10・対話

 まだ夜も明けきらぬ早朝、人気のない街道に幌馬車三台分の蹄鉄音が響く。それらは一定の速度を保ちながら離れぬように進んで行く。

 荷台には、防寒仕様の王国騎士団の隊服を着込んだ者たちが詰め込まれている。隊服の色はグレー、腕章の色は白。階級で言えば一般兵の上、上等兵となる。師団兵は全員この階級での入団となる。

 幌馬車は王都を離れ、一路王族の直轄地である南領ハシャトリムにある低山ロブロフォスを目指していた。

 数日続いた晴天は終わり、ここ何日かは粉雪が舞っている。街道に積もった柔らかい新雪に、幌馬車の轍が引かれていく。踏まれた新雪がギュウギュウと悲鳴をあげる。

 アレックスは二台目の馬車の御者台に近いところに座っていた。片膝を立てて支給品の剣を抱き込み、背嚢を股の間に寄せている。

 サラが女官長に相談したらしく、食べやすい食事が出るようになってから体調はほぼ元に戻っていた。

 それでもこのあとの事を考えて、アレックスは剣の柄に額を載せて目を閉じている。

 寒気と振動で熟睡する事は出来ないが、思考は完全に停止していた。折れて露になった寒々しい首元で括った薄い色味の金髪が垂れて、馬車の振動に合わせて揺れている。

 アレックスの向かい側には、ロルが幌に背を預けながら両腕を組んで首を折っていた。

 荷台に乗り込んですぐはそれなりに団員同士の会話も聞こえたが、時間が経つとともにいつしかそれも無くなって、皆押し黙って目を瞑っている。

 連なって走り続けること一時間あまり、一行は野外演習地であるロブロフォス山の登山道入口に到着した。

 幌馬車が停まったのを感じ取って、アレックスは剣を腰に吊り直し、背嚢を背負って荷台を降りた。空を見上げると、夜はすっかり明けて、山の稜線から登りはじめた陽の光が目にしみる。

 幌の中は冷えているように感じたが、団員達の人いきれでそれなりに暖かかったのだと気付く。呼吸は白く凍り、撫でて行く冷気で頬が痛い。遠く離れたモアレの空気に似ている、とアレックスは思った。

 師団入りしたばかりの上等兵が必ず受けるのが、この雪山での雪中行軍訓練である。

 戦争は条件の良い地形や季節ばかりを選べない。将来一般兵を率いてゆく上等兵以上の士官にとって、悪条件下での行軍知識は欠かすことができない。隊を全滅させないためである。

 登山道から山頂までの登りは基礎体力訓練となっており、本当の意味での訓練は降りからとなる。

 まずは上位士官が先導しながら、三十名からなる上等兵は山頂を目指す。

 王城を出発する前に、一行は上官から降りのペアを通達されていた。アレックスのペアはロルだった。あくまで各兵の能力値のバランスを取った結果という説明もあった。

 太陽が完全に昇りきったのを機に、上官の合図とともに一行は山を登り始めた。

 訓練だからもちろん皆私語などしないが、アレックスに至っては城内に流れた噂の影響か誰も必要以上に話しかけて来ない。アゼリアとやりあったあの日以降、気不味いのかロルも話しかけてこなくなった。

 入団前からこうなる事は予想していたから、それを気に病んだりしない。それでも、いつか性別や生まれなどではなく、自分という人間を見てくれたらいいな、とアレックスは思う。どんなに頑張ったって、自分は自分にしかなれないのだから。

 人の手が入った登山道は登りやすい。それでも、小雪がちらついて足元が悪い中、背嚢を背負っての登頂はそれなりに体力を消耗する。

 白く覆われた斜面を蛇腹に折れながら登って行くそれは、自分と向き合うことに似ている。こんな標高の低い山でも、すぐそこに見えている気がする頂が遠い。

 鍛錬と称して祖父と二人雪山を登ったことも記憶に新しい。入団してから受けてきた訓練は、どれも祖父とやっていたものばかりだった。おそらくグスタフはこうなることを予測してあえて同じ訓練をアレックスにやらせたのだろう。

 自分の血の半分はローゼンタールでできている。武門の家柄、名門ローゼンタールと言われるが、祖父を筆頭に軍籍に身を置く一族がその名に恥じないよう努力してきた結果だということをアレックスは知っている。

 だから負けてはならないのだ、くだらない外圧や自分自身の弱さに。

 休息をとりながら、六時間ほどかけて山頂にたどり着く。士官以外の上等兵から一斉に歓声が上がる。

 登りきったという達成感と、山頂から見下ろす景色の美しさ、ごうごうと抜けてゆく風。ちらついていた雪は姿を消し、遮るものなく見通せる空はどこまでも遠く広がっている。

 登り切るまではいつ着くか分からない焦燥と疲労にじっと耐えるだけだが、この達成感と開放感があるから登山は楽しい。グスタフとの訓練でも山登りは比較的好きな部類に入っていた。

