33・縫目

 国教アレトニア聖教の教会内では、様々な護符が売られている。

 女神アレシュテナの立像を象った白瑪瑙細工カメオに、祈願内容に応じた色の短いリボンが付随している。

 アレックスが母の胎内で福音を授かった日、両親は安産祈念としてその護符を買い求めた。体の弱い母と胎児の無事を願って求められたその護符には、白いリボンが付けられていた。

 白はまだ何色にも染まっていない事を指し、誕生する赤子の明るい未来と清らかな命への願いが込められている。

 母は出産までの間そのリボンに、無事の誕生を願って刺繍を施していた。刺繍糸の色はリボンと同じ白。布地とは違って幅が狭く、長さもあまりないリボンに刺繍を施すには図案も限られてくるし、何より刺された針の一目ずつが細かくて、それを見た瞬間、母が掛けた手間暇が透けて見えるような気がした。同時に、それほどまでに自分の誕生を願ってくれていたのだ、と嬉しかった。

 マダムカミナが持ち込んだ装飾小物の箱の中に戦場の守護神ヴァルキュリアの黒瑪瑙細工を見つけた時、視線が吸い寄せられたまま外せなくなってしまった。

 アレシュテナは国の基となった最初の母であり、誕生、創造、再生、発展を表し、闇に包まれる夜を金色の光で照らす女神である。故にアレトニア聖教では死、破壊、消滅、断絶を忌避し、教会施設内で諍うこと、争いによる暴力を禁じている。

 様々な祈願内容に応じた護符を扱っているが、教義故それらの中に唯一存在しない護符があった。戦場に赴く兵士が持つべき勝利と無事を祈念した護符である。

 戦地に旅立つ騎士の伴侶、子を持つ女性は、その唯一存在しない護符の代わりに、無事に帰って来るようにとの願いを込めた刺繍細工を持たせて送り出す。

 その最も定番の図案が、戦場で唯一の加護を与えてくれるとされている戦女神ヴァルキュリアだ。ヴァルキュリアはその背に二枚の翼を持ち、槍を携えて馬を駆る荒事の神だ。

 教会が扱っているアレシュテナの護符が白であるならば、その対極に位置するヴァルキュリアは黒。護符に使うならばこれほどまでに都合の良い瑪瑙細工はなかった。

 ひらめいて、思い描いてしまったら、それを実現させてしまいたくなるのは人間の性だろうか。

 アレックスはカミナから求めた紅のリボンに、同じ色の糸で刺繍を施していた。

 紅は血の色だが、それと同時に別の意味も持っている。王太子カイルラーンの継名星の色だ。

 女神アレシュテナは夫との間に七人の子を設けた。そのうちの一人がシルバルド―――金色の恒星の近くに昇る紅の恒星である。

 女神の末裔である王族は、二番目の名に女神の子供達の名のいずれかを受け継ぐ。それと同時に騎士団の七つの師団名もそれに起因している。

 一日の終わりに少しだけ、寝るまでの間の短い時間を使って刺しているからなかなか出来上がらない。図案は星だ。

 王族は名だけではなく、星も受け継ぐ。一つ一つ図案化されていて、星と一口に言ってもそれぞれに絵柄が違うのだ。

 王冠を被った女神アレシュテナの横顔は、対外的に使っている王家の紋章だが、それとは別に女神を示す固有の星の図柄もある。

 アレックスはリボンに、シルバルドの星とアレシュテナの星を組み合わせた図案を刺し込んでいた。

 そして、見るものが見たら、その護符の持ち主が誰を表しているのかがわかるようになっている。

 アレックスは最後の一目を刺し込んで、図案の中に紛れるように結び目と糸の始末をつけたあと、針に繋がった糸をハサミで切った。

「できた……」

 表裏どちらから見ても良いように刺繍を施していたため、思った以上に時間が掛かってしまった。

 こんなに小さい物なのに、マダムが採寸に来てから一ヶ月近くも経っていた。

 アレックスは出来上がったそれと戦女神の黒瑪瑙細工を、一緒に買い求めていた金具でつなぎ合わる。その金具には、別の物に繋ぐ事のできる金具がついていた。

 護符であると同時に、装飾品として使えるように仕上げたそれは、剣飾として使われる事を想定している。

 出来上がったそれを見つめながら、王太子との厩でのやり取りを思い出す。


 ―――次は形に残るものが良い……苦手な刺繍細工でも構わぬぞ。


 苦手と決めつけられた事に腹が立った。見た目だけでレッテルを貼られる事には慣れている筈なのに、王太子の言葉になぜか反発心が湧いてしまった。

 その気持ちを引きずったまま意地になって護符を仕上げてしまえば、今度はその熱意が恥ずかしく思えてならない。

 勝利と無事を祈念して一目毎に想いを込めるからこその護符であり、負けたくない一心で作り上げてしまったそんな物に価値などある訳が無い。

 自分の馬鹿さ加減と、そんな意地に時間を費やしてきた徒労にどっと疲れがこみ上げた。

「私は一体なにをやっているんだ……」

 肩を落として深いため息をついた後、つなぎ合わせた金具からリボンを外す。

 刺繍前の予備の紅いリボンを取り出して程良い長さに切り、末端の処理を施して再びそれを金具に取り付けた。

 教会で買い求めたばかりのような味気ない護符には違いないが、これで年納めの贈り物にはなるだろう。

 王太子が言ったように形に残る物にはなったが、護符ならば自分のような半端者が贈っても構わないだろう、とアレックスは思った。



 サラの主であるアレックスの朝は早い。

 城内に師団があるとは言え、時間があれば愛馬の世話をしているようだし、役職が上がってからは任される仕事が増えたとかで、帰って来る時間も遅くなった。その上何やら夜毎針仕事をしているようだし、体調が心配だった。

