24・波紋
「良いこと? どんなに普段あなたが男の子のように生活していたとしても、スカートを履いたら女性なのよ。歩き方、仕草、視線、髪の一筋まで、完璧な淑女でありなさい。あなたがどんな体を持っていたとしても、そんな事は瑣末な事なの。大事なのは、女性たらんとするその姿勢よ」
遠い日の記憶の中の、シノンの伯母の言葉が頭の中に浮かぶ。普段は優しいのに、淑女教育に関しては厳しい人だった。それと同時に一切の妥協を許してもらえなかった人でもある。だからこそ、今こうしていても不安を感じないのもまた事実だった。
同年代の子供と同じような生活はできなかった。騎士になるための訓練に淑女としての教育。そのどちらをも同時にやらなくてはならなかったからだ。だから、伯母の子である従兄弟達と遊んだ記憶もない。
それでも、得られなかった時間を惜しいとは思わない。祖父に、父のような騎士になりたいと言ったのは自分だし、女性としての未来に備えて淑女教育を受けるのを納得したのも自分だ。
支度部屋の扉の前で立ち止まって、瞳を閉じる。再び目を開くとき、己は女へと切り替わる。どんなに不本意であったとしても、頭の天辺からつま先まで、細胞を入れかえるかのごとく女になってみせる。
再び、瞼を開く。
「参りましょう」
アレックスは傍らに立つ侍女に声をかけた。
内宮付き侍女は大きく目を見開いて、かしこまりました、と頭を下げて扉を開いた。
支度について来てくれたキミーとサラは部屋に戻るまではここでお別れだ。自分の姿は先ほどゆっくりみてもらった。だから、もう振り返ったりしない。
先導する侍女について、内宮の廊下を歩く。神事の為に駆り出されているのか、他の侍女の姿はない。人の気配の途絶えた廊下に、ただ微かな衣擦れの音だけが響く。
廊下から庭園へ出る通路に差し掛かると、視界には夕日と宵闇の混ざり合った空が広がっている。
今夜の神事には全ての王族と正妃候補全員が参加する事になっている。必然的に、それを警備する近衛や騎士団員も多く配置されている。
通路から庭園に足を踏み入れ、しばらく歩いて行くと、そこには既に多くの参加者の姿があった。
そこかしこで、悲鳴のような甲高い嬌声があがる。自分に視線が向けられているのが分かる。
陽が落ちた時の為にすでに外灯に火は入れられ、神事が行われる池までの通路の両脇には足元を照らす角灯が配置されている。
その通路の中ほどまで案内されて歩いて行くと、既にそこには神事の衣装を纏った王太子が立っていた。
それを認めた侍女は、一礼して去って行く。
「お待たせいたしました、殿下」
アレックスを見たカイルラーンの瞳が、驚いたように見開かれる。金色の光彩が、外灯の明かりを拾ってきらめく。
「ああ……美しいな」
王太子の言葉に、一瞬睫毛が震える。
「お褒め頂き光栄です。お世辞でもわたくしにはもったいないお言葉です」
「世辞など言うとでも? ……俺はそれほど器用ではない」
一瞬、不快感を顕にするように眉間にシワが寄る。
「それは失礼いたしました。ありがとう存じます。殿下もよくお似合いです」
こういう場合の常套句を返すと、カイルラーンは「ああ」とだけ応える。
視線の先の王太子は、裸の上半身の肩から、アレックスのガウンと同じような素材の広い幅を絞った布を斜め掛けにしている。その布は帯を使って腰の位置で固定してある。
下には、青海を思わせる柔らかな生地の蒼いズボン。ややゆったりとしたその裾は足首で絞られ、素足にサンダルを履いている
たくましい二の腕にはバングルをして、髪は三つ編みにまとめられている。
アレックスは、その素肌に刻まれた古い傷跡を見つめる。全てもうふさがっているし、癒着した跡は肌と同色に馴染んでいるが、大小様々なそれらが、戦場を駆け抜けていた証だった。
どんなに鍛えていても、そこが自分とは決定的に違う所だ。実戦経験に裏打ちされた強さが、この目の前の王太子にはある。
「表情が硬いな……緊張しているのか」
