25・閑話

「ああ、これは想定以上だったねぇ……ローゼンタールの血が濃いと言うから油断していたら、シノンの血の方が濃く出ているじゃないか」

 傍らに立つ父がそう漏らしたのを耳に拾って、内心でげんなりしながらその横顔を見つめる。

「夜会の時には男の方が際立っていたけど、こうして見たら確かに女だ……本当に邪魔だね」

 貼り付けたような笑顔を浮かべてはいるものの、いつもその金色の瞳の奥が笑っていないのをシャルシエルは子供の時から知っている。この男の娘なのだから。

 バサリ、と手にした扇を広げ、口元を隠して小声で話す。

「お父様、排除しようなどとお考えになるのはおやめ下さいませね。後宮から追い落とした所で、殿下の師団に居場所はございます。殿下の手の内に入った以上、下手に動くより後宮に留め置く方が安全だと思いますわ……後宮にいる限りは、ローゼンタールは口出しできませんもの」

「ふむ、それもそうか。でも、わかっているね? 私を失望させないでくれよ?」

 周囲に居る者が見れば、それは久しぶりに会った親子の和やかな会話に見えるだろう。

 だが、笑顔で見下ろしてくるその目には、自分に対する慈しみなどありはしない。狂気じみたその笑いは、身震いがするほどにおぞましい。

 この父にとって、家族は手駒にすぎない。

「わかっております。殿下とて馬鹿ではないのですから、今の正妃候補の中からならわたくしをお選びになるでしょう」

「ならば結構だ。その調子で励みなさい」

「はい、お父様」

 家督を継いだ当主の言葉は重い。ましてその子供が女であれば、さらに立場は弱くなる。

 現状自分は父に抗う術を持たない。だから、後宮という父の目が届きにくい場所で上手く立ち回るしかないのだ。

 従順に振舞って、結局文化も風習も違う他国に侍女一人を連れて嫁がされた姉。王族に嫁したといっても、王位継承権を持たない王弟の第四夫人だ。

 ただの側妃として嫁がせるなら、なぜ国内の有力貴族の嫡男を選んでやらなかったのか。

 政略結婚が当たり前だとしても、父の決断には親心も気遣いも感じない。おそらく自分も姉と同じように使われるのだろう。

 姉のように諦めて何かが変わるのならそうしている。だが、そうしてしまえば何も得ることはできない。受け入れたふりをして、この父を欺いてみせる。

 心は、まだ、折れてはいなかった。

 


 めまぐるしい一日だった、と思いながら、アレックスは自室の窓の狭いせり出しに登って、細い月と金色に輝く恒星を眺める。

 神事の衣装は脱ぎ、風呂も終えて化粧は落ちている。暖かい陽気に、下ろした髪は既に乾き始めていた。

 柔らかいクッションを背に当て、膝を立てて座るとつま先は対面の壁にすぐ届くほどだ。細く開けた窓から吹き込んでくる温い風を受けながら、酒盃を傾ける。

 庭園で供された白ワインは、付き合いで口をつけた程度でほとんど飲まなかった。

 王太子が誕生日に贈りつけてきたアイスワインは口に含むと蜜のようにとろりと甘く、芳醇でふくよかな香りがする。

 酔う為に飲むものではなく、その甘さと香りを楽しむためのものだから、一度に口にする量は少ない。翌日の仕事が休みの日の夜にだけ嗜むようにしているから、贈られて数ヶ月が経っているのにまだそんなに減っていない。

 元々甘いものを摂る習慣がなく、味覚が固定され大人になった今となっては、菓子の甘ったるさは苦手だった。だが、身体や心が疲れている時は、自然と甘いものを口にしたくなるものだ。

 今日は朝から気が張っていた。弓を射る事もだが、それよりも女装そのものに精神力をごっそり持って行かれた気がする。神事の射手としてそつなくこなすことだけを考えていたのに、まさか衣装があんなにも本格的なものだったとは。

