8・心体

 正妃候補が後宮に入宮したのは、年が改まってすぐの事だった。

 候補者の居住地の関係上、居を移すにあたって与えられた移行期間は二週間とされている。

 アレックスはシノンの別邸から侍女のキミーを連れ、後宮に与えられた自室に入ったばかりだった。

 持ち込んだ私物の片づけをキミーがする間、アレックスは手持ち無沙汰に窓の外を眺めている。眼下に広がる庭園は白く覆われて、今は草花の彩を見つけることはできない。

 それでも、シノンの別邸に比べたらここはまだ暖かい。キミーと連れ立って邸を出たとき、シノン領内の道中は根雪が凍って、移動するのに難儀した。それを思えば、見える積雪は多くない。

 それでも冬には違いないから、部屋の暖炉には火が入れられていた。

 薪が爆ぜるパチンというかすかな音を耳に拾った時、部屋の扉を誰かが叩く。

 キミーが出迎えると、そこには年嵩の侍女と、若い侍女が立っている。前者は女官長のナタリー夫人、後者はサラである。

 つまりあの王太子の読みは当たったということなのだろう。

 ナタリーは子爵位を持つバレッサ家の当主夫人だったが、嫡男に家督を譲った際に請われて後宮に女官長として着任している。ゆえにナタリー夫人と敬称するのが正しい。

 アレックスは窓際から部屋の中央の応接セットに移動して、その一つに座った。

 ナタリー夫人はサラを連れて、その近くまでやってくる。

「本日より部屋付きでお世話をさせていただく、侍女をお連れしました。サラ・ベルモントでございます」

「カイルラーン殿下より伺っている。よろしく、サラ」

「サラ・ベルモントでございます。アレクサンドル様、よろしくお願い致します」

 真新しいお仕着せに身を包んだサラは、その場でペコリ、と頭を下げた。

 爵位の低い家の者が、王城で働くのは珍しいことではない。もとより後宮では、身元のはっきりした者しか働けないからだ。

 カイルラーンが言っていた正妃選出を別においても、二年間後宮で働くのは、サラにとって悪い話ではない。

 王宮が身元を認めたということでもあるし、行儀見習いとしても箔がつく。

 どちらにせよ、男爵家の令嬢としてではなく侍女として後宮に入った以上、アレックスはサラにとって主になる。

 人前で公私の別はつけなくてはならない。サラもわきまえているのだろう、きちんとした挨拶だった。

「入宮されるにあたって、陛下より厳命がございます」

 ナタリー夫人はそう言って、アレックスに王命を説明した。

 先の後宮が解体される前、そこで不幸なことが続いた。それを今回の後宮でも繰り返さぬよう、意図的に他者の体を損なうような行為があった場合、それを命じた者はもちろんの事、主の為と使用人が勝手に事をなした場合でも、その責は主家に向かう。それが死人や重篤な不調を得るような場合、爵位の取り消し、死罪もありうる。また、貴族としての品位を著しく損なう言動があった場合は、王家の判断で正妃候補の取り消しを行う。

 説明が終わると、女官長は一通の書類をアレックスの前に置いた。目を通すと、それは説明のあった王命を了承したという確認書だった。

 アレックスは、さすがにぬかりがないな、と腹の中で思う。

 書類を見たキミーがペンとインク壺を持ってきたので、自筆で了承のサインを記す。

 それでは、とナタリー夫人はサラを置いて部屋を出て行った。

 アレックスは改めてサラの方に体を向ける。

「久しぶりだね、サラ」

 声をかけると、サラは満面の笑みを浮かべた。

「アレクサンドル様、夜会の折には大変お世話になりました」

「アレックスでいいよ。私の侍女になって良かったの?」

 本当に自分の意思でここに来たのか聞いておきたかった。

「では、アレックス様と。はい、あの夜会で私と踊っていただいたあと、殿下と踊られるアレックス様を見ました。それを見て、やはり正妃候補はご辞退申し上げようと決めました」