通路の先に広がる水面を見つめて、カイルラーンが問う。
「ええ、多少は……大事な神事でございますから」
アレックスもまた、視線を遠くに流して答える。
「神事など所詮人が作り出したものにすぎん。国教として信仰を形にした事に意義はあるのだろうが、それを失敗したとて女神は咎めぬだろう。ましてお前はその女神の祝福を受けた者だ。俺が誰にも咎めさせぬ。だから、気にせずに射よ……何度でも成功するまで挙げてやる」
声を聞いたのは幾度目だろう。耳に静かに沈んでひどく落ち着くその声に、トンと胸が一度だけ鳴った。
ああ、とアレックスはゆっくりと目を瞬く。
どんなに横柄に見えても、こういう所が、この人について行こうと思わせる部分なのだろう。
夜会で初めて話した時は、いっそ不快なほどだった。けれど、もうそうは思えなくなっている。
この王太子の為に働けるのなら、それも悪くはないだろう。
「お心遣いありがとうございます。精一杯務めさせていただきます」
話している間にも、夕日はゆっくりと沈んで、空は藍に薄墨を流したように暗くなって行く。
高い位置に金の光を放つ女神アレシュテナの星が昇ったのを合図に、神事は始まった。
ドンと低いドラムの音が響いた。
二人は池に向かって深く一礼をして、池の淵に沿って左右に分かれて歩いて行く。
リハーサル通り、アレックスは神事用の弓の置かれた場所に立った。
弓を引きやすいよう足を開いて、そのまま一つ息を吐き出す。
近衛から火矢を受け取ってつがえる。まだ弦は引かない。
王太子の準備も整ったのだろう。また、どこからかドンと闇の中にこだまする。
それを耳に拾って、弓を構えて弦を引く。弦の強い反発が利き腕に伝わって、弓がミシミシとしなる。
視線の先で、外灯が形取ったシルエットが弓の形を変えるのが分かった。
今日に至るまで、瞳に、脳に、焼き付けるようにして見続けた姿だ。いつ矢を解き放てば良いのかは感覚が知っている。
それが、今―――
シュッ、と弦を震わせて、放たれた火矢は闇を切り裂いて行った。
対岸から放たれた王太子のそれに、巡り合って炎を上げる。舐めるように覆った赤が一瞬途切れると、高い場所でそれは弾けた。
ザアアと雨が降るように水面を弾きながら、仄白い燐光が空を彩って落ちていく。
ほっと胸をなでおろして眺めたそれは、至極幻想的な光景だった。
構えていた弓を下ろす。
「おつかれ様でした」
何も問題はなく終えられたのだろう。背後から掛けられたその声は、先ほど火矢を手渡してくれた近衛のものに違いない。臙脂の隊服を着たその男に弓を手渡す。
「ありがとうございました」
儀式が滞りなく済めば、庭園に戻って良いと言われている。近衛に礼を言って、アレックスはその場をあとにする。
池の淵を歩いて行くと、向かい側からカイルラーンが近衛を伴って歩いてくるのが見えた。近付いて来るその近衛の顔に、目を見開く。出世して所属を移動していったセーラムだった。まさか王太子の側近に上がっていたとは。だが、それが分かった所で会話を交わす事はできない。今宵の自分は、神事の相手役を務めたとはいえ正妃候補だ。まして、職務中のセーラムの仕事の邪魔をしてはならない。
王太子に道を譲るために、その場で一旦立ち止まる。顔を伏せて行き過ぎるのを待つ。
角灯が照らす足元の視線が二人が通り過ぎたのを確認して、アレックスは遅れてそこからまた歩き出した。
神事を眺めていたのだろう、庭園の中程で令嬢たちが固まっているのが見えてくる。
先にそこに着いた王太子が囲まれるのが見えた。
自分の役割は弓を射ることだけであるはずなのに、このあとの関連儀式が終わるまでは帰ることができないらしい。
毎年六月の今頃がひときわアレシュテナの星が高く強く輝く。王家にとって毎年欠かすことができないこの神事は、国の興りを記した神話と頭上に輝く金色の恒星に由来している。アレトニア王家は、その金色の光を放つ女神星と同じ色の髪と瞳を受け継ぐことが多い。金色の瞳は特に、王家にとって神聖なものなのだ。
