめてデビューだけはさせてやりたいという父母の願いがようやく明日十六歳にして叶う。
貴族社会の社交といえば、主に人脈作りの場ではあるが、結婚適齢期に入った男女に至っては候補探しの場でもある。
政略結婚も珍しくない世界だからもちろん恋愛結婚が成就することは簡単ではないが、家督を継がない者や、許嫁のいない者たちも婚期を逃すまいと必死になる。家族揃って社交に精を出し、独身者の情報を仕入れるのだ。
少女の両親がデビューにこだわるもの、ひとえに彼女に伴侶を見つけてやりたいとの親心ゆえだ。病弱ゆえ出産はできないかもしれないが、それでも良いという者も少なくないはずだ。家督がなく家名を残す必要のない者や一代貴族なら養子を迎えれば良いのだし、相手が望むなら婿に迎えて伯爵位を持つシノン家に入れてもいい。
その場で出会えなくても、ひととなりは人を介して伝わる。
たった一度だとしても、どんな小さな集まりでも、その姿だけでも噂になれば、あとは勝手に釣書が来るはずだ。
最高とまではいかないが、それなりの家柄、資産、そして―――彼女は美しかった。
夜風にそよぐひと房は白金に近い黄色味の薄い金髪。ゆっくりと瞬きを繰り返すけぶるような長い睫毛の奥にペリドットグリーンの瞳。薄桃色の唇はまだあどけなさを残す。抜けるような白い肌に華奢な体躯。
病気がちで身長がやや低く痩せてはいるが、折れそうな儚さはその美貌と相まって見るものに庇護欲を掻き立てる。
誰もが美しいと評する彼女―――マリィツアは名残を惜しむように窓を閉めた。
自身の弱さを一番分かっているのは自分だ。これを逃せばもう二度と社交に出られないかもしれない。だから明日が楽しみで仕方がない。
胸がときめいて、けれどやっぱり不安で。それ以上の期待でわけもなく興奮して。
それでももう眠らなくては。
寝台に戻って寝具を鼻先まで引き寄せる。
そっと息を吸い込んで呟いた。
「お友達ができるかしら……」
物語のような恋なんて望まない。一夜だけの夢の時間に大きな事は望まない。同世代の友達も持てずずっと寂しい幼少期を過ごしてきた。
手紙を書いたり小さな贈り物をしたりする友達ができたらいいな、と、少女は瞳を閉じた。
翌朝遅めにマリィツアは目覚めた。今夜は長丁場になる。それが分かっているから侍女たちもあえて起こしには来なかった。流石に着替え等の支度時間が必要だから、昼までには起きなければいけないがこのくらいなら許容範囲だろう。
サイドボードの呼び鈴を鳴らせば、マリィツア付きの侍女がやってくる。
「お目覚めですか? お嬢様」
「ええ、おはようハンナ」
ハンナの年は五十にかかった頃だろうか。ふっくらとした体に白髪交じりの髪をきれいにまとめてお仕着せに身を包んでいる。マリィツアが生まれるまえからシノン本邸に仕えていて、ここに越して来るときに一緒に連れてきた。ベテランの侍女でマリィツアの乳母だったのだ。
「朝食を召し上がられますか? コルセットを付けますからお支度までには何か召し上がる方がよろしいかと」
元々細いからさほどに締める必要はないが、それでもコルセットを付けてドレスに着替えれば、おそらくあまり飲食はできまい。たくさん食べる方ではないが、それでも夜まで何も食べないのではもたない。
「ええ。軽めにしてもらえる? 出る前にも焼き菓子とかつまめるものがあったら嬉しいわ」
朝食といっても、もうこの時間ならブランチになる。夕食は抜きになるから、会場で腹の虫が鳴かないように少しは食べておかなくては。
「かしこまりました。ジャンにそのように伝えます」
ジャンとはこの別邸のコックである。
ハンナは一礼して部屋を出て行った。
それと入れ替えにして、マリィツア付きのもう一人の侍女キミーがひょっこり顔を出した。手には洗顔用のボウルを持ち、農村育ちに特有のそばかすのある顔に愛嬌のある笑顔を浮かべて近づいてくる。