 また、口に含んでコクリと飲み込む。甘さが、体中の細胞に染み込んで行くような気がする。

 壁に背を預けて、窓枠のへりに頭を傾ける。

 もう過ぎ去った事なのに、頭の中で今日の神事を反芻している。

 射手としての役目はきちんと果たせたと思う。それは、王太子の言葉があったからだと言う事は分かっている。

 ―――俺が誰にも咎めさせぬ。だから、気にせずに射よ……何度でも成功するまで挙げてやる。

 あの言葉があったから、気負っていた心が楽になったのだ。

 だが、ひとつだけ不可解で理解しがたい言葉があった。

 ―――ああ……美しいな。

 美しいと評される事は自分にとって珍しい事ではない。だから、一般的に見て己の顔の美醜については整っているのだろうと思う。問題なのは、それが今までそんなことを言った事もなく、ましてそんな素振りを見せたことすら無かった王太子の言葉だという事だ。

 あの男が何を思ってそんな事を言ったのかが気になった。

 ようやく、正妃候補と心を通わせる気になったという事なのかもしれない。

 あの王太子なりに自分の義務を果たそうと努力しているのなら、それは喜ばしい事だ。候補として入宮した他の令嬢達にとって良い事だろう。

 杯に残った最後の一口を飲み干して、心地よい疲れに瞳を閉じた。

 


 コトン、と木盤の上を動いた駒が微かな音を立てる。

「それはまた、運命的な二つ名を付けられたものだねぇ」

 国の中枢に要職を得てから忙しく、こうして父と盤を挟むのは久しぶりの事だった。

「運命的、ですか」

「薔薇園の蜜蜂とは言い得て妙だと思ってね」

 年をとって髪は色味の薄い金から完全な白髪に変わってしまったが、優しい眼差しの若葉色の瞳は変わらない。

 老いてなお強い父の一手に、先の展開を読んで思案する。

「私はあの子は男としての転換を受け入れるのだろうと思っていたのだけど、わからなくなってきたね。本当に、一番読めないのは人という生き物だね」

「それは、アレックスが女になるという事ですか」

 父の穏やかな表情からは、何も読み取る事はできなかった。

 それでも、数奇な運命を背負った妹の子を誰よりも案じているのはこの父かもしれないと思う。こういう物言いをする時の父の言葉には、無駄というものが存在しないからだ。

「さてね……ない、と思っていたのが、もしかしたらそれもありえるかもしれないという程度だけどね。だけど、もしもあの子が女性への転換を選んだら、その時はきっと大きなものが動くような気がするよ」

「大きなもの、ですか。それはまた抽象的ですね」

 会話をしながらも、次の一手を指す。コトン、とまた駒が木盤を鳴らす。

「マリィのためにと思っていたものを、アレックスのために使うことになるかもしれないねぇ……まぁ、それも我が家の方針には合致しているから構わない。お前も準備だけはしておきなさい。いざと言う時に動けるように」

「もちろんです。マリィに頼まれていますから」

 そうかい?と父が穏やかな笑みを浮かべた。

 カコン、と駒が弾かれる。

「あ、父上そこは」

「次手で私の勝ちだね」

 会話をしていたとしても、手を読み違えたのは自分の未熟さ故だ。

 まだまだ、この父には敵わない。当主として、もっと精進しなければ。

「参りました」



 王都の外れに借りた小さな家の扉を開けると、そこには人気のない闇が広がっている。

 玄関先に置いてあったサラマンダー火打石を使って、部屋の燭台に火を付けて回る。

 近衛に上がる時に隊舎は出なければならなかった。最低限の生活空間と、小さな厩があるその家を間借りしている。

 出迎える者の居ない家は寂しいが、不必要な荷物しがらみは持たない主義だった。

 せめて下男でも雇えば良いのだろうが、思った以上に王太子の側近は忙しく、人を探すどころではなかった。

 それでも独身で仕事だけにかまけていても生活が成り立つのは王都だからだ。夜中まで食事のできる酒場は開いているし、洗濯屋も掃除婦もいる。休日にまとめて頼んでおけば、洗濯物は玄関先に届いているし、自分が家にいる間に掃除も短時間で終わる。そもそも家には寝に帰るようなものだから、たいして散らかる事もないのだが。

