34・宣誓

 アレックスが後宮にやってきてから、もうすぐ一年が終わろうとしていた。

 季節は本格的な冬の扉を開き、冷え込みの厳しい朝には地上に霜が降りるようになっていた。そろそろ後宮の庭園も白く彩られるのだろう。

 一週間後、王宮では王家主催の夜会が開かれる。情勢が安定しいていれば、年末には一年の労をねぎらうという名目で、王家が臣下を招いて大規模な夜会を開くのが通例となっている。

 正妃候補という立場上出席するべきなのかもしれないが、アレックスはそれに行く気はなかった。

 女官長経由で出席せよという連絡もないし、そもそも男装すべきか女装すべきかの問題もあった。

 マダムカミナが夜会用のドレスを贈ってくれたが、それを着て参加する気にはなれない。王太子妃になる気概もないというのに、どんな顔をして女装して行けというのか。

 それと同時に、男装をして参加するのも違っている気がする。特例を認められているとは言え、正妃候補であるという立場には違いないのだから。

 後宮に上がるために参加した夜会での衣装はあくまで禁じ手であり、どうしても必要に迫られての選択で、後宮に入ってしまった今同じことをやれば、おそらく後宮からも軍からも辞さなくてはならなくなるだろう。それほどに、伯父の粛清の余波は尾を引いていた。

 ある程度はソルマーレ大佐の手元で握りつぶされているようだが、昇進して佐官の近くで仕事をしていれば、表層に取り巻いている程度の噂話ならば耳に入るものだ。

 そろそろ王家はアレックスの扱いを男女どちらかに定めよ、との声が上がっているらしい。それが自分の耳に入るのだから、中枢に行けば更に状況は深刻だろう。

 せっかく無理を押して掴んだチャンスだ。後宮から去るのは致し方ないが、軍から追い出されるのは避けたかった。

 仕事という大義名分を掲げれば回避できるだろうか、と考えながら、師団から自室への帰り道を大股で歩く。

 いくら慣れていても寒いものは寒い。宵闇に増した寒気に身を固くしながら、冷気に抗うように進めば、頬の感覚が徐々に鈍って行く。吐き出す白い呼気はすぐに掻き消えて見えなくなった。

 夜会の日には騎士団の食堂で非番の者たちも宴会をするというし、勤務希望者の少ない日に進んで交替勤務の任に着くと言えば二つ返事で許可されるだろう。

 明日の朝ユーゲント中佐に夜間警備の任を願い出ようと心に決めて部屋に帰り着いた。

「お帰りなさいませ」

 扉を開いて内側に進んで行くと、そこにはキミーが立っていた。

「ただいまキミー」

 サラの姿がみえないが、おそらく風呂の支度をしているのだろう。

 風呂の準備は時間が掛かるものだ。侍女は昼の間にバスタブに水を張っておき、入浴時間に合わせてそれを薪窯で下部から炊いて湯温を調整する。同時に、その窯の上部に置いた大鍋で湯を沸かし、その湯と水を混ぜ合わせながら、主の風呂の介助をするのである。

 貴族階級に属しているからこそできる贅沢であり、王宮で勤める侍女や侍従、騎士団の宿舎等では、風呂炊き専門の下男が管理した共同風呂に入るのが一般的だった。

「アレックス様、騎士団から荷物が届いていますよ」

「騎士団から?」

 騎士団からの荷物などと奇妙なこともあるものだ。これが季節の変わり目や昇進直後なら隊服や徽章が届いてもおかしくはないが、特に賞罰のような連絡事項は受けていない。

 剣帯を外しながら応接セットの側まで行くと、いつものようにテーブルの上に届けられた荷物が置かれている。

 そこにあったのは、大きめの箱だった。

 外した剣帯をソファの上に置いて、そのままそこに腰を下ろす。

 開けて見ると、真っ先に目に飛び込んできたのは緑の布地の上に置かれた一通の封筒。そして、そこに押された封蝋に戸惑う。紅い封蝋に押された御印はシルバルドの星―――王太子の印だ。

「キミー、ペーパーナイフを」

「はい、ただいま」

 キミーがペーパーナイフを持ってくるまでの間、同じ箱に入っていた物を確認する。

 箱から引き出してみると、それは式典用の隊服だった。褒賞式や結婚式等で使用されるものである。

 いつも着ている隊服は実務用なので装飾は少なく、丈夫で簡素な作りになっているが、箱に入っていたものは装飾が施されたものだった。コート、ウエストコート、トラウザーズ、ブーツの一揃えだ。