 敵わない、と心から思った。自分と踊っていた時のアレックスはまるで男性のようだった。けれど王太子と踊ったアレックスは、完璧な淑女でもあった。美しく、そして優雅で、華やかで。

 ワルツ一つとっても完璧には踊れない。それでも練習はあれほど大変だった。それなのに、男性ポジションでも女性ポジションでも完璧に踊りきって見せたアレックスの努力はどれほどのものだっただろう。

 自分のような者が、甘い考えで正妃候補になどと、おこがましいと感じてしまった。

 それと同時に、あっさりと諦めてしまえる自分を自覚してしまった。しょせん物語の中の淡い恋愛に憧れていただけだった、と。

「正妃候補の辞退を連絡致しましたら、それならば後宮に行儀見習いに上がらないかと打診を頂きまして……アレックス様のお部屋付きだというのでお受けしてしまいました」

 改めてよろしくお願いします、とサラは頭を下げた。

「ああ、こちらこそよろしく。サラはいつからこちらに?」

「あの夜会のあとすぐに。仕事を覚えなくてはいけませんでしたので」

 それならば自分よりもひと月以上早く後宮に入った計算になる。

「キミーを紹介しておく。私には十年以上ついてくれている侍女だが、後宮の事はわからないからサラが教えてやって欲しい」

「よろしくお願いしますね、サラさん」

「はい、こちらこそよろしくお願いしますキミーさん」

 キミーとサラは挨拶を交わしたあと、ふたり揃ってまた荷物の片づけを再開した。

 楽しげに会話しながら手を動かす二人を眺める。これなら仲良くやっていけそうだ、とアレックスは安堵の笑みを浮かべた。



 入宮から三日後、騎士団の訓練が始まった。

 アレックスは部屋に届いていた騎士団の隊服に着替え、支給品の剣を持って部屋をでた。早朝の廊下には人気がなく、吐きだした息が白く濁る。

 冬の朝の頬を切るような空気に身は強ばる。けれど、アレックスはこの清浄な空気が好きだった。大きく吸い込んで肺に満たせば、体の内側が洗われて、寝ぼけた肉体が目覚めるような気がする。

 内宮を抜けて外宮までたどり着くと、そこで初めて一般兵の姿が見え始める。誰かにすれ違うたび、相手が驚いたような顔になるのが面白い。間違えて子供でも混じっていると思われているのだろうか。