 一行はしばらく山頂で水分補給などをして休息をとったあと、副師団長ソルマーレ・ルドンの号令とともに立ち上がった。

 ソルマーレの隊服は白地に臙脂の縁取り、腕章はない。これは各正副師団長、王太子も同様で、全ての師団員はこの隊服を目指す。

 副師団長はその場に立ち上がった全員を俯瞰しながら口を開く。

「下山についての説明を行う。お前たちには出発前に連絡のあった者とペアになり、登山道以外のルートで地上を目指してもらう。下山期限は二日後の日没までとなり、何らかの理由で下山が完了できなくてもペナルティはない。なお、各組に必ず一人士官が付く。この士官は採点者となり、下山ルートの選び方、道中の問題処理能力等の総合的な点数付けを行う。あくまで士官は採点者で、帯同してお前たちを観察するだけで助言は一切行わない。低山とはいえ遭難する危険を伴うので、生命に危険有りと判断した場合には訓練中止を士官が宣告する。訓練中止後の下山は士官主導で行う。ここまでで何か質問のある者はいるか?」

 ソルマーレの最後の言葉に、上等兵が手を上げる。

「複数の組の下山ルートが被ってしまった場合にはどうするのですか」

「八合目から各組に指定の方角がある。分岐点は同行の士官から指示がでるのでそれに従うように。分岐後、途中で他の組に遭遇する場合もあるだろう、それは不可抗力なのでとくに問題はない。だが、あくまでペアでの訓練だということを忘れるな」

 つまり、途中で別の組とルートが被っても、一緒に行動するなということだ。

 それから、とソルマーレは先を続ける。

「下山までの所要時間が短いからといって点数が高くなるとは考えるな。この採点次第で腕章の色が変わるから頑張れ。以上散開!」

 ソルマーレのよく響く声が頂で残響し、それを合図に上等兵たちは速やかに山を降り始めた。八合目までは元来た道を引き返すだけなので、比較的スムーズだった。皆一律の速さで移動する必要はないので、体力に自信のある者は先を急ぎ、採点者である士官の濃紺の隊服とグレーの隊服が入り乱れて、バラバラになっていく。

 他の者はどんどん遠くなり、離されて行くが焦ってはいけない。降り道ほど膝に負担がかかるものだ。

 歩調を合わせるようにして後ろを行くロルに声をかける。

「すまない、焦れるだろうが許してくれ」

 自分よりも歩幅の広いロルならば、おそらくペースを保ったままでももっと速く行ける。だが、アレックスに合わせているから、どうしても遅くなる。

「構わねぇよ。気にするな」

 そう、後ろから返って来る。前を向いているからロルの表情はわからないが、口調は穏やかだった。少なくとも会話にはなる。今はそれだけでいい、とアレックスは思った。

 八合目にたどり着くと、すでに他の組の姿は無かった。現場指揮をしている関係からか、ソルマーレとその副官であろう士官の姿だけがそこにある。

「お前たちの分岐点を伝える。ついてこい」

 ロルの後ろに帯同していた士官から声が掛かった。

 黙って頷いて、分岐点までついて行く。指示された場所に行ってみると、道とも言えない獣道が続いている。

 アレックスは天を仰いで空を眺めた。

「アレックス、行くぞ」

 ロルの声が聞こえたが、アレックスは首を振った。

 彼は今にもその獣道に踏み入ろうとしている。

「ロル、今日はもうここで野営にしよう」

 アレックスの言葉に、ロルは怪訝な表情を浮かべる。

「もう疲れたのか?」

「そうじゃない。この獣道を行くという事は、おそらくしばらく平坦な場所がない。私たちが入山してもう既に八時間以上になる。日没まであと二時間程しかない。ここで野営して方角を確認したほうがいい」

「まだ明るいだろう、日没まで二時間てそんな正確にわかるのか?」

 ロルの疑問に、アレックスは空に浮かんだ太陽を指差した。

「太陽の位置で時間はだいたいわかる。日没までの時間はそんなに残っていないし、もしかしたら天候も荒れるかもしれない。平坦な場所で野営して体力を温存する方が良いと思う」