 書物机の引き出しからペーパーナイフを持ってきたキミーが差し出したそれを受け取って封を切る。中から出てきた二つ折の便箋を開いて内容を確認すると、そこには男性の手で書かれた字が並んでいる。

 側近を含めて王太子の周囲には男性しかいないのだから当たり前だが、アレックスにはそれがカイルラーンの手であるということが直感でわかった。

 数ヶ月一緒に働いた事があるから知っているが、少なくともこれはセーラムの字ではない。あの面倒見の良い先輩の字は、筆圧が強くてもっとインクの色が濃い。

 残るは王太子当人ともう一人の側近だが、伸びやかなその字は若々しく、そして何よりも流麗ではない。

 下手なのでも見にくいのでもないが、錬熟味を感じなかった。

 その内容はといえば、式典用の隊服を着て王家主催の夜会に出席せよと記されていた。男として夜会に出席して保守派を欺け、とも。

 その簡素な指示だけで名の記載すらないそれに苦笑する。どんな字で書かれていようとも、こんな手紙を寄越すなどあの王太子でしかありえない。

 無駄を嫌い、形式を無視する傾向のあるあの男らしい書き方だった。

 隊服を着て夜会に参加できるのは王族の警備につく近衛だけである。その例外を除いて参加することができるのは、将来的に王族の側近として重用される予定がある者と、緊急時の軍の上層部だけである。

 今回は緊急時に当たらないのだから、これを着て夜会に参加してしまえば、それは王太子の近侍につく事が確定してしまうということだ。経験年数も浅く、年齢も若いアレックスが本当に側近になれるのかは分からないが、結果はどうであれ、政治的にはそれを知らしめる事になる。

「近侍行きしか道がないのか……」

 はぁ、とため息が溢れる。

 王の側近だった父のように、いつかは近衛に上がって、仕事振りを認められて近侍に上がりたいとは思っていた。でも、それはこんなに早くではなかった。充分に経験を積んでからで構わないと思っていたのに。

 自分が政治的に微妙な立ち位置にいるのは分かっている。今の政情から考えれば、戸籍の申請よりも先に男女どちらとしての道を選択するのかの決断を迫られているのだということも。

 少なくとも、今は胸を張って女性としての道を選ぶ事はできない。消去法で選ぶなら男性としての道だが、それもなんだか腑に落ちない。こんなふうに消去法などという後ろ向きな選択をしたくていままで足掻いていたわけではないのに。

 だが、あの王太子ができる限りの猶予期間を与えてくれたのだという事は分かった。

 将来的に近侍に上がる事を示すという事は、その曖昧な時期までの間は今のままでいられるということだ。

 保守派には将来男を選ぶのだと思わせて、他の正妃候補の障害にはなりえないことを示し、側近候補として騎士の席も確保できる。

 最大限自分の事情に配慮されているのだから、夜会には参加しなくてはならないだろう。

「思っていた以上に深刻だな……」

 キミーには届かないくらいの声で呟いて、アレックスは封筒と便箋を手に立ち上がる。

 炎が揺らぐ暖炉の中にそれを落とし入れ、跡形もなく燃え尽きるのを眺める。燃え残りがないよう火かき棒で混ぜ返したあと、思い出した様に上着を脱いだ。冷えていた体が、暖炉の前で暖まって行く。

 上着の内側から父の時計を取り出し、浮き上がった禿鷹を握りこんだ手の親指でなぞった。

 無意識に、時計の蓋を開ける。キィン、と蓋を押さえたバネが撥ねる音がする。そのまま、思考するのに併せて、閉じたり開けたりを繰り返す。

 ビビアンの部屋で伯父が動いたと知った時から否応なく政治の本流に飲み込まれていく感覚はあった。あの抜かりのない王太子ですら、ここまでの手を打たなくてはならないくらいに政情は動いている。

 王族の側近である近侍は、いくら実力があっても世代が離れ過ぎていては選ばれない。

 あまりにも年が離れすぎていれば、生涯に渡って支えて行くことができないからだ。

 立太子直後には一回り離れた世代が王の選定を受けて側近につき、教育係として王太子を支える。その後に選ばれる近侍は、王太子の権限で自らが選ぶ。人の能力を測る目は、おそらくあの男は誰よりも厳しい。義務と感情は完全に切り離せるのが王族だ。使えないと分かっていて、近侍に望んだりはしないだろう。つまりは、それだけ自分の能力が認められているという証だ。そこまで能力を認めているにも関わらず、昇進を待たず側近候補として公表しようとしているのだ。