 外宮の本通路から騎士団へと続く枝道へ入り、しばらく歩き続けて演習場へたどり着く。

 ここ数日の晴天で地を覆っていた雪は溶け、日陰に少し残る程度だ。

 事前に場所を確認しているから迷うことはないが、それでも少し早めにつくようにやってきた。今日が訓練初日でもあるし、始まる前に体をほぐしておきたかった。

 まだ早い時間だから人影はまばらで、近くに人もいないので言葉を交わす事もない。

 それでも邪魔にならないよう端の方に移動して、そこでゆっくり時間をかけて筋をのばしたり肩甲骨を開いたりして準備する。

 武人は体が資本だから準備運動なしに訓練するな、と祖父に口を酸っぱくして言われたものだ。筋を違えたり、肉離れを起こしたりするのはクセになるからと。

 だから一人で鍛錬するときも同じようにしていた。ゆったりした動きでも、きちんとした準備運動をすれば、自然と体は温まってくる。

 血の巡りが良くなって、外気の寒さが和らいだように感じる頃になると、続々と団員が集まりだした。

 人が多くなれば自然と隊服の違いが目に付く。階級に応じて隊服そのものの色が違うのと、同じ色の隊服でも、その級数に応じて腕章の色が違う。

 アレックスの隊服の色はグレーで腕章は白。これは師団内で最下位を意味している。

 騎士団は実力社会だ。祖父の威光で階級は買えない。ましてや完全な男ではないからといって手加減も目こぼしもしてもらえない。

 もちろんそんな事は最初から分かっていた事だし、望んでもいない。実力で認めてもらわなければ、身を立てることもできないのだから。

 やがて階級ごとに並ぶようにと士官らしき人物から指示があった。士官の隊服の色は濃紺。

 アレックスは自分と同じ色の一団を見つけて、その最後尾に黙って並んだ。また、近くにいた幾人かが自分の顔を確認したとたん驚愕している。

 何がそんなにおかしいのかわからないが、アレックスはそれを無視した。

「お前さ、なんか来るとこ間違えてない?」

 隣に立っているやつが言う。自分より上背があるそいつの顔は見上げないと確認できないので、前を向いたまま小さく返す。

「隊服が見えないのか」

「だよな、それやっぱ隊服だよな」

 納得したような口ぶりで、それきりそいつは口をつぐんだ。

 その日の午前の訓練は、剣を背負ったまま黙々と走ることと、薪割りだった。

 ああ、懐かしいな、とアレックスは思う。祖父とやった鍛錬に同じものがあったからだ。

 それでも、久しくやっていなかったから、体が鈍っているような気がする。ペースを維持して走り続けるが、走り込む程になまった体が不満を漏らす。終了の号令がかかる頃には、心音がうるさいくらいに跳ねて、脇腹が差し込んだ。額からは汗が流れて行く。呼吸を整えながら袖で汗を拭うと、冬の乾いた寒気が蒸された髪を撫でていった。

 薪割りもローゼンタールの本邸でよくやった。斧を振るその動作は、剣を扱うそれに似ている。王城内でつかう薪の一切を騎士団で割っているらしく、山積みにされた丸太は隊舎の裏側に保管されている。そこに白の腕章組全員で移動して、ひたすらそれを処理していく。

 そもそも騎士になろうなどという者は自分の肉体に自信があるものが多い。なまじ腕力があるから大振りで斧を振るが、それではこの膨大な量の薪は捌ききれない。

 アレックスは繊維方向を見極めながら薪割り台に木を置いて、てこの原理を使って最小限の力で黙々とそれを処理していく。剣を使った鍛錬はほぼ日課にしていたので走り込むよりも薪割りのほうが楽だが、それでも数を稼げば、背筋が痙るような感覚が襲う。やはり基本に立ち返る事は必要だな、と改めて思う。

 結局ほかには会話を交わすことなく、午前の訓練は終了した。


 騎士団事務所に併設されている団舎には兵士の為の食堂がある。アレックスは他の者に倣ってトレイに昼食の皿を受け取り、出入口に近い端の方の空いた席に座って食べ始めた。

 すると、前に人が座る気配がする。何となく視線を向けると、自分と同じグレーの隊服に白の腕章を付けている。

「新入り、名前は?」

 声を聞いて分かった。さっき話しかけてきたやつだ。

「アレックス。アレクサンドル・ローゼンタール」

「ローゼンタールって、あのローゼンタール?」

 あの、が、どれなのか思い当たる事が多過ぎるが、それを問うても始まらないので、短く「そうだ」と返す。

 そいつは短く口笛をひと吹きして、先を続ける。

「虫も殺さぬような女顔で騎士団入りとは、おまえも大変だな」

「大変? 意味がわからないが」

「文官にでもなりゃ良いくらいのナリなのに、わざわざ騎士団たぁ武の名門も大変だってことだよ」

 勘違いも甚だしいが、人は見たいようにしか物事を見ないのは分かっているから肯定も否定もしなかった。

「あんたの名前は」

 そいつの瞳をじろり、と見上げて問う。

「ああ、俺? ロル。ロル・マーレイ」

 よろしくな、と気安い風に言って、ロルは昼食を食べ始めた。

 アレックスも短くよろしく、とだけ返して、止まっていた手を動かし始めた。皿に載った昼食は肉体を酷使する者たちのために量が多く、結局全部を食べきることはできなかった。