 いつものようにアレックスの髪に櫛を入れ、首元で括っている最中だった。

「サラ、長い間裁縫箱を借りていて済まなかった。もう作業は終わったから返しておくよ、ありがとう」

「あら、そうなのですね。良い物ができました?」

 針仕事が終わったらなら、これからは少しゆっくりできるのだろう。

 体調を案じていただけに、それが終わったと聞いて胸をなでおろす。

 作りたかった物が何なのかは知らないが、長い時間を掛けて作っていたのだから、納得の行く物が出来たのだろうと思って鏡の中の主の顔を覗き込めば、なにやら浮かない顔付きをしていた。

 淑女教育を受けて女性としての所作を完璧にこなせる主といえども、日常はほぼ男性として生活しているようなものだ。何でもできると思い込んでいたけれど、裁縫は得意ではなかったのかもしれない、と思い至って、内心で己のうかつさを呪った。

 何と声を掛けるべきか、と逡巡していると、アレックスが口を開く。

「うん……良い物ができたよ。心配掛けてすまない」

 良い物ができた、と言っているが、表情がその言葉にそぐわない。けれど、その理由を聞く時間はなさそうだ。支度を終えたらすぐ師団に行かなくてはならない。

 最後の言葉は、一日の仕事を終えて部屋を辞す際に、幾度か小言めいた事を言ってしまったから、それに対して謝っているのだろう。

 主の体調を心配するのは侍女としての役割でもあるのだから、もっと尊大に構えていても良いくらいなのに、アレックスはいつも優しい。

 何を作っていたのかを自分から言ってくれるのを、サラは待っている。自分だけでなく、自宅から連れて入宮したキミーにまで隠しているのだから、余程見られたくないのだろうという事は分かっていたから。

「裁縫箱の中に、失敗作が入っているんだ……処分しておいて」

 アレックスの言葉に、ああ、とサラは得心する。やはり主人は裁縫はあまり得意ではなかったのだ。

「かしこまりました」

 支度を終えたアレックスを部屋の扉の前で見送って、サラは壁際にある書物机の上に置かれた自分の裁縫箱を取りに行く。

 キミーは朝食の片付けをして、引いた食器を調理場に返しに行っている。

 失敗作とやらが多少の手直しで使えるようになるのなら、自分がこっそり手を入れても構わないだろうか、と思案しながら裁縫箱を開けて見ると、そこに短いリボンが入っていた。

 一瞬で瞳に飛び込むその紅い色彩。それを手にしてサラは言葉を失った。

 失敗作? 裁縫が不得意? ―――とんでもなかった。完璧な淑女教育というものがどういうものかを目の当たりにした気分だった。

 紅いリボンに同色の糸で施された刺繍はあまりにも繊細で、目を近づけてよく見ないと、その図案が何を意味しているのかを判断するのは難しい。遠目には単なる紅いリボンでしかないが、精緻に刺された刺繍は星。図案化された二つの星は、王宮侍女ならば誰しもが理解できるものだ。何故なら、王族には固有の御印があるからだ。

 女神アレシュテナの星に連なるのはシルバルドの星―――王太子の御印だ。

 主アレックスは軍に席を置く騎士でありながら、王太子の正妃候補でもある。だからこそ王太子の星を刺繍していたとしてもなんら不思議はない。

 問題なのは、なぜこれほどの出来の物を失敗作として処分しようとしているのかだ。

「お気持ちが揺れていらっしゃるの?」

 無意識に口をついて出た言葉に、胸がドクリと鳴る。

 男性と女性の性の狭間で揺れる主の心を思って苦しくなる。アレックスには、男女どちらとも言い切れない自分を恥じているような節がある。

 一月近く掛けて王太子のために作ったこのリボンを、結局正妃候補としてふさわしくないからと無かった事にしようとしているような気がしてならなかった。

 そっと両手でリボンを包み込んで胸に当ててうつむく。不意に、瞳が潤んだ。

 処分する事など、自分にできるはずがない。かと言って、アレックスの許可もなく女官長経由で王太子に贈る事はもっとできない。

 サラは浮かんだ涙を人差し指で拭いながら、裁縫箱の中にまたリボンを仕舞いこんだ。

「私には捨てられない」

 主の命に逆らうことは許されない。

 サラは信用が一番の後宮の中で、誰にも言う事の出来ない罪を抱えた。


 ―――お許しください。

 