 祖父との訓練で山には何度も入っている。だから登山の知識はそれなりに持っている。

 今の状況から判断して野営するのが良いとは思うが、ロルとペアを組んだ以上、彼の考えは無視できない。あくまでそれが良いと思う、と言うにとどめる。

「わかった、ここで野営しよう」

 アレックスの提案に、ロルは気分を害した風もなく了解した。

 それから、とアレックスは傍に佇む士官に顔を向ける。

「士官殿、助言はしない、との事ですが、装備品をお借りする事は可能ですか?」

 アレックスの言葉にロルは焦ったような表情になる。

 名も知らぬ士官は、首をかしげた。

「どういう意味だ」

「この場所は平坦ですが、遮るものがないのでテントに風が直撃します。幄を三枚重ねで設営して、全員一緒に入れば防寒性が上がって体力を温存できます」

 アレックスの言葉に、士官は一瞬真顔になってから目を細めた。彼はそのまま考え込むような表情を見せてから口を開いた。

「良いだろう。俺の幄も使うがいい」

「ありがとうございます」

 アレックスは頭を下げて、獣道から近い比較的平坦な場所に背嚢を降ろした。

「お前びっくりさせるなよ」

 アレックスに近寄ってきたロルが、言葉とはうらはらに怒っている風ではなさそうに小声で言う。

「副師団長からの注意事項に士官の装備を借りるのを禁じる言葉は無かったからね。生存率はあげておかないと」

 そういって軽く笑って見せると、ロルは苦笑いを浮かべた。

「ほんとお前は物怖じせんというか、肝が太いというか……」

「よく言われるよ」

 そう返して、アレックスはニッと笑った。


 

「わぁ、今年の白腕章には面白いのがいますね」

 死角になった場所から天体観測用の携帯望遠鏡を使って、アレックス達をこっそり覗き見している男が言う。男の隊服の色は濃紺。

「あれ、例の半分姫ですね」

 半分姫とは、最近アレックスについた渾名である。もちろん揶揄されているから良い意味ではない。

「ここで野営の選択をしたのがそんなに面白いか?」

 ソルマーレは副官の言葉に無感動に返す。

 下山期限を二日とっているというのに、アレックスの組以外は先に進んでしまった。

 指揮をとっている自分たちはもちろん正規ルートで下山するが、もし上等兵と同じルートで下山せよと言われたら、彼らと同じ選択をしていた。

 だが、それ自体は登山経験者なら上等兵でも想定できることだから、特に驚きはしない。むしろ、その選択をした組がアレックス組以外に居なかった事の方が気になる。

「ちがいますよ、ウォードの幄まで使ってますよ」

「ああ?」

 ソルマーレは怪訝な表情をして、副官の手から望遠鏡をひったくる。

 覗き込んだそのレンズ越しに、アレックスと一緒にペア指定されたロル・マーレイが協力して幄を三枚重ねにしているのが見えた。

 その大胆な行動に、ソルマーレは笑みを浮かべる。

「士官の装備を借りるなとは言ってないからな、考えたな」

 今から下山しても、野営に最適な場所のある四合目には日没までにたどり着けない。だから、自分たち指揮官組もここで野営する事に決めていた。しかも、アレックス達と同じように幄を二枚重ねにしようとしていたのだ。

「どっちが言い出したんでしょうね」

「ウォードの報告を見ればわかるが、おそらくアレックスだろうな」

 渦中の半分姫―――ローゼンタールの秘蔵子。

 ベリタスに聞いたところによると、殿下はアレックスの手を見て師団配属を決めたという。

「殿下の判断はまちがっていなかったという所だろう」

「僕もうかうかしてられないなー」

 歳の割には童顔の部下が言う。

「そろそろ俺たちも野営準備するぞ、ルカ」

「はーい」

 場にそぐわないなんとも間延びしたルカの返事が返ってくるが、いつもの事なので気にしない。

 ソルマーレは、上等兵とほぼ同じ装備の詰まった背嚢に手を伸ばした。


 

 日暮れすぐに、士官はしばらく席を外すといって姿を消した。直属ではないがアレックスとロルにとって上官になるので、彼の行動に何を言えるでもない。二人はそれを了承して後ろ姿を見送ったあと、幄の前で晩餐の準備に取り掛かった。

 晩餐と言っても、煮炊きを行うわけではない。携帯ストーブを使って茶を沸かす程度である。日中寒気に晒された体を内側から温めるためだ。胃を温めてから食べないと、内蔵の動きが鈍って訓練の効率が落ちる。

 携帯ストーブに金属容器に入ったアルコールを注ぎ入れ、サラマンダーを使って火を起こす―――軍用に開発された手のひらサイズの簡易火打石である。

 金属マグに雪を詰め、ストーブにそのままかける。雪が温められ溶けて水になった頃合を見て、乾燥茶葉を適量振り入れる。煮出されるまでそのまま火にかけて、多少薄いくらいで火から下ろす。雑な淹れ方だから味を楽しむものではない。

 堅い黒パンと干し肉、ナッツと温かい茶。それで全部の簡素な晩餐だ。背嚢に収納できる容積には限度があるので、量もそんなに多くはないし、黒パンは酸っぱいだけでさほど美味くはない。