 午後からの訓練は剣の組手と筋力トレーニングだった。近くにいたからか結局組手はロルと組まされる事になった。

 階級が上がると真剣での組手もあるようだが、最下位のアレックス達では訓練用の木剣を使用する。隊舎の備品庫から持ち出した木剣の握りに巻かれた皮は人の手形に変形していて、一般的な騎士より手の小さなアレックスには持ちにくい。

 手になじまないそれを握って、ロルの前に立つ。演習場の一画に並んだ白腕章組は、始め、の合図とともに打ち合いを始めた。

 人との打ち合いはどれくらいぶりだろう。大きく息を吸って、ロルが打ち込んでくるのを待つ。

 こうして直視してみると、彼も騎士として恵まれた体格をしている。夜会で見た王太子や祖父ほどではないが、がっしりした上半身に長い手足を持っている。鳶色の髪に琥珀の瞳。アレックスは長年の鍛錬で覚えた自然体で構えて、その瞳をひたと見据える。

 打ち合うときは、余分な力を入れてはいけない。いきむと筋肉がこわばって、反応速度が鈍くなる。

 

 ―――来る


 かち合ったロルの視線がスッと途切れ、彼の体が動きはじめるのが分かった。

 振りかぶったそれを両手で受け止め、左右に振られながら差し込んで来る次手をいなして片手で流す。そのまま数回アレックスが受ける形で打ち合う。

 肩と腕にかかる衝撃は重い。恵まれた上半身から叩き込まれる剣はそれなりの圧力を伴う。だが、祖父の剣に比べれば軽い。

 いなしてなぎ払った片手を両手持ちに変えて、そのまま体をひねって真っ直ぐに差し込む。筋力の不足を剣に回転を加える事で補う。これがアレックスの剣の型だ。

 音もなく流れるように剣先がスッとロルの喉元に突きつけられる。そのまま突いてしまえばいくら木剣といえども怪我は免れない。

 皮膚に届く既の所でアレックスは剣を止めた。同時に、ヒュッとロルの喉から息が漏れる。

「参った」

 驚いたように目を見開いたまま、ロルは呟いた。

 剣を下ろして礼をすると、周囲がやけに静かなのに気付く。いつのまにか、他の者たちは興味深そうにこちらを見ていた。



 訓練も七日を過ぎると、一晩寝ただけでは取りきれない疲労が蓄積されていく。初日こそそれなりに終わった訓練も日を追うごとに厳しさを増し、夕焼けが見え始めた頃に上官の終了の号令が掛かったときには、動く事が億劫になっていた。

 全身の筋肉痛は文句を言うようにしくしく鳴いて、疲労は脳の動きを緩慢にしていた。

 腰に吊った支給品の剣さえも今日はやたらと重く感じる。

 それでも明日の訓練は休みだから、今を乗り切りさえすればゆっくりできる。

 アレックスは馬上槍術用の長い棍を備品庫に返しに行こうと、杖がわりに体重を預けていたそれを地面から離す。

 そこに、聞き馴染んだ声がかかる。

「大丈夫かよ、アレックス」

「ああ、ロルか。大丈夫だ」

 声の方に顔を向けると、そこには既に棍を返却し終えたロルが立っていた。

 片付けが終わればあとは各自の自由時間なので、本来ならそのまま宿舎に帰るだけである。わざわざここまで戻ってきたという事は、何か自分に用があるのだろうか。

「どうかしたか」

「いや、さ」

 ためらうような素振りで先を言い淀んだロルに、首をかしげる。

 ひと時の後、決意したようにロルは口を開いた。

「お前、さ……王太子殿下の正妃候補だって本当なのか?」

 そのうちバレるだろうとは思っていた。だからその事に驚きはしない。そもそも師団に入っておきながら、既婚者でもないのに宿舎に部屋がない時点で充分怪しい。どこかで誰かが噂していたとしても、それは責められない。