 唯一の不満は風呂だけだ。隊舎に居た時は風呂炊き専門の下男がいたから、遅く帰っても温かい湯に浸かることができたが、今はそれができない。

 仕方なく、井戸から汲みおいた冷たい水を浴びるのみである。

 疲れて帰って来て自力で風呂を沸かす事などおっくうでやりたくもない。

 その水浴びすら、今日は面倒だった。隊服の上に羽織った外套を脱ぎ、上着と剣帯も同様にして応接セットの椅子の上に投げ置く。

 小さなテーブルを挟んで置かれたカウチに身を投げ、天を仰いでため息をつく。忘れたい光景が焼きついてしまった両目を利き腕で覆った。

 目を閉じれば、今夜見たものが鮮やかな色彩を伴って蘇る。

「はは……ははは」

 乾いた笑い声が静まり返った空間に響く。

 女の代わりはいくらでもいると王太子に言ったのは自分自身だ。その舌の根も乾かぬうちに、嵐のような劣情を抱いた。

 アレックスが女性近衛の代役で神事の射手に選ばれたのは知っていた。もちろん、練習時も側近として王太子の傍に控えていたからだ。

 だが、神事の衣装で着飾る事までは想定していなかった。王太子ですらあの状態だったのだから、少し考えればわかる事だったのに。

 不意打ちで目に飛び込んできたアレックスは、空恐ろしいほどの美貌だった。

 男装の状態でも人目を引く美形である。本気で着飾れば、並の女などではない事など当たり前だった。

 尉官時代に茶化して胸が薄いなどと言った事もあったが、そんなものは瑣末な事だった。

 月明かりを浴びて佇む姿は、闇が輪郭をより強調して鳥肌が立つほどに美しかった。

 半分女性なのだと言われていても、自分が一番それを信じて居なかったのかもしれない。

 あれを見てしまった後では、王太子に呼び出された日と同じことはもう言えなくなってしまった。だが、一度吐いた言葉はもう飲み込めない。

 そして、自分の手には入らない事が確定してしまった。あれを見たのは王太子も同じなのだから。

 なんと不毛な恋だろう。

 ―――本当に、救いようがない馬鹿だよセーラム……お前の恋路は茨の道だよ。その道の先に救いなんかない。

 出来の良い従兄弟の忠告が頭の中を駆け巡る。

 それでも、諦める事はできない。アレックスが男である事を望むなら、同僚としてでも傍に居たいと思う程に。

「お前の言うとおりだよ、ルカ」

 返す者も居ない空間に、己の声が虚しく響いた。

 


 セーラムが側近になったおかげで滞りがちだった政務が早く片付くようになった。

 その分、空いた時間に師団で鍛錬をしたり、アルファルドを走らせたりしている。

 いつものようにベリタスを伴って師団の厩舎に行く。

 出口で待たせて舎内に入り、通路を歩いて行くと、相変わらず全く心を許さない黒いヤツがいる。

 馬房の前で立ち止まって、そいつの瞳を真っ向から覗き込む。

 苛立ったように耳が後ろに寝る。前足も動きたそうにしているのが分かった。土を掻かないだけましなのかもしれないが、ここから一歩でも近づこうものなら、暴れだしそうな気配があった。

 それでもこちらは一歩も引く気はなかった。

「俺はお前の主の主人だぞ。その態度を改めよ」

 戦場で敵を前にした時のように、瞳を見据えたまま闘気を纏った。

 殺気には敏感なのだろう。

 一瞬でそいつは歯を剥いた。カッと口は開き、荒々しい鼻息を吐きながら前足が激しく馬房の床を掻く。尾が苛立たしげに大きく振られている。

 ―――わかりやすいヤツ。

「覚悟しておけ、俺は折れてなどやらぬ」

 厳しい表情のまま、ぶるる、と荒く鼻を鳴らしたそいつを一瞥して、その場を離れる。

 背を向けた瞬間、ドカッと背後で大きな音が鳴った。

 馬房の柵を前足で蹴った音だった。

 ニヤリ、と笑ってやる。

 なつかないその姿が、飼い主そっくりだと思って楽しくなった。

 勝負はまだ、始まったばかり。だが、負けてやる気などさらさらなかった。

 馬もその主も自分になびかせてやる、とカイルラーンは思った。

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