ハンナと比べてこちらはまだ若い。侍女見習いであるがゆえに、まだまだそそっかしい上に作法も所作も一人前とは言い難い。それでも素直で明るく気の良いこの侍女をマリィツアは好ましく思っている。
「おはようキミー」
「おはようございますお嬢様」
挨拶のあといささか元気に礼をするものだから、ボウルの中のぬるま湯が踊って、ピチョンと雫が跳ねた。
ボウルからあふれることはなかったが、一瞬ドキリとさせるその様子に、マリィツアはクスクスと笑った。
「ハンナがいなくて良かったわね」
「あはは……本当に。気をつけます」
またやっちゃったと小さく続き、しゅんとする侍女をまぁまぁとなだめて洗顔を終えた。
「綺麗よ、マリィ」
感極まったようにほぅとため息を漏らした母が両手を胸元に添えてそう言った。
涙ぐんだ母に微笑んで、マリィツアはその胸元の手に己の手を伸ばす。
「お母様、泣かないで」
そっと触れた手に、母のぬくもりが伝わる。
新しくあつらえたドレスはデビュタントを示す純白。若々しさを表すようにほんの少し肩を出し、デコルテラインから鎖骨が覗く。二の腕に肘上までの透け感のあるパフスリーブとバスト上までしっかりとホールドされて谷間が見えないようにカッティングされている前身頃でいやらしさは感じさせない。
ウエストにドレス本体より若干象牙掛かった白の大きめのバックリボン。その尾は長めに後ろに流している。スカートの前面はたっぷりの絹地を使い、そこに金糸で繊細な刺繍が施されている。バックリボンの根元から刺繍生地は左右に別れ、その隙間から少し引きずるような形でオーガンジーのフリルが続く。前後でアシンメトリーな長さの裾は、前に行くほど高くなり、白いサテンのヒールの足首までが見えている。その遊び心のある露出もまた、彼女の若さを象徴するかのようだった。シノン本家お抱えのお針子が丹精込めてつくってくれたそのドレスは可憐で、そして愛らしい彼女によく似合っていた。
これほどのものをあつらえるなら、相応の金額になる。それでも我が子の記念日にと用意した両親の想いがマリィツアには痛いほどにわかった。
「私幸せよ、お母様。こんなステキなドレスが着られて、優しいお母様もお父様もいて」
ふふ、と笑った彼女に、不満気な声がかかる。
「私は除け者なのかなマリィ」
扉のふちに腕を組んでもたれかかってこちらに皮肉な笑みを浮かべているのは兄のヘラルドだ。
マリィツアより黄色味の強い豪奢な金色の髪に、エメラルドの瞳。スラリとした体躯、やや垂れ目の美丈夫である。兄は母カーラの特徴をよく引き継いでいる。
「あらお兄様……ふふ
もちろん優しくて頼もしいお兄様もいて幸せです」
それを受けてヘラルドは満足げに頷いて、長いコンパスを活かしてあっという間にカーラの横に立った。
「母上、泣くのはまだお早いですよ。社交デビューごときで泣いていては嫁入りの際にはハンカチが十枚は必要になる」
やれやれ、といった風に彼は両手をあげた。
親子の穏やかな笑みが溢れる。
「いいえ、二十枚ですヘラルド」
大真面目な表情を浮かべてそう言い募る母の様子に、誰とはなしに吹き出して、部屋の中には賑やかな笑い声が満ちた。
ひとしきり三人で笑いあった頃、そこに父が顔を出す。
「やぁ、私の可愛いお姫様の支度は終わったかい?」
のんびりとしたその声に、三者の視線が集まる。
淡い金色の髪、マリィツアより濃い若葉色の瞳。垂れた目尻はヘラルドにも受け継がれている。総じて娘はこの父の色を濃く継いでいた。
年相応に落ち着いた色味の、シノン家当主らしい上質で品の良い装いで現れた男―――現当主シノン伯爵フリッツ・フォン・シノンその人である。
「あなたのパートナーはわたくしでしてよ、フリッツ」
母カーラが苦笑してそう言うと、まぁまぁとヘラルドが言う。
「父上の目に入れても痛くない可愛い可愛いマリィは私が責任をもってエスコートしますよ」
ニヤ、と笑んだヘラルドに残念そうに肩を落として父は口を開く。