 アレックスは二重になった手袋の革で出来た外側だけを外して、火にあぶられたマグを持つ。手袋越しに伝わる温かさが、かじかんだ爪先には痛い。

「あつ……」

 ふうふうと息を吹きかけて茶を冷ましながら口に含むと、凍えた体の中を熱いものが通って行くのが分かった。じんわりと温められて、氷った体が融解されて行くような気がする。

 二人は特に会話もせず、黙々と携帯食を平らげていく。普通の食事に戻ったばかりのアレックスはゆっくりと丁寧に咀嚼することを心がける。

 手持ち無沙汰に、望遠鏡と山の地図を持ってきて、食べながら星の位置と地図を確認する。天候が荒れないうちに、現在地と方角を把握しておかなければ。

 おおまかに下山ルートを想定している時だった。

「アレックス……この間は、悪かった」

 地図から顔を上げて、ロルの顔を見る。落ち込んだような表情をしている。

「もう、気にしてない。そういう噂がたつのは予測してた。わかっていてそれでも入団すると決めたのは私だから、ロルのせいじゃない」

 もう既に食べ終わっているロルは、湯気の立つマグを座った膝の上で両手で握っている。

 うつむいて地面の一点を見るようにして、ポツリポツリと言葉を紡ぐ。

「俺はさ、なんにも見てなかったんだよな。お前が入団してきた初日、宿舎ではちょっとした騒ぎだったんだぜ。目の覚めるような美形が、あんなキツイ訓練を涼しい顔してやってのけたって」

 どこの誰だか分からない。一般兵訓練でも見かけた者がいない。そもそもそんなに目立つ外見をしていたら、師団に上がるまでに噂になる。

 それなのに、いきなりポッと現れて、文句もいわず完璧に訓練だけして居なくなる―――宿舎に部屋がないのは確定している。

 初日に好奇心に抗えず名前を聞いたが、それを知った後も半信半疑でどこかで信じて居なかった。だから誰にも漏らしていない。 

 そのうちあのローゼンタールの者だという話がどこからともなく流れて来て、一週間も経たずに正妃候補だという噂がたった。

「正妃候補だって聞いたときはさ、なんで師団に来る必要があるんだって思ったよ。俺んとこは造船業をやっててさ、爵位もらったってどこまで行っても庶民だし、兄弟多くて四男の俺には継げる家督も、技師になる頭もなくてさ」

 由緒正しい公爵家の血筋で、ましてあのローゼンタールなら、もっと楽な道を選べる。その上正妃候補だという噂が広がって、余計に疑問は心の中に広がって、やがてそれは嫉妬になった。

「体動かすのは好きだったし、とにかくすね齧ってる場合じゃなくて、手っ取り早く軍に入ったんだ。一般兵科で三年訓練して、師団に上がる時の試験でもわりと成績良かったから、調子にのってたんだよな」

 訓練を一週間も共に受ければ、アレックスの異質さには否応なく気づかされる。

 何をやらせても、それは白腕章の一団のなかで頭一つ以上抜けている。体が小さいから持久戦に持ち込めばどうなるかわからないが、それでも同じメニューの訓練では他のやつに劣ってはいない。

 戦闘技術だけでみれば、上等兵の中で勝てる奴はいないだろう。それくらい、アレックスは強かった。

 家柄、容姿、才能、どれをとっても欠点はなくて、だから余計に腹が立った。

「どれだけ組み合ってもお前からは一本も取れなかったし、すげぇ嫉妬してたよ。だから、あの日お前に自分の道は自分で切り開くしかないって言われてさ、頭をぶん殴られたような気がしたんだ」

 あの日のアレックスの言葉が頭の中で響く。


 ―――選ぶのはあくまで殿下だよ。

 

 では選ばれなかったその先はどうなるのか。

 そんな当たり前の事を思い浮かべることもしなかった。ただ恵まれているように見えたから、それだけで勝手に決め付けてしまっていた。なんの苦労もないくせに、と。

「お前が入団するまえに、俺らより厳しい訓練を受けてきたんだってのはなんとなくわかる。お前が強いのはお前が努力してきた結果なんだって……。だから、男だとか、女だとか、公爵家の血筋だとか、そんなことよりもっとちゃんとお前を見るべきだった」

 すまん、とロルは頭を下げた。いつのまにか、手にしたマグの湯気は消えていた。

 クスリ、とアレックスが笑ったのが分かった。顔を上げて、それを見つめる。

「私は、生まれつき男と決まっているロルの方が羨ましいよ。だからみんな、ないものねだりなのかもしれないね」

 ロルの目に、寂しげな表情を浮かべて笑うアレックスは、そのまま消えて無くなってしまいそうな程儚げに映った。

 

 ああ、お前にとっては正しく呪いなんだな―――

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