天から至る道を造り、星に祈りを捧げ、水面に女神への感謝の供物を流すことまでが一つの儀式となる。
星を眺め、酒盃を傾けながらの歓談がある。その後に全員で蝋燭と供物を池の淵から流すのである。
退屈なだけの時間が早く終われば良いのに、と一団から離れて一人佇んでいると、そこに見知った者たちが近付いて来る。
「こんばんは、アレックス様」
声を掛けてきたのは、シャルシエルの茶会に招かれていたキティだ。
その後から、ビビアンとイデアも共にやってくる。今日はシャルシエルは共に居ないようだが、正妃候補として入宮しているとはいえ王族なのだから、それも当然の事だろう。
「こんばんは、キティ様。ビビアン様とイデア様も茶会以来でございますね」
「儀式の射手役おつかれ様でした。びっくりいたしましたわ」
一足遅れてやってきたビビアンが言う。
そうそう、と同時にやってきたイデアが頷いている。
「茶会のときも素敵でしたけど、今宵はまた一段とお美しくていらっしゃって」
うっとりするように小柄なキティが自分を見上げている。
「あのときは今のこのお姿は想像できませんでしたわ……いえ、こうして見ると、このお姿が本来のアレックス様なのかと思ってしまうくらいですけれど」
三人娘は「ねえ」と同意しあっている。
「本当に不思議なお方ですわ、アレックス様。どちらが本当のアレックス様なのか、わたくしたち興味深々ですわ」
イデアが力説するのに、返す言葉がなくて苦笑する。
何と返そうか思案し始めた所で、三人娘の背後から変声期途中の子供の声が掛かった。
「僕もその事には大変興味があります」
声の主に気付いた三人娘が輪を開けると、そこには近衛を伴った第二王子サルーンが立っている。
「ご令嬢方こんばんは。……お話の邪魔をしてごめんなさい」
サルーンの挨拶に、四人はその場で静かに淑女の礼を取る。
「いいえ、邪魔などではござませんよ」
家格的にも政治力学的にも自然な流れなのだろう。ビビアンがその場を仕切るようにそう返したのに、全員が肯定の笑顔を浮かべる。
「今宵は雲一つない快晴でようございましたね。星渡しの儀も楽しませて頂きました」
「ええ、とても幻想的でしたわ」
話題に困った場合は無難な会話からというのは鉄則である。イデアの言葉に、キティが頷く。
「僕も子供の時から毎年神事に参加していますが、あの難しい儀を仕損じることなく終えられたアレクサンドルには感服します」
また、不用意にこちらを褒めるような事を言っているのに、内心でヒヤヒヤする。
相変わらず子犬のようにいたいけな瞳を輝かせて言い募るのを見ると、たしなめる言葉を忘れそうになる。
「殿下、ありがたいお言葉ですが、過分なお褒めのお言葉はお控え下さいませ。他の臣のみなさまに恨まれてしまいそうですわ」
暗に、贔屓されたら反感を買う、と遠まわしにたしなめた事になる。
「僕は世辞を言っている訳ではないのだから、恨むような者がいるとするのならその者が狭量なだけです。貴女はそれだけの事を成し遂げたのだから、もっと胸を張っていい」
ここは素直にそれを受け取って置くべきなのだろうが、第二王子の言葉に居心地の悪いものを感じてしまう。
同じ言語を話しているのに、伝わらない事への気持ちの悪さというのだろうか。
それも仕方のないことなのかも知れない。サルーンはまだ十二歳だ。人の言葉の裏を読む事は経験が必要だし、病弱で人と接する機会が少なければなおさらだ。
「まぁ、それはありがとう存じます。わたくしも自分の役目を無事終えることができて安堵しております。お言葉を励みに今後も精進いたします」
わかるものが聞いたならば、それは手本通りの義務的な返答に過ぎなかったが、サルーンはそれに気付かなかったように、鷹揚に頷いた。満足したような笑顔には違和感しかない。
会話するという意味では、兄である王太子の方は話の脈絡はないうえに高圧的で横柄だが、それでも意思の疎通はできていると感じる。