「わかっているんだけどねぇ……右にマリィ左にカーラをエスコートしたいけどそれはマナー違反になるだろうねぇ」
はぁとため息をついた―――本気でそう思っているのだ。
貴族社会では珍しいほど家族愛の深い父親である。その上マリィツアは生まれた時から病弱だった。誰のせいではないけれど、丈夫に生んでやれなかった不憫さを、両親ともに抱いているのを兄妹は知っている。
本当に過保護なんだから、とヘラルドは内心でつぶやいて、けれど父の事は言えない自分に苦笑する。
普段は王都でフリッツの補佐をしながら後継者としての仕事を学んでいて、中々この離れた別邸には顔を出せずにいる。使用人に任せきり、ここにこもって世俗と離れて暮らすこの妹の孤独を思う。後継者修行が始まってからは多忙で、なおさらこちらに顔を出せないでいる。デビューのエスコート役を、と父母に請われた時は、二つ返事で引き受けた。シェイラという婚約者がいるから、夜会の日程が重なればマリィツアを優先する事はできない。
それでも引き受けたときは、そのことは全く頭に無かった。
自身の幼少期から、体の弱い妹はいつだって庇護すべき対象で愛しい。もちろん兄としての愛情の範囲だが。
「シェイラ姉さまはよろしいの? お兄様」
「シーズン初めに外せない所はあらかた片付けたからね……結婚の準備もあるしね」
ヘラルドは半分事実、半分は嘘にならないようにあえて言葉にはせず伝える。
シーズン初めに夜会を片付けたのは結婚の準備が忙しいのはもちろんだが、今年はデビューさせてやりたいの、と母が口にしていたのを心に留めていたからだ。
「それに、シルはもう夜会はお腹いっぱいだってさ」
見栄と嘘と社交辞令、腹の探り合いに足の引き合い。女性の社交には悪霊が跋扈している。そつなく社交をこなす婚約者のシェイラ――愛称シルだが、元来人を嵌めるくらいなら正々堂々ハンカチを投げつけてやる、というくらいの気性ゆえ、不必要な社交には頼まれたってでかけないといった風である。
ヘラルド、わたくし夜会はもうウンザリ! ―――そう言い放つシェイラの姿が目に浮かぶようだ。マリィツアには白黒はっきりした腹の内の気持ちのよい将来の義姉の、美しい怒り顔までもが浮かんでくる。
それならば今夜は遠慮なく兄を借りておこう。
「後でシェイラお姉さまに手紙を書くわ。愛しの君をお借りしました、って」
貴族の例にもれず、この兄とシェイラも、ヘラルドが九歳の頃からの許嫁である。夏の避暑に兄がこちらに滞在しているときに、シェイラが一人で訪れたり彼女が家族連れで宿泊したりと、付き合いは家族ぐるみで十年近くになる。幼少期からシェイラの二人の弟も入れて五人で遊んでいたから、もちろん兄の婚約者の人となりは知っている。そして珍しい事に、二人は恋愛結婚なのだ。婚約者だからお互いに歩み寄って恋になったのか、そんなものは関係なく惹かれあったのか、そこは当人同士にしかわからないが、見ていて羨ましいほどの睦まじさだ。
そんな二人への他愛もないあてつけが愛しの君である。もちろん冗談だ。
「愛しいのは当たり前だろう、この私なんだから」
それが何か?と言わんばかりに片眉を上げて切り替えした兄の方が上手だったようだ。
真っ直ぐな気性のシェイラと比べて、なかなかに黒い物を持っているのをマリィツアは知っている。
「そんな事は関係なく手紙を書いてやって。マリィの手紙をシルも楽しみにしてるから」
マリィツアの内心には、兄の婚約者だからいくら親しくても一線を引いて置かなくてはという無意識がある事にヘラルドは気づいている。長い付き合いなのだから、そこは素直に友達で良いじゃないか、と思うが、乙女心はなかなか難しい様だ。
「はいはい、ごちそうさま」
その生真面目な妹は兄を真似てやれやれと手を上げてみせる。
落ちかけた午後の日差しが満ちる室内に、また家族の笑い声があふれた。
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