 ならば答えなくてはなるまい、王太子の配慮に。正妃候補としても、一介の騎士としても見返りなく受けられる配慮の範囲は越えてしまっている。王太子の側近候補として公の場に出るという事こそが特別扱いに他ならないのだから。

 幾度目か、弄ぶようにしていた時計の蓋を決意するように閉じて心を定めた。


 ―――ドレスを受け入れないのだから、騎士としてあなたのために働きます、殿下。


 

 王家主催の夜会が三日後に迫った年の瀬、王太子執務室は年内に処理すべき書類に追われていた。

 セーラムが戦力として増えた分昨年よりも楽になるはずなのに、父王ディーンが抱えていた仕事を引き継げとばかり押し付けてくる事が多くなった。後を継ぐ事が決まっているのだから致し方ないが、せっかく人が増えたというのに忙しさは元通りだった。

 おかげで優雅に茶を飲んでいる余裕などなく、午後も休憩なしで黙々とペンを動かしている。ベリタスは表情が死んでいるし、セーラムは書類を抱えて執務室を出たり入ったりしている。

 書類の内容に不備があればベリタスがそれを拾い上げて関係各所に差し戻してくれるが、あとは見るだけの書類とは言え、内容も確認せずにサインする事はできない。

 自筆でサインを入れるだけの簡単な事務仕事とはいえ、内容の確認をするのに労力が必要なのだ。これが案外頭を酷使する。

 目を通していた書類に問題がないことを確認して、サインを記した。

 そのまま、ペンを置いて両手を握り合わせる。

 ベリタスが書類をめくる音に重なって、カイルラーンの指の豪快な関節音がボキボキと響き渡った。

 慣れているのか、相変わらずベリタスの表情は死んだままだった。流石に疲れているな、とその横顔を眺めながら、両腕を上げて伸びをした瞬間だった。

 執務室の扉を叩く音がする。セーラムが帰ってきたのかと思ったが、すぐに女性の声が聞こえて来る。

「ナタリー・バレッサでございます。正妃候補方の贈り物をお持ちいたしました」

 贈り物、と聞いて腹黒い側近の横顔に生気が宿ったのは気のせいではない。

「どうぞ、お入りください」

 いたっていつも通りだが、長い付き合いの自分にはわかる程度にベリタスの声が弾んでいる。

 内側に入って失礼致します、と頭を下げた女官長の手には、大きな箱が抱えられていた。

「令嬢方皆様、年納めの贈り物とのことでございます」

 一年の感謝の気持ちを込めて、世話になった人や友人、家族に充てて、年末に贈り物をする風習がある。それを、年納めの贈り物と言った。

 ベリタスは席を立ち、女官長から箱を受け取る。

「承知いたしました、お預かりいたします」

 それでは失礼致します、と頭を下げようとしたナタリーを呼び止める。

「ああ、女官長、アレクサンドル・ローゼンタールに伝えておいてくれ。夜会の日の17時、内宮の出入り口まで来るようにと」

「かしこまりました、必ずお伝えしておきます」

 ナタリーはそう言ってから頭を下げ、今度こそ執務室を辞した。

 良い所に来てくれた、と内心思いながら、カイルラーンは席を立つ。事務仕事ばかりでいい加減うんざりしていた。

 応接セットの机に置かれた箱の中身を確認したくて、椅子に座り込んで覗き込む。

 ベリタスはそんなカイルラーンの様子にニヤニヤと嫌な笑みを浮かべている。

「今回は砂糖じゃないといいですね」

 式典用の隊服を手配せよと命じたのだから、この腹黒い側近に心内は読まれている。

 隠すつもりも、隠す必要もないが、それでもその表情を見ていると無性に腹がたつのは何故なのだろうか。

「お前、その顔はやめろ」

 言った所で無駄なのは分かっているが、口に出さずにはいられない。

「はいはい、早く確認してください。私も楽しみなんですから」

 言われなくともそうするつもりだった。箱の中身を一つずつ確認していく。

 この一年の間に、保守派と中立派の数が偏らないよう、慎重に吟味して正妃候補の数を減らしてきた。入宮当初より令嬢の数は半数程になっていたが、それでも贈り物の嵩が高いのか、箱の中は隙間なく埋まっている。

 負けず嫌いを煽ったら、もしかしたらアレックスの手による物が届くかもしれない、と期待して厩舎でわざと挑発してみたが、その甲斐はあったのだろうか。

 挟まったメッセージカードや封筒の名を確認しながら、アレックス以外の令嬢の贈り物を避けて行く。小さな箱についたメッセージカードに目当ての名が見て取れて、それを箱から引き上げる。