 

 

 冬の足音が近くなり始め、早朝には暖炉に火を入れるようになった頃、マダムカミナは再び助手を伴って後宮にやって来た。アレックスよりは一回りほど年上だろうか、その助手はカミナの娘だとかで、一人では運びきれない衣類を搬入するために連れて来たらしい。

 後宮付きの侍女数名も駆り出され、外宮の検閲所から運ばれた箱の数は、アレックスがオーダーしたよりも多い気がする。

 婦人物よりも嵩が低い筈なのに、紳士物にしては大きな箱が運び入れられてアレックスは首をかしげた。

「マダム、こんなにオーダーしましたっけ?」

「ああ、これは後でのお楽しみ! とにかく直したものと新調したものが合うかどうか袖を通して見てくださいな」

 女性ばかりの部屋の中、わざわざ衣装部屋に行って着替えて見てもらってのくり返しは着数が多くて効率が悪い。

 朝入れた暖炉のお陰で部屋の中はほどよく暖まっているし、アレックスは上半身シャツ、下半身は下着姿で衣装合わせをする事にした。

 娘の方は始めてだが、マダムの前では何度もこうやって衣装合わせをしている。それほど付き合いは長いのだ。

 直された古いものと、新しいものを順に身につけながら、体型に合っているか、動いた時に引きつらないか等を確認する。さすがはカミナの仕事とあって、どれも洗練されて着心地はよく、出来上がりに不満はなかった。

 着替えるたびに、サラとカミナの娘―――ディディーと言う名らしいが、手を取り合って黄色い声を上げている。

 年長者二人はそれに微笑ましい笑みを浮かべ、アレックスは苦笑を浮かべて衣装合わせを進めた。

 依頼した全ての物に袖を通し終えても、やはりまだ二つ大きな箱が残る。

 アレックスがそれに再び疑問を持った瞬間だった。マダムカミナが口を開いた。

「ディー、お出しして」

「はい、お母さん」

 ディディーは頷いて、大きな箱を開いた。中から取り出したのは、明らかな婦人物―――夜会用のドレスだった。

「マダム……これは一体」

「アタシの創作意欲に火が着いた結果というのかしら……アレックス様のイメージとサイズで作ってしまったんですよ。だから、アレックス様にしか着られないのよ、これ」

「いや、でも……私は紳士物しか着ませんし」

「アレックス様は一般的な女性より少し大きめだから、持って帰っても他の方に売ることもできないの、残念ながら。諦めて受け取って下さいな。もちろんお代は必要ございませんよ? 充分に儲けさせていただきましたから」

 カミナはそう言って、いたずらをした子供のように笑った。

 改めてディディーが箱から取り出したドレスは、アレックスの瞳の色と同じ、薄藍をベースにした生地に金色の装飾が施されていた。形も少し変わっている。鎖骨が半分出る首元に、肘までが隠れる袖がついている。きちんと縫われていれば手首ほどまであるそれは、肘から余った布地がドレープを作って下に流れる。袖自体も肩口から肘の上まで割れている為、横から見れば二の腕が覗く。

 身頃は腰元で一旦絞られて、そこから先スカートは緩やかに落ちる。内側に骨を入れないデザインで、ボリュームはない代わりに優美な印象がする。踝まで伸びたスカートは後背に向かって長い裾を引いて、その裾に金糸で装飾が入っていた。

「素敵……」

 サラは無意識なのか、夢見るように呟いて、手を胸の前で握ってドレスを眺めている。

 ディディーは薄藍のドレスを箱に戻し、さらにもうひとつの箱を開けた。

 楽しそうに彼女が引き上げたドレスは、後宮に上がった他の正妃候補が日常着ているような普段使いのドレスだった。

 こちらはライラックの生地をベースにした、落ち着いたデザインのものだった。

「何があるかわらないのが人生でございましょう? 無理に着る必要はないんでございますよ、アレックス様。でも、いざ急に必要となった時に、アレックス様のサイズの物を用意するのは難しゅうございますから、この職人の戯れと思って衣装部屋の隅にでも置いておいて下さいましな」

 伯母に贈られた化粧品同様、日の目を見る事はないような気もするが、そこまで言われては断る事は出来ない。

 カミナの心遣いをありがたく受け取る事にして、アレックスは笑みを浮かべて口を開いた。

「マダム、何とお礼を言えば良いのかわからないけど、受け取っておきます。ありがとう」

「アレックス様が着て下さったら宣伝になりますから、実はそれを期待しておりますのよ」

 そう言ってマダムカミナは、ハハハと豪快に笑った。

 彼女のその様子に、残りの者達も釣られて笑う。

 本格的な冬が近づく、とある日の出来事だった。






※作中に出てくるヴァルキュリアは、北欧神話に出てくるワルキューレをモチーフにしています。北欧神話では神の座所であるヴァルハラから男神オーディンの使者として戦場に遣わされる女性を意味し、本来は女神ではありません。作中のヴァルキュリアはあくまで作中での存在と認識してください。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る