「ああ、それがどうした?」

「それが本当なら、こんなとこに居なくていいんじゃねぇの」

「選ぶのはあくまで殿下だよ。私には私の都合があるからね」

「都合ってなんだよ」

「私は家督を継げないからね。自分の道は自分で切り開くしかないんだよ」

 君と同じようにね、と続く言葉は飲み込んだ。

 公爵家の当主でありながら騎士団長をしていた祖父が異例だっただけで、そもそも家督を継ぐ嫡男は騎士団になど入らない。領地経営と軍人の掛け持ちは両立しにくいものなのだ。つまりは、おそらくこの目の前の男も、貴族社会に生まれながら家督がなかったということになる。

 納得行かないような表情を浮かべたロルは、食い下がるように先を続ける。

「正妃候補って事は女なんだろ?」

 諦めに似た失望が胸のうちに広がった。疲れた体でロルの相手をするのが面倒だった。

 アレックスは作り笑いを浮かべてロルの瞳を見つめる。

「人は福音を奇跡というけれどね、私にとっては呪いだよ。私の気持ちはロルには分からない」

 それはアレックスの拒絶の言葉だった。

 ロルは一瞬ぐっと顎を引いて、きまりの悪い顔を反らす。

 アレックスはそれ以上何も言わず、その場を立ち去った。

 吐きだした拒絶の言葉が、己の心を切り裂いたような気がした。

 備品庫に棍を返却して、後宮へと疲れた体を叱咤して歩く。内宮を抜けて後宮への渡り廊下を抜けきった時、一番出会いたくない人物に遭遇してしまった。

「まぁ、アレクサンドル様。勇ましいお姿ですこと」

 そこに立っていたのは侍女を連れたアゼリア・ハイリンガムだった。

 よりによってこんな時に、と内心で毒づくが、それを表情には出さない。

 訓練の疲れなどない、という表情をして口を開いた。弱みを見せてなどやるものか。

「これはアゼリア嬢、夜会以来ですね。お元気そうで何より」

「殿下の師団にお入りになられたとか……そうまでして殿下のお心を求めていらっしゃる、と今城内ではこの話で持ちきりですのよ」

 ああ、とアレックスは納得する。ロルはこの話をどこかで聞いたのだ。

 ねっとりとした笑みを手にした扇で隠しながら、アゼリアは続ける。

「うらやましいですわ」

「ははは、うらやましいですか? 本当に?」

 腹立たしい限りだが、アレックスは笑い飛ばして見せる。さも楽しげに、信じられない、といったふうに。

 それを見たアゼリアはというと、不愉快な顔をして扇を握った。パシ、と広がったそれが勢いよく閉じる。

「殿下も見くびられたものですね。こんな事であの方の心が手に入るなどと皆に思われているとは……あの方はそんなに安くありませんよ。私が騎士団に入ったのは私の事情ですが、仮にそれで本当にあの方の寵が得られるのなら、貴方は騎士団にお入りになりますか?」

 やれるものならやってみるがいい、と思った。そんなくだらない理由で肉体を酷使する馬鹿がどこにいる。隊服を着るよりドレスを着た方が確実で楽だ。

「騎士団に入られたなら、男性でいらっしゃる、という事ではありませんの? 正妃候補はご辞退なさったら?!」

 質問に対する答えになっていないな、とアレックスは冷めた目でそれを見つめる。

 苦し紛れの癇癪ほど見苦しいものはない。

「私の師団入りは陛下がご許可されたものだ。それでも後宮にと望まれて入宮したのです。選ぶのはカイルラーン殿下であって私ではない。条件で言えば圧倒的にあなたのほうが有利だ。正真正銘の女性なのだから」

 私に喧嘩を売るな、と夜会でも威嚇しておいたのに理解できない者に容赦などしない。

 清々しいほどの笑顔を浮かべてアレックスはとどめを刺しに行く。

「男の私に負けたら大変ですね」

 唇を噛んで顔を反らしたアゼリアに追い討ちをかける。

「ああ、そうそう。私の侍女になにかしたら、あなたを本気で潰しますから」

「家名を傘に着てわたくしを脅すのですか」

 青ざめた顔で反論してくるアゼリアに冷たい視線を返す。

「ははっ、あなたがそれを言うのか。何もしなければこちらも何もしない、と申し上げたまでですよ。でも、やられて黙っているのは私の性分ではないので、本当にそうなったら使えるものは全て使ってお返しします」