 落ち着いた色味のリボンが掛かったそれに挟まっていた二つ折のメッセージカードを開くと、そこにはアレックスらしい言葉が記されていた。

 整った読みやすい字までもが、女性的とも男性的とも言い難い。活版印刷に使われる手本のような字だった。

 ――― 剣と盾を捧げます

 それは、騎士が主君に忠誠を誓う時の言葉だった。

 分かってはいたが、それを目の当たりにすると気持ちは複雑だった。部屋に届けた式典用の隊服に添えた手紙への答えなのだろう。

 これで側近としては手の内に落ちてきた。だが、それが自分にとっての最上ではない。正妃として手に入れるには、まだ道筋が立たない。

 だが、まだあと一年ある。焦った所で始まらないのだ。

 今はとにかく贈り物だ、と箱にかかったリボンと包み紙を外す。紙箱に入った物を取り出して目を見開いた。アレックスらしい贈り物と言えたが、それは予想外の品だった。

「ああ、趣味が良いですね……武人としてこれ以上はない贈り物だ。誰からの贈り物なのかも他の者にはわからない」

 上質な黒瑪瑙細工カメオで出来た戦女神ヴァルキュリアの護符。そこに自分の名に由来するシルバルドの星の色のリボンが付いていた。金具がついているからおそらく剣飾なのだろう。

 アレトニア聖教ではこの手の護符は手に入らない。だとすれば、これはアレックス自らが誰かに作らせた物になる。

 そう言えば少し前に、仕立て屋を後宮に招いていたな、と思い出す。女官長経由で、後宮に入れても良いかとの確認が来ていたのを許可したのは他ならぬ自分だからだ。

 余談だが、ベリタスはそれを利用してアレックスの式典用の隊服を専門業者に手配していた―――保守派に知られぬように仕立てサイズを手に入れられたのだ。

 アレックスの手による物とまでは言い切れないが、確かに形に残る物に違いない。

 自分に贈るために仕立て屋に作らせたのだとすれば、それも心のこもった贈り物に違いない。心を寄せる者が、己の身の安全を願ってくれるのだから、それ以上に勝る護符などありはしなかった。

「そうだな、なかなか良い趣味だ……早速使うことにしよう」

 執務机の近くに置いてある愛剣を手に取り、その柄頭に着いた剣飾を外して取り替える。

 色合いも合っているから見栄えも良かった。

ガードの石とも色が合っていますね……前のものより見栄えがしますね」

 ベリタスはそういって、剣を手に佇む主を眺める。

 ヒルト本体は艶消しの金色、そこに嵌った石はピジョン・ブラッドルビーだった。その紅とリボンの紅が合っている。瑪瑙細工も鞘と同じ黒だから、手にした時に色合いが浮かず馴染んでいた。

 長い付き合いだからわかる。ベリタスから見たら明らかにテンションの上がっている主を微笑ましい気持ちで見つめながら、いつものように底意地の悪い笑顔を浮かべて口を開いた。

「愛しい方からの贈り物はさぞ嬉しいだろうと拝察いたしますが、正妃候補は他にもいらっしゃいますので、残りも確認してくださいね。夜会で出会った時に礼を言えないでしょう」

 その指摘に、視線の先の王太子の顔は明らかに面倒くさそうに歪んだ。

 気持ちはわからなくはないが、王族だとしても人である以上、礼儀はきちんとしてもらわなくてはならない。

「仕事も押してますし、お早めにお願いします」

 部屋の中に二人しかいないからか、カイルラーンは盛大なため息をついて何とも表現しがたい唸り声を上げた。

 一国の王太子として重責を担うカイルラーンには、常日頃可愛げなどない。だが、側近とは言え年上のセーラムには、恋敵として見せたくない姿があるようだ。彼が傍にいたら絶対に見せないのが、まさに今のような態度だった。

 それを微笑ましく思ってしまうのは、長年仕えてきた欲目というものだろうか。

 メッセージカードを執務机の中に仕舞い込み、剣を元の場所に置いて再び贈り物を確認し始めた主があまりにも可愛すぎて、ベリタスは吹き出しそうになった。

 恐ろしきは恋かな、初めて贈られた手書きのカードまでもが愛しいと見える。

 内側になんと記されているのかまでは見せてもらえなかったが、日頃気の抜けない生活をしているのだから、主にとっても自分にとってもこれくらいのご褒美があっても良いだろう。

 アレックスの贈り物に、被った豹皮を脱ぎかけた主を見ることができたので、残りの仕事も頑張れそうだ、とベリタスは思った。

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