子供特有の無邪気さがそうさせるのだろうか。本人はともかく、巻き込まれて周囲に足を引かれる事を警戒しなければならないな、とアレックスは思った。
侍女がトレイに載せた酒盃をそれぞれに渡し始めたのを機に、会話は一度中断される。
銀のゴブレットに注がれた白ワインの水面に映る女神星が、漣の上で揺れていた。
サクサクと庭園の芝を踏む足音が近付いて来る。一拍遅れて、シュルシュルと衣擦れの涼やかな音が耳に届く。
来たな、と心の中で呟けば、思った通り耳に心地の良い声が鼓膜を震わせる。
「お待たせいたしました、殿下」
その言葉に振り返ると、そこに立つ女の姿に一瞬で目を奪われる。
「ああ……美しいな」
思わず口をついて出た己の言葉に内心で驚愕する。
今、己は一体何を言った。
一瞬、震えるように伏せられた睫毛の一筋まで、なんと神々しい事か。
紅を引かれた薄い唇が、本心を隠した無難な切り返しを紡いだ事に苛立つ。
「お褒め頂き光栄です。お世辞でもわたくしにはもったいないお言葉です」
話し方までもが女性へと変化している。声色も、いつもより柔らかく己の内側をざわつかせる。胸の内側を乱すこの感情は何だ。
「世辞など言うとでも? ……俺はそれほど器用ではない」
苛立ちに、眉根を寄せる。
「それは失礼いたしました。ありがとう存じます。殿下もよくお似合いです」
「ああ」
返された言葉にではなく、その気持ちを何と呼ぶのかを自覚した己への言葉だったが、アレックスはそれを返答と受け取ったようだ。
だが、今はそんな事はどうでも良かった。
心をどす黒くそめたその感情を恋と呼ぶのなら、恋とはなんと禍々しいものか。
アレックスの立場では、心をさらけ出すような返答などできるはずがない。それでも、そんな当たり障りのない言葉など聞きたくないと思ってしまう。
―――もっと、心を見せろ。
本心を顕さない美しい横顔が、若干いつもより強ばっているような気がした。
「表情が硬いな……緊張しているのか」
人目など気にせず、表情の動く様を見ていたい。だが、とっさに理性が働いた。
何もかもを投げ捨てて、心のままに動いてしまいそうな自分を宥め、凪いだ池の水面を見つめる。
「ええ、多少は……大事な神事でございますから」
―――もっと、声を聞かせろ。
言葉を尽くせば、この不毛な距離は縮まるのだろうか。
セーラムの言った言葉の意味がようやく理解出来た気がする。想いは、理屈ではないのだ、と。
「神事など所詮人が作り出したものにすぎん。国教として信仰を形にした事に意義はあるのだろうが、それを失敗したとて女神は咎めぬだろう。ましてお前はその女神の祝福を受けた者だ。俺が誰にも咎めさせぬ。だから、気にせずに射よ……何度でも成功するまで挙げてやる」
幸いにも、儀式だから今は護衛が近くに居ない。それでも、己の立場ではそれが精一杯の言葉だった。
なりふり構わず想いを告げることができるなら、どんなに気持が良いだろうと思うのに。
「お心遣いありがとうございます。精一杯務めさせていただきます」
最後の言葉までもが、手本のような定型文でしかなかった。
人を愛することを、心を寄せる、と替え表したのはよくできた言葉だと思う。
想いを伝えたい、心に触れたい、華奢な体を抱きしめたい―――
笑ってしまいそうになるくらい貪欲で、片恋に踊る自分は滑稽だった。
それでも、雁字搦めの己の心に剣を突き立てて、黒い幕を切り裂いたその鮮やかさを心地よく思ってしまうのだ。
解き放たれた心を、もう留めることはできないだろう、と思う。
この美しい女神を手に入れる為ならば、万難を排すことも厭わない。それを面倒だとは思わない。周到に網を張り巡らせて、この手の中に落ちてくるように動いて見せる、とカイルラーンは思った。
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