 覚えておいてください、と冷たく微笑んで、アレックスはアゼリアのとなりをすり抜けた。

 視界の端に写りこんだ彼女のドレスのスカートの裾を見送る途中で「失礼」と吐き捨ててその場を去った。

 心がささくれだって、どうも攻撃的になってしまうな、とアレックスは溜息をついた。

 体も心もクタクタだった。とにかく休みたくて、自室に帰りつくと倒れるようにソファに沈み込む。体を投げ出して天を仰ぐと、そこにサラがやってきた。

「アレックス様おかえりなさいませ」

「ただいま、サラ」

 せめて起き上がりたいが、体に根が生えたように動くことができない。

「お疲れですね。お風呂の用意をしてまいりますね。それまでそのまま少しお休みになっていてください。準備ができたらお知らせしますから」

「頼む」

 はい、と言ったサラの声は本当に聞こえたのかどうか。そのまま墜落するようにアレックスは意識を手放した。


 どれくらいの間眠っていたのか。サラに起こされて、軋む体をなだめながら湯に浸かる。そこでも意識していなければ、うっかり眠ってしまいそうになる。

 いつも介助でついてくれるキミーが、心配そうな表情をしている。

「騎士団の訓練はそんなに厳しいんですか?」

「王太子殿下からキツいとは聞いていたけどね。さすがに精鋭ぞろいだし、訓練に妥協がないよ」

 洗髪が終わって、頭から湯をかけられる。バスタブの中に、白く濁った泡が浮かぶ。髪全体の泡が消えるまで何度かそれをくり返し、最後は体を洗うためにバスタブの栓を抜いた。

 貯めていた湯が完全になくなると、バスタブの中でアレックスの白い裸体が顕になる。

 鍛えているから全体的にうっすらと筋肉が見て取れるが、それでも男というには華奢過ぎた。

 幼少期からずっとついてくれているキミーには見せられても、サラにはまだこの姿を晒すことができないでいる。

 中途半端な自分の肉体は、否応なく呪いを認識させて劣等感を抱かせる。

 キミーとサラを同等に扱うと心に決めていたのに、それだけはしばらくできそうになかった。

 風呂を上がって清潔な衣類に着替え、髪を乾かしながら部屋に戻ると、そこには夕食の用意が整っていた。

 体を酷使したあとだから腹はもちろん空いている。目の前には後宮の料理人が手をかけたのだろう料理が並んでいる。

 風呂に入っている間にサラが調理場から運んで用意してくれたのだろう。せっかくだから食べよう、と席につく。だが、肉料理のソースの匂いが鼻に付く。

 メイン料理である肉を避け、パンや野菜、スープから先に手をつける。だが、スープも乳製品が使われていて、全体的に味が重い。

 一向に肉料理に手を付けない様子をみて、サラが心配そうに声をかける。

「味がおかしいですか?」

「いや、そんな事はないよ、大丈夫」

 アレックスは笑ってそう返して、肉料理にナイフを入れた。

 口に運んで咀嚼する。体を維持するためにちゃんと食べなくては、と飲み込んだ瞬間だった。

 猛烈な吐き気を催した。思わず口元を手で抑える。

 そのまま化粧室に駆け込んで、トイレの蓋を開けた。

「うっ……ぐっ」

 体に任せるまま吐き気が収まるまで出し切って、アレックスはバスタブのヘリに背中を預ける。

 慌てたようにサラとキミーがやってくる。

 口の中が粘ついて、ひどい臭いがしていた。こんなになってまであの男の寵が欲しいなどと、そんなおかしな話があるか、とアレックスは思った。

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