蜜蜂は王乳の夢をみるか
藤野うに
序・福音
アレトニア国首都国教聖協会の大聖堂に祝福を受けようと人々が並んでいる。午前は法王サミュエルが貴族だけに福音を授けることになっている。午後は大司教が平民を担当する。
今は午前。東方の小競り合いに出征し、戦地で多少名を上げて一代貴族である男爵に叙され、かろうじて貴族の末端に籍を置く男の側には、身重の妻が寄り添っている。
本来ならば爵位に準じて後ろの方に並ばねばならないが、身重とあって上位貴族達が温情を見せ、前へ前へと譲られる形で三番目となった。一番と二番が譲らなかったのではなく、既に祝福は始まっていて、前に進んだ時には二番目の夫婦の祝福が始まってしまっていた。
教典の一節を祝福としていただくが、ほぼその一節は決まっていて、妊婦には創世記の一文が一般的だった。
二組目の年若い夫婦は婚姻したばかりだろうか。はやく子を授かるようにと、受胎にまつわる一文を授かっていた。
幸せそうに目配せし合う二人を見つめて、妻もまた幸せそうにしている。
自分の視線に気がついたのか、こちらを向いて
「もうすぐね」と聞こえるか聞こえないかの小声で妻が言う。
「ああ」
男もまたそう小さくかえして、微笑んだ。
前の組の夫婦が終わったのを見て、法王やその他の人々に背を向けぬ方に体を向け、男と妻は深く礼をした。深くといっても、妻はできる限りではあるが。
本来ならこんな順番ではない。先に終えた夫婦も、後に続く人々も、自分たちよりも上位の者たちだ。
温情をありがたく受取り、礼を持って返す。一代貴族といえども最低限のマナーである。
後につかえる人に気を使い、礼が終われば速やかに祝福を授かる。
妻を気遣いながら二人で法王の前に立つ。祭壇は高くなっており、そこに立つ法王は眼前を見下ろす形となる。法王は二人の頭上に左手をかざした。それを受けて夫婦は胸の前で両手の指を組んで目を伏せた。
教典を諳んじることのできるサミュエルだが、いつもの癖で右手に載せた教典に目をやる。人は間違う生き物だ。確認することは無駄ではない。
いつもの文頭を瞳に映したその時だ。サミュエルはビリ、と身の内に静電気が走ったような気がした。
『曰く、男でも女でも無いもの。これ二十年を以て定まる。雌雄の心定まるまでは何人もいたずらに決める事なかれ』
大きく目を見開いたまま、どれくらいの時間がたったのか。
ざわざわと人々がさざめき出す頃、ようやく弟子の司教が法王の袖を引く。
「あの、猊下……どうなさいました」
「あ……ああ、申し訳ない」
「お加減でも悪くされたのですか?」
「そうではない」
聖職に身を捧げてもう半世紀以上になる。自らの良心と信仰心に基づいて、ひたすらに信仰と布教に勤めてきた。
聖職者として最高位の法王まで上り詰めても、ただびとである己に神はあまりに気高く遠い存在であった。
つ、と年老いて深いシワの刻まれた頬に一筋の涙が伝う。
それは、神より下ろされた福音としか思えなかった。
「喜ばしい事です。女神アレシュテナよりお二人に特別な福音を賜りましたぞ」
サミュエルは眼前の二人に対してそう宣言した。
状況が飲み込めずぽかんと見上げて来る夫婦に、にこやかに笑む。手にした教典は祭壇の上に置く―――この祝福はここには載っていないのだから。
「私が聖職を賜り半世紀以上になりますか。今、私は女神の福音を受け取りました。この奇跡に立ち会えた事に喜びと感謝を。あなたがた夫婦と子に祝福を授けます」
ざわざわと聖堂内はにわかに騒がしくなる。
再びサミュエルは二人に左手をかざした。それを期に、また静寂が訪れる。
うつむいた夫婦を見取って、法王は自身も瞳を閉じた。身に下ろされた福音を一言一句違わぬよう厳かに紡ぐ。
「曰く、男でも女でも無いもの。これ二十年を以て定まる。雌雄の心定まるまでは何人もいたずらに決める事なかれ」
再び目を開けると、そこには困惑した様子の夫婦がいる。
それも致し方のないことだ、確かに女神の福音は奇跡というにふさわしいものだが、内容が内容だけにどう解釈していいのか分からない。
言葉通りとするならば、夫婦に生まれてくる子は、男でも女でもない者となる。
おずおずと、夫の方が口を開いた。
「恐れながら猊下……つまり私達は我が子をどのようにしてやれば良いのでしょうか。戸籍は……出生の届けはどうすれば」
「心配されるな。この奇跡は私が見届け人です。二十年で定まると神がおっしゃったのです。戸籍の性別は空欄のまま、二十歳の誕生日にお子が決めて届けるのが良いだろう。国の関係各所には私が責任を以て対応します」
安心した様子で夫婦は顔を見合わせた。
「神の福音をこの身に下ろす栄誉を得たこと、お二人に感謝する。何も案ずることなく子を産み育んで下され」
ありがとうございます、と二人同時の声が聞こえた。
それに満足げに頷いて、法王サミュエルは司教を手招きする。
「お二人を別室へ。それから今日の参列者に葡萄酒をお渡ししなさい」
アレトニア聖教会内において、衆人観衆の中での奇跡の発現はおよそ百二十年ぶりの事である。元来聖職者は日常的に酒を飲むことはないが、祝い事の際に樽を開けて民衆に配ったり、そういう時には自分たちも少量嗜んだりといったことはある。
葡萄酒は祭典用に教会地下に一年分の瓶詰めのストックがあるはずだ。
司教はかしこまりました、と一礼して、夫婦を伴って出て行った。参列者の祝福が終わって聖歌を全員で歌うのが約束事だから、先に祝福を授けた者たちも聖堂内の最後列の席に座って待っているのがみえる。今日の参列者全員に葡萄酒を持たせることができるだろう。
彼らは幸運だ。奇跡の目撃者になれたのだから。
夫婦が出て行ってからまた人々はざわざわと落ち着かないようだったが、しばらくすればそれも落ち着いて、法王は再びいつもどおり教典を手